§菅谷神社天保神輿の歴史§
「西岡田八坂さんの神輿について」 2003.03.27
「平塚市入野 八坂神社訪問」 2003.04.06
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左の写真は平成10年6月に修復される以前の天保神輿である。(菅谷神社パンフレットをコピー) この神輿は§菅谷神社と天保神輿§にも書いたように、国府祭の帰途に馬入川で流された神輿と言 われ、寒川神社から譲渡されたものである。 この神輿について、広報さむかわの「寒川その昔を語る」に「西岡田八坂さんの神輿について」という記事 が載ったことがある。前田喜一さん(明治23年(1890)生まれ)の話の聞き書きである。 それによると、明治42年、神社合祀により菅谷神社に統合されるまでは、西岡田だけで八坂神社をまつ っていた。その神輿は、昔から八坂神社に伝わるものと、天保15年(1844)に寒川神社から払い下げられ たものとの二つあったが、これらを明治29年に作り替えた。その際、神輿職人が持ってきたものと合わせ 三体のそれぞれ良い部品を使って、立派なものをひとつ作り上げて八坂神社の神輿とした。 これが現存する菅谷神社のいわゆる天保神輿である。残った二体についても部品を買い足しながらそれ ぞれに仕上げ、ひとつは大曲の十二神社へ、そして残る一体を「川向こう」に売った。これを売るとき、岡田 の若い衆が一之宮の相模川の河原まで担いで行き、買い手の若い衆が田村(平塚市)側の土手に待ち受 けていたのを鮮明に覚えている。 では「川向こう」とはいったいどこだったのだろうか。そしてその神輿の行く末はどうなったのか。この疑問 をほぼ解明できた調査結果が「寒川町史研究 1998第11号」に掲載されているので、紹介したいと思い ます。 「川向こう」の神社も同じ八坂神社だという、この調査に後日関係してくる入野在住の田城孝治さん宅へ 電話で確認したら4月6日が祭礼だとのこと、その神輿に会えるのを楽しみにして、デジカメ片手に周辺散 歩に行ってきます。 <続きは後日、請うご期待> 2003.03.27 ⇒続きは下記参照。 |
私なりの考察
この話は監物恒夫「浜降祭と神奈川の神輿」では否定的な意見を述べているが、入野八坂神社の神輿の話が
出現する前(1986年初版)の見解だと思う。もう一基の大曲十二神社から南湖仲町八雲神社へ売られた神輿の
話と合わせて、入野の神輿の墨書銘文を証拠に加えると、前田喜一さんからの聞き書きは信頼できるものでは
ないだろうか。
但し、「三体のそれぞれ良い部品を使って、立派なものをひとつ作り上げて八坂神社の神輿とした」の解釈だが、
菅谷神社の天保神輿とそれを基に再興した寒川神社のそれとが類似していることを考えると、寒川神社から下げ
渡された神輿の本体まで解体したわけではなく、外観部分すなわち金物等の飾り物を他の二つの神輿から使い、
一基を仕上げて八坂神社の神輿とした。(明治26年)というのが実際ではなかろうか。
その後部品を買い足して他の二基も仕上げ、それぞれの神社に売却したものと思われる。新しい金具の代金や
古い金具を磨く手間賃の受領書(下記史料5参照)が残っており、そのうちの片方のリスト(部品の数量等)と入野
八坂神社の神輿のそれを比べるとぴったり符合する(田城さん談)とのこと。
入野の神輿の墨書銘文に明治27年7月28日と銘記されており、話の流れが符合すると思う。
本件に関連する資料(主に寒川町史研究1998第11号より)
神輿の中の墨書銘文(入野八坂神社の神輿)
テレビモニターで確認されたもの
「文化九壬申三月吉日再興之 西岡田村」
「東都本白銀町三丁目 東叡山御用」 現、東京都中央区
「大仏師 森光雲」
「嘉永」
「前」
「明治廿七年七月廿八日
これらの文字から、この神輿は文化9年(1812)に本白銀町の仏師森光雲により再興された西岡田村の神輿を
明治27年修理したものであることが推察できる。入野に売却されたのは明治29年頃。もともとこの神輿には「寒川
の方から来たものだ」という伝承があったが、入野にはこれまで記録に残るものは何も伝わっていなかった。
しかし今回これらの文字が確認されたことで裏付けが出来たものである。
史料1(証文之事;譲渡証文)
史料2(一札之事;受け取り証文) 両方とも天保15年辰年6月
この二点は、天保15年(1844)宮山村、すなわち寒川神社の神輿が新調されたので、古いものは西岡田村に
金十五両と神酒一駄で譲り渡したことを示すものである。
参考;酒一駄は金七両(一駄は八斗、1升350文、1斗3500文、8斗28000文)
史料3(積建記)
神輿を再興することになり、氏子一同が積み立てを始めた。誰それが一金 何がしと、36名から109円40銭
の浄財が集まったことの記録が記載されている。明治8年開始。
(寒川町史研究の史料では、氏名と金額は省略してある。)
史料4(御神輿預り之証)
真土村(平塚市)の仏工福田小左衛門と色を塗り直すなどの契約を90円で結んだときのもの。(明治11年)
史料5(御神輿金物仕法帳簿)
明治26年、西岡田の神輿が再度修復されることになった。その際の新しい金具の代金や古い金具を磨く手間賃
の受領書で、大磯の飾り職人三武岩吉から西岡田の総代に宛てているもの。二冊の堅帳からなっており、それぞれ
「一号」「二号」と表紙に記してある。
前述の二基の神輿に必要な部品を明確にするため、「一号」「二号」と別々の冊子に記載されたものと考えられる。
<記載例>
一 孔雀 壱羽 足しんキ
一 破風金物 弐拾枚 巴付 しんキ
一 野筋 拾六枚
一 わらひて 四ヶ所 カスガイ四丁 セン四本
一 燕 四羽
一 唐戸 四拾八枚
「一号」が〆て 金弐拾九円也(部品点数もこちらが多い)
「二号」が〆て 金拾八円五十銭也