牧師エッセイ    
 「十字架の見えるテラスから」2019

 
 十字架の見えるテラスから」(24)      
 2020年度の幕開けをこのような気持ちで迎えようとは誰も予測することはできませんでした。ウィルスとの戦いがとても辛く、長い戦いであることも予測できませんでした。そして、ウィルスが私たちの体を脅かすだけではなく、人と人との関係や心の中まで蝕むものであることを予測することはできませんでした。
 私たちはこの危機をどのようにして乗り越えたら良いのでしょうか。たくさんの食品やマスクを蓄えていても心を満たすことはできません。傷付いた心を癒すことはできません。目に見えないものと戦い、目に見えない心を癒すためには、目に見えない方の力を信じて祈ることしかできません。しかし祈ることこそ、今私たちができる最大の人のための奉仕であり、自分のための癒しだと思います。ローマ教皇が「私たちは同じ船に乗っていることに気がつかされた。」という声明をだしました。私たちは、これまで国の違いや考え方の違いで自分たちを分けていました。しかし今、ウィルスに対して、自分たちは違うという思いは全く無意味であることがわかりました。自分たちだけに与えられた安全な場所はないのです。世界の全員が揺れ動いているなかで、全員が神様に造られた存在であることを知り、共に船に乗る者としてお互いを思い祈っていきたいと思います。
 

 
十字架の見えるテラスから」(23)      

 2月になりました。先日、ある方から「キリスト教について興味がある人は多くいるけれども、教会に行くのは嫌がる人が多い」と言われました。確かに、教会は人間の集まりですから、そこに入っていくことに躊躇される方も多いと思います。
 教会は、イエス様について一人でも多くの方に伝えたいという思いで溢れています。それが、初めて教会に来られた方を驚かせてしまうのかもしれません。信じるということは、伝えたいという思いになります。決して洗脳しようと思っているわけではなく、ただ、自分がゆるされた、救われた喜びを伝えたいという思いだけなのです。それが教会の最大の良さなのですが、なかなか伝わっていないことに反省させられます。教会は、神様とのしっかりとした関係があるからこそ、人間同士のつながりも他の場所にはない良さがあると私は思います。
 悲しかったことや苦しかったこと、反対に喜んだことを共有する機会が教会にはあります。そこで話されることに自分の心が動かされ、一緒に涙を流したり、喜んだりする時間は教会だからこそ生まれる時間だと思います。
 イエス様が5千人にパンと魚をわけ与えたという話が聖書にはあります。5千人が全員満足したと書かれているのです。とても不思議な話です。イエス様がお近くにおられるとき、人間は喜び、満足することができます。教会は、イエス様を信じる人たちが集う場所です。そこで自分の思いを分かち合うとき、私たちの心は癒され、満たされます。そのような教会の魅力を伝えていきたいと思います。

 

 
 
 
十字架の見えるテラスから」(22)     

 2020年になりました。夏には東京オリンピックがある年だからこそ、日本中が期待を持ってこの年を迎えたのではないでしょうか。2020年が皆さんにとって神様に祝福され、守られた一年でありますことをお祈りしています。
 私はよく手紙を書きます。年末はクリスマスカードと年賀状が重なるので、たくさんの方にカードや葉書を書く機会がありました。文章の最後に新しい年に神様からの祝福と神様のお守りがありますようにと書きました。神様の祝福とは、体の健康や生活が豊かになることを意味しているように思われるかもしれません。クリスマスの場面でイエス様をお腹にやどしたマリアが「あなたは女の中で祝福された方です。」と言われる場面があります。イエス様の母となるマリアは、確かに祝福された女性です。しかし、マリアは突然の妊娠にとても戸惑っていたことと思います。とても自分が祝福されいてるとは思っていなかったことでしょう。聖書が私たちに伝えている祝福とは、人間の目で見ればあまり祝福されていない、むしろ辛いことが多いのです。なぜそれが祝福なのかといえば、それは神様に選ばれて、神様のご用に用いられたからです。神様に用いられていると思う時、私たちを守ってくださる神様を近くに感じることができます。それが何よりの祝福なのです。新しい年にそのような経験ができるようにと祈りつつ手紙を書きました。
 神様の祝福はオリンピックがある年もない年も与えられます。華やかな舞台とは対照的な場所にも神様の祝福があることを覚えて一年を過ごしたいと思います。


