牧師エッセイ      
「十字架の見えるテラスから」(40)

 
ようこそ!平塚富士見町教会のホームページへ! 
 
 暑い日々、いかがお過ごしでしょうか。
オリンピックが始まりました。コロナウィルス感染者が増加する中、賛否両論ありますが、オリンピックを見ていると、心が熱くなったり、嬉しくなったり、悔しくなったり、日常生活のなかにある不安や緊張する心が解き放たれる思いがします。
 聖書には、競技をたとえにした言葉が出てきます。
「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 9:24)
 人生を競技にたとえるなら、賞を取れたら誰がプレゼンターでしょうか。イエス様がプレゼンターだったら嬉しいですね。イエス様にメダルをかけていただけるなら、最後までイエス様に向かって走っていけるような気がします。
 数ヶ月前に、神学校(牧師になるための学校)で共に学んだ同級生が亡くなったことを知りました。彼女がご牧師館で倒れているところを教会の方が見つけられ、コピー機には次の日の礼拝の週報が残されていたと知りました。最後の最後まで礼拝の準備をしようとしていた彼女の姿が思い浮かび、きっとイエス様は輝く賞を彼女に与え「忠実な良い僕だ。よくやった。」と声をかけてくださっただろうと思いました。それぞれの人生を走りぬきましょう。ゴールには、私たちを迎えてくださるイエス様がおられます。

 
 
 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(39)
 

 教会の庭に、春からいろいろな花が咲きました。花の形や色に種類があるように、花の咲き方にもそれぞれの特徴があることを感じます。日曜学校の子どもたちと一緒にイースターからカモミールを育てました。6月の3週目に毎年行っている「野の花を飾ろう」というイベントで手作りの花瓶にカモミールの花を飾ろうと思ったからです。ところが、葉っぱは茂ってもなかなか花が咲きません。次に百日草の種を植えました。こちらは順調に育ちましたが、6月20日には残念ながら咲きませんでした。結局6月20日には、子どもたちが育てた花は一輪も咲かなかったのです。
 「この日までに花を咲かせる」という人間の思いは、花たちにとっては勝手な思いだったようです。カモミールはまだ咲いていませんが、百日草は今になってたくさんの花が咲いています。神様から与えられた命のなかでいつ花を咲かせるか、どんな花を咲かせるのか、それは人間にはわからないことだと感じました。長く花を咲かせて庭を彩ってくれる花があれば、花は咲かないけれど、大きな葉っぱをたくさん茂らせるものもあります。どれも天に向かって伸びている姿は美しく、見ている者に力を与えてくれます。
 人間の生き方も同じではないでしょうか。どのような花をいつ咲かせるかは、自分でもわかりません。しかし、神様のおられる場所に向かって生きて行く時、私たちは自分でも気がつかずに隣人を喜ばせ、隣人を力づけ、神様のもとに迎えられるのだと思います。

 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。ーだから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」マタイによる福音書6章28、34節


 
 

 
 「十字架の見えるテラスから」(38)
 
 5月最後の日曜日の礼拝前のひととき、何人かの方々から「ワクチンを打ってきました!」と元気に言われました。思えばこの1年半の間、明るい声で何かを語り合うことさえできていなかったのだと感じました。まだワクチンの予約さえ取れていない方もおられますし、様々な理由でワクチンを受けられない方もおられると思います。そのような方々も含めて、本当の回復が世界で進んでいくことを心から願い、神様にお祈りします。
 そして、今苦しみか悲しみの中でどう生きていけば良いのかわからなくなっている方がおられ、教会のホームページを見てくださったら、ぜひオンラインの礼拝も見ていただきたいと思います。生きる力となる聖書の言葉を聞いて、少しでも生きる力になるようにと願っています。

「死の陰の谷を行くときも、
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。」詩編23

目に見える自分は孤独でも、目に見えない方はいつでも私たちと共に歩んでくださいます。目に見えないからこそ、目に見えない私たちの心を励まし、力付けてくださいます。
 今月もお一人お一人の上に神様のお守りと祝福がありますことをお祈りしています。

 
 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(37)
 
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは聖書に書かれているイエス様のお言葉です。重荷とは、自分が抱えている目には見えない、過去に背負った苦しみや悲しみ、今抱えている悩みのことです。イエス様は、あなたが抱えている心のなかにある重たいものを私のもとに来て降ろしなさいと言ってくださいました。

 今、疲れを感じ、自分の心に重荷を持ち、いつも気持ちが辛くて苦しい方は、ぜひこのイエス様のお言葉を聞いていただきたいです。イエス様のこのお言葉に出会う時、私たちは初めて、自分が抱えている目には見えない苦しみや悲しみを置いて生きていいことを知ることができます。

 自分が原因で起こした問題は、自分で解決しなければならないと誰もが思います。周りの人もそう思っていると感じるからです。しかし、イエス様は、私のもとに来て、それらのものを全て置いて、喜んで生きていきなさいと言われました。ただ重荷を置くのではなく、喜んで生きて行くことを私たちに求めておられます。置いてはいけない荷物はありません。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」マタイによる福音書11章28節

 
 
 
 「十字架の見えるテラスから」(36)
 

 新しい年度を迎えて、最初の日曜日がイースターになります。イースターは、イエス様が十字架におかかりになり、三日目に復活されたことをお祝いする日です。死が終わりではなく、復活の命があることをイエス様は私たちに教えてくださいました。

 イースターといえば、イースターエッグの思い出があります。幼い頃は、イースター礼拝の朝、教会の庭に隠された卵を探すのがとても楽しみでした。その日の夜には、イースタエッグを家族で食べました。クリスマスのようなプレゼントや特別な料理があるわけではありません。しかし、春の明るい日差しと花が咲き出す季節だということもあり、イースターはクリスマスよりも明るいイメージがあります。

 イエス様がかけられた十字架は、とても恐ろしい刑です。十字架を思っただけで人は動揺し、恐れを感じたことと思います。ところが、今ではその十字架がアクセサリーになっています。なぜ暗闇の十字架が、光輝く十字架になったのでしょうか。それはイエス様が復活されたことが眩い光に包まれることだったからです。復活は、喜びであり、輝きであり、希望が与えられた日です。大転換が起こった日なのです。

 イースターの喜びが世界中に与えられますように、お祈りしています。

「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」マルコによる福音書16:6  

 
  
 


十字架の見えるテラスから」2018 ①~⑫

十字架の見えるテラスから」2019 ⑬~(24)

十字架の見えるテラスから」2020 (25)~(35) はこちらから読むことができます。