小峰大堀切
こみねおおほりきり
城山公園の慰霊塔の裏側には小峰御鐘ノ台大堀切と言われる堀が残ります。
この堀は北条三代目氏康の代に築かれた三の丸の堀に当たります。
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場所は小田原駅から西に向かって歩いて20分ぐらいの距離です。
この堀のある位置は西に小峰御鐘ノ台から箱根外輪山へと繋がり、
小田原城内は山ノ神台、八幡山、天神山と3つの尾根筋に別れる重要な場所です。
ここを断ち切ることで3つの尾根筋を防衛しようとのことでしょう。
戦国時代の小田原城は上杉謙信や武田信玄など名立たる武将の攻撃を受け、
これを跳ね除けていますが、現在の二の丸付近まで攻め込まれてしまいました。
この相次ぐ来攻の反省から三の丸が整備されたと考えてられています。
そして、天正18年(1590)の豊臣秀吉の来攻への備えとして巨大な総構と発展します。
1995 小田原市史 別編 城郭より加筆、着色
画像は小田原市史に掲載されている縄張り図を元に作成した縄張り図です。
ここまで紹介した小峰御鐘ノ台大堀切は実は東堀と言われる堀で、
現存する国内の空堀では最大規模と言われています。
小峰御鐘ノ台大堀切は東堀、中堀、西堀と3本の堀があり複雑な構造です。
北條五代記にも3重の堀を築いたとの記述があります。
防衛上、最も重要な場所として3重に複雑に堀を巡らしたと考えられています。
以下は縄張り図に番号を振りましたので、
縄張り図を見ながら画像を見てください。
@東堀の堀底は遊歩道として公開されています。
大きさがわかりにくいので私が実際に堀の中に入ってみました。
A城山公園側の土塁です。
画像右に道路があり、断切られてますが、
かつてこの土塁と東堀、中堀はそのまま毒榎平北堀へと繋がっていました。
かなり大きな土塁が続きます。
B土塁が一度断切られています。
はっきりとは言えませんが、木橋があったかもしれません。
C土塁が一度断ち切れた場所の真下の堀底です。
盛り上がっているように見えますが障子堀の畝の可能性があります。
江戸時代の2度の富士山の噴火など400年以上の歳月がその姿を封印してしまっています。
画像は山中城の障子堀です。
障子堀はこのように堀の中を畝や格子で区切る堀です。
進入した敵が堀底を自由に歩けないようにするのが目的です。
D一度断ち切れた土塁は再び続きます。
E横矢掛りです。
クランク状に大きく折れ曲がっています。
F堀の終端部です。
土塁の隣の家と比べると土塁の大きさが解ると思います。
東堀終端部には説明板がありました。
国定史跡になったのは戦前ですね。
ここより先は新堀として天神山の尾根沿いに続きます。
市道から相模湾を望みます。
市道から眺めた石垣山一夜城です。
画像左手前の山が一夜城、右の小山は細川忠興陣場です。
東堀は以上です。
次に中堀を紹介します。
G現在駐車場として利用されている中堀です。
発掘調査時の画像です。
この位置まで続いていることが確認されました。
この堀は現在の道路とつながり横矢掛りの構造を残しています。
H現在表面観察のできる中堀です。
中堀から隣の東堀の様子は全く解りません。
攻め込んだ敵は迷ってしまうでしょう。
立派な石が並んでますが、戦国時代のものでは無いでしょう。
堀は現在道路として使われています。
おそらく障子堀が埋まっているでしょう。
人と比較して見ると土塁の大きさが解ります。
I横矢掛りです。
画像右には曲輪を分断する堀があります。
曲輪を分断する堀です。かなりの大きさです。
その奥にさらに深い東堀があります。
東堀側の土塁上から撮影しました。
画像中央に東堀と中堀の間の曲輪を分断する堀があります。
J横矢折れもかなり深く入っています。
中堀の横矢掛けは2箇所もあり、より厳重な守りとなります。
中堀はこのまま毒榎平北堀へと繋がります。
Kこちらは埋め立てられてしまった西堀です。
この北側には堀と土塁が残っているようですが、
これ以上先は私有地ですので見学できません。
残念ですが現在、西堀を表面観察できるところがありません。
堀の大きさは画像ではなかなか伝わりません。
素晴らしい堀です。実際に足を運んで確かめてください。
引用・参考文献
小笠原清ほか小田原市編さん委員会 1995 小田原市史 別編 城郭 小田原市
田代道彌、山口隆、平井太郎 2011北條氏の小田原城めぐりイベント配布資料及び解説
史跡小峰大堀切説明板