 

 
十字架の見えるテラスから」(21)    

 12月になりました。暖かい日々が続いていましたが、急に寒い風が吹き、心のなかまで冷えてしまいそうになります。そのような時、みなさんは暖かくなるために何をされますか。

 先日、教会のなかまが北海道へと転勤になりました。私たち夫婦は、最初に赴任した教会が札幌にある麻生教会でした。北海道の冬は想像したよりも厳しく、どう過ごしたらよいのか、服装さえわからなかったことを思い出します。教会の皆さんや、ご近所の方々がいろいろと教えてくださいました。北海道で暮らしてきた方は、冬の過ごし方をよく知っておられました。いつも思い出すのは、雪がたくさんふるので、雪かきを一生懸命やって雪をせめて教会の門の前だけでも無くしたいと思いました。でも、いくらやっても雪は次の日の朝同じくらい積もってしまいます。ふと見ると近所の方は、雪を無くすのではなく、固めておられました。雪とうまくつきあっていく術を知っておられるのだなと感じました。寒い冬にも、人と人とのつながりは暖かさを与えてくれるものでした。

 北海道へと赴任する友を賛美歌とお祈りで送り出す。いつまでもその方の心に暖かいものとして残っていたらいいなと思います。体の暖かさと心の暖かさはつながっていると思います。食べ物や着る物で体を暖かくし、心は神様の愛と人の愛で暖かくすることができます。クリスマスが近づくアドベントの日々、教会で愛を見つけていただきたいと思います。

クリスマスに教会においでください。お待ちしています。

 
 

 
十字架の見えるテラスから」⑳    

 台風が毎週のように被害をもたらした10月が終わり、11月になりました。台風被害に遭われた皆様の一日一日を神様が守り、復興の歩みが進んでいきますことをお祈り申し上げます。 

 平塚富士見町教会では、1124日(日)に伝道礼拝と賛美の集いを行います。賛美の集いでは、聖歌隊とピアノコンサートを行います。礼拝堂で聞く聖歌隊の歌声とピアノの音色は、心を癒します。私たちの心は、いろいろなことに出会うたびに不安になります。今回の台風19号は「これまでに経験したことのない風邪や雨が降ります。」とニュースで繰り返し言われていました。その言葉を聞くたびに、多くの方が不安を感じられたのではないでしょうか。経験したことのない出来事に出会う時、特に私たちは不安を感じます。その時、私たちは誰に頼るべきなのでしょうか。目に見えない未来を私たちは何を頼りに生きて行くべきなのでしょうか。

 毎年、聖歌隊が歌っているドイツミサ曲の最初の歌詞には「悩みの時、誰にぞ頼らん」とあります。聖書には私たちが一人ではないと思わされる言葉が多くあります。「わたしはあなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」多くの人が聖書の言葉に励まされて生きる力が与えられてきました。 

 1124日の礼拝説教の題を「あなたは誰に頼りますか」としました。礼拝はどなたでも招かれています。ぜひお越しください。

伝道礼拝 1124日(日)礼拝 午前1030

   説教「あなたは誰に頼りますか」

*礼拝に続いて1245分から「賛美の集い」があります。

*昼食は教会でうどんを販売しますので、ぜひ召し上がってください。

 
 

 
十字架の見えるテラスから」⑲   

 先日、本屋さんでたまたま手に取った小説が面白そうだったので買って帰り、読んでみるとキリスト教の教会がよく出てくる内容でした。日本の小説でキリスト教に関することが出てくるのは珍しいので、偶然手にするととても嬉しい気持ちになります。
 『絶唱』という名前の本でした。阪神淡路大震災で被災し、心に大きな傷を負った女性たちが必死に日本で生き、それぞれの理由で大自然が美しいトンガに行き、心の癒しを経験する話でした。トンガは熱心なキリスト教の国です。日本の女性たちは、現地でトンガの教会に通い、信仰に導かれるわけではありませんが、数々の死と大震災で向き合った彼女たちが、死に対して全く違う考えをトンガの人々の信仰から教えられます。小説のなかでトンガの女性が日本人の女性に自分たちの死に対する考え方を次のように言っています。「死はイエス様と同じ世界に住むことが許されたという証しで、喜ばしいこと。だから、死は悲しむべきことではない。親しい人との別れは悲しいけれど、祈りをかかさずにいれば、いずれまた同じ世界に住み、話したり笑いあったりすることができるようになるのだから。」(*)
 私自身を振り返ると、ここまで死に対するキリスト教の考え方を伝えたことはなかったと思います。自然災害が増えるなかで、親しい者を失い、命を助けてあげることができなくて苦しむ残された人々が多くいます。死に対する慰めを日本の教会もしっかりと伝えていかなければならないと感じました。

