こちらでは教会月報(最新号)等の牧師説教を掲載しています。


5月30日 主日礼拝 説教 
 「 恐れることはない  

 詩    編    32:6~7
ヨハネによる福音書  6:16~21
 牧師 児玉 慈子 

 男性だけでも5千人の人がイエス様が与えてくださったパンを食べて満足した出来事は、カナの婚礼で水をぶどう酒とされた時と同じように、多くの人を喜ばせる奇跡でした。人間は、満足した喜びを経験すると、さらに大きな満足を求めるようになります。弟子たちもまた群衆と同じように満たされた気持ちのなかで過ごしていたと思います。多くの人を満足させ、王にしたいと思うような方の弟子となった自分たちを誇らしく思っていたことでしょう。一方イエス様は、自分の感じたことや自分の思いばかりにとらわれている人たちを離れて、父なる神との対話のために山へと行かれました。静かな場所に行き、人間の思いの中から出て、神様の思いを知るために、祈られました。残った弟子たちは16節で「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ降りて行った。」と書かれています。この湖はガリラヤ湖であり、弟子たちの何人かは、漁師として仕事をしていた場所でした。17節には「既に暗くなっていた」と書かれています。漁師が漁をするのは夜が多いので、漁師をしていた弟子たちにとっては心配はなかったことでしょう。イエス様は一緒におられませんでしたが、彼らは向こう岸へと漕ぎだします。

 18節「強い風が吹いてきて、湖は荒れ始めた。」自分たちの行く手を阻む強い風は、彼らにはどうにもできないものです。それでも彼らは懸命に漕いで、舟が沈まないように、なんとか自分たちの命を守り、陸地にたどり着こうとしています。19節「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ」とあります。1スダィオンは185メートルですので、約5キロくらいは自分たちで進むことができました。しかし、これ以上は無理だろうかと思ったところに、イエス様が湖の上を歩いて舟に近づいてこられるのを彼らは見ました。暗くなっていて見えなかったこともあると思いますが、彼らはイエス様を見て恐れます。彼らの心がこの時恐れのなかにあったことがわかります。恐れと混乱の中にある時、誰が自分の味方であり、安心を与えてくださる方なのかさえ私たちはわからなくなってしまうのです。

 イエス様が湖の上を歩いて弟子たちが乗っている舟のところまで来られる奇跡は、マタイ、マルコによる福音書にも書いてあります。二つの福音書には、恐れている弟子たちにイエス様が「すぐに声をかけられた」と書いています。恐れて、怯えている弟子たちに、イエス様はその恐れからすぐに解放されるために声をかけてくださいました。目がよく見えない暗いなかで、イエス様の声は、弟子たちの心を一番安心させるものだと知っておられたからです。耳でイエス様の御言葉を聞く時、たとえ目に見えなくても、そこにイエス様がおられ、弟子たちを心配しきてくださったイエス様の思いが御言葉を通して伝わってきたことでしょう。

 聖書には、神様がご自分のことをいろいろな方法で人間に示してくださったことが書かれています。ご自分のお姿を表されることもありました。夢で語りかけられたこともありました。人間にとっては、目に見えるかたちで神様が私たちにご自身を示してほしいと願います。しかし、イエス様は、神々しいお姿でご自身を人間の前にお示しになるのではなく、お言葉によって、私たちに語りかけることによってご自身を示してくださいます。「わたしだ。恐れることはない。」人間とは全く違う光輝くお姿ではなく、弟子たちと同じ姿で、弟子たちのもとにきてくださいました。特別な時にだけ、姿をお見せになるのではなく、私たちのそばに来て、いつでもともに歩んでくださるのが私たちが信じる主イエスキリストなのです。

 五千人が満足して食事をした場面のすぐ後に湖での出来事が記されています。みんなが大きな喜びを感じた場所から、すでに暗くなった湖に漕ぎ出しました。湖での出来事は、弟子たちだけが経験した特別な時間であったことがわかります。この後、多くのイエス様のもとに集い、イエス様を自分たちの王にしようとしていた人たちはイエス様のもとを去っていきます。6章66節には「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」と書かれています。多くのイエス様のもとを去っていった人たちと彼らの差は、もしかしたら今日の湖の上の出来事を経験したかどうかなのかもしれません。イエス様が一緒におられないので暗くなった湖で不安を抱えて漕ぎ悩み、強風に恐れを感じていた弟子たちのもとにイエス様は来てくださいました。そして語りかけてくださいました。21節「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地についた。」イエス様が自分たちのところに来てくださった喜びで、イエス様を舟に迎え入れようとしました。ところが、いつの間にか彼らの舟は目的地であるカファルナウムに到着していました。目標に向かって歩んでいても、なかなかたどり着けないことがあります。そのうちに目標が何であったのかがわからなくなってしまうこともあります。一人で思い悩み、ぐるぐると回るだけで前に進めなくなってしまうこともあります。そのような時に、イエス様が私たちと共に歩んでくださることを知り、その御声を聞くとき、いつの間にか私たちはまた自分の目標が何であるかに気がつかされるのです。そしていつの間にか自分たちが気づかないうちに目的地にたどり着いているのです。

 では、私たちの人生の目的地とはどこなのでしょうか。ジュネーヴ教会信仰問答の問一には次のようにあります。「人生の目的は何ですか。」答「神を知ることであります。」問三には次のようにあります。「では人間の最上の幸福は何ですか。」答「それも同じであります。」私たちの目的地は神様を知ることです。父なる神を知るために私たちがたどりつかなければならないのは、イエス様という方にたどりつかなければなりません。弟子たちは、目的地を目指してこぎやなみ、恐れの中にあったときイエス様が来てくださり、イエス様を自分たちの舟に迎え入れようとしたと書いてあります。「迎え入れる」という言葉は「受け入れる」と訳すことができる言葉です。つまり、イエス様を受け入れた。この方を信じ、生きていく。そのことを受け入れたのです。実は、そこに彼らの目的地がありました。イエス様を信じて生きて行くこと、それが私たちの目的であり、最上の幸福であるとジュネーヴ教会信仰問答が言っているように、私たちの人生には目的地が与えられています。私たちの目的地となるために、この世に降ってきてくださったイエス様は、私たちの弱さや孤独、恐れ、不安を共に味わい、共に歩み、私たちに必要な言葉を与えてくださいます。