 *『絶唱』 湊かなえ 新潮社, 2019年。 p122
 


 
十字架の見えるテラスから」⑱   

ようやく涼しい風がふくようになってきました。今年の夏をみなさんはどのようにお過ごしになったでしょうか。
 8月は、毎年戦争があった時代のことを忘れないようにと思わされます。戦争を経験していない自分が大人になり、子どもを育てる立場になった時、二度と戦争を起こしたくないと誰もが思うと思います。そのために戦争の悲惨さを知ることが大切なことです。戦争を経験され、辛く、苦しい体験を語ってくださる方が年を重ねられて、戦争の体験をお聞きすることができなくなってきました。
 数年前に、教会員で戦争を生きられ、三度の空襲に遭った方の体験をお聞きすることができました。空襲から逃げるために走っていると、アメリカ人パイロットが笑いながら爆弾を落とす姿が見えたとおっしゃっていました。小さな子どもが逃げているのに、笑いながら爆弾を落とす。そのお話はとても衝撃的でした。映画などで見ただけではわからない、戦争が人間を狂わせてしまうことがよくわかりました。
 空襲にあい、本当に死を覚悟した時、その方は必死に「主の祈り」を祈ったと言っておられました。当時は教会に通っておられたわけではなく、通っておられた女学校で「主の祈り」を教えられ、学校の礼拝で祈っていたのだと思います。本当に苦しい時に自分の口から出てきた「主の祈り」を今でもその方はとても大切に思っておられます。お尋ねしてお祈りをすると、最後に「主の祈りを一緒に祈りましょう」と言われいつも一緒に祈ります。
 恐れの中に祈りがあったことに、小さな光を見出すことができる体験をお聞きし、希望を持って生きる力が与えられました

 
 
 

 
十字架の見えるテラスから」⑰  

 7月14日に茅ケ崎を中心に活動をされているWIZ Gospel Choirの皆さんのコンサートを行いました。礼拝堂がいっぱいになるほど、近所の方や広報などを通じてコンサートをお知りになった方、教会員のお友達が来てくださいました。
 歌いながら涙を流すメンバーの方がおおく、聞きに来た方たちも泣いておられる方が多くいたと聞いています。日本人はあまり感情を外に出すのが得意ではないように思います。しかし、今の時代は、感情を外に出すことで、心が落ち着くのではないかとコンサートを通して感じました。
 聖書にある詩編には、150の詩が集められています。そこには自分の感情のありのままを歌った詩がたくさんあります。自分を苦しめる者へのうらみ、神様が助けてくださらない不満など、私たちが心のなかに隠している思いまで書かれているのです。人に見られたくないことや隠しておきたいことはたくさんあります。しかし、時には自分の感情を人の前で出すことが必要なのではないかと思います。特に歌を通して神様に怒りや悲しみを叫ぶことは、とても大切なことのように思います。なぜなら怒りや悲しみに私たちは支配されて身動きが取れなくなってしまうからです。神様に向かって恨みや不満をぶつける。それは神様にそのような思いをお預けすることです。神様にお預けして生きていかなければ、私たちの心は怒りや不満、恨みや不安ですぐいっぱいになってしまうからです。神様におゆだねできる安心が与えられます。  

 
 

 
十字架の見えるテラスから」⑯ 
雨がよく降る日々が続いています。お身体が守られますようにお祈りしています。

夏休みが近づいてきました。夏にどのような計画をされているでしょうか。多くの教会には、日曜学校があります。日曜学校は、子どもたちが神様のことを知り、礼拝し、楽しく過ごす場所です。平塚富士見町教会では、この日曜学校をとても大切にしてきました。今でも、多くの子どもたちが毎週集い、礼拝し、楽しく過ごしています。

 日曜学校の一大イベントに、夏休みに行われる夏期キャンプがあります。子どもたちは日曜学校の先生たちと二泊三日一緒に過ごします。

 昨年、一年生になった娘が初めてキャンプに参加しました。行く前は少し不安だったようですが、帰ってくると一回り大きくなって帰ってきました。先生たち(教会員のボランティアです。)ととても強い心の繋がりを得ることができました。小学校で何か嫌なことがあると、日曜学校の先生に相談する!と言うようになりました。夏期キャンプで、自分のことをしっかり見ていてくれる親以外の存在を持つことができたことが、彼女に自信を与えました。先生たちは、子どもたちに神様のことを伝えようと一生懸命キャンプの準備をしてくださいます。日曜学校は、子どもたちに開かれた場所です。キャンプに興味のある方は、日曜学校の礼拝が毎日曜日午前9時からありますので、来てみてください。

 今年もキャンプの準備から神様が守り、子どもたちの行き道、帰り道を神様が守ってくださることを今からお祈りします。

 
 
 

 
十字架の見えるテラスから」⑮   

5月19日の礼拝後に、教会の墓地に行き、墓前の祈り会をしました。相模原にある教会墓地は、とても広い墓地の一角にあります。緑が多く、天気の良い日は空が青く、とてもきれいです。初めて墓地を訪れた時に、一緒に行った子どもたちがとても嬉しそうに走り回っていたことを思い出します。墓地というと暗いイメージがありますが、平塚富士見町教会の墓地は明るい場所にあり、少し遠足にいくような気持ちでいくことができる場所にあります。毎年この時期に教会からバスで教会墓地までいき、先に神様のもとに召された方たちを思いつつ神様に祈ります。 
 年齢を重ねていくと、教会の仲間と共にお墓に入ることの恵みを感じられる方が多いようです。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。」という言葉が聖書にあります。地上で本国がなかったらとても不安になります。それは天上でも同じではないでしょうか。死の後に続く場所にも場所が用意されている安心があります。


 


 
十字架の見えるテラスから」⑭  

新しい年号を迎えた5月になりました。長い連休をどのように過ごしておられるでしょうか。
 先日、教会のメンバーの方で、長く病気の療養をされていて、教会に来られない方を訪問させていただきました。体調も優れず、お一人で過ごされる時間が長い日々のなかで、聖書を改めて読んでみて感じたことを語ってくださいました。「今までの人世のなかで、たくさんの本を読んできたけれども、聖書は真実だと思う。」と静かに語られました。聖書を語り伝える牧師として、とても力づけられました。
 
元気な時に本を読んで励まされたり、新しいことをしてみようと思ったりします。しかし、体調を崩した時や、苦しいことがある時に本当に自分を支えてくれる本がどれだけあるでしょうか。
 聖書は約二千年前に書かれた書物です。古い古い書物です。しかし、苦しい時に真実がここにあると思わされる言葉が書かれています。時代が変わっても変わらない真実がここにあるのです。



 
十字架の見えるテラスから」⑬ 

桜の花が咲く4月になりました。教会では春になるとイースターが近づいていることを感じます。今年のイースターは4月21日です。イースターは、日本でもよく知られる日となりました。
 私にとってイースターは、死の恐れから解放された日です。ちょうど小学校一年生になるころ、夜寝る前に死について考えて眠れなくなることがありました。自分の死と、家族の死が怖くてたまらなかったのです。しかし、日曜学校でイエス様が復活されたことを知った時、死が恐ろしいものではなくなりました。
 小学生に聖書の授業で十字架の話をすると、とても怖がる子が何人かいます。十字架がとても怖いものだと思っています。確かに十字架は怖く、恐ろしいものです。しかし、イエス様が十字架におかかりになり、復活されたことで十字架が暗闇ではなくなりました。そのことをわかってほしいと思い、黒い画用紙で十字架をつくり、十字架のたてのぶぶんを四角にいくつかくりぬいて、そこにキラキラした折り紙を貼ってしおりを子どもたちと作りました。イエス様の十字架は真っ黒ではなく、黒のなかに光輝くものになりました。
 死を恐れている子どもたちとって、イースターが死の恐れから解放され、喜んで生きることができる日になってほしいと願っています。