南湖仲町 八雲神社の神輿の歴史
 (平成23年)2011.3.7 寸雅爺

 現在ではかなり知られている話ですが、南湖八雲神社の神輿は、合祀されて
菅谷神社となる前の西岡田・八坂神社から大曲・十二神社へ(明治29年)、その
後八雲神社へ譲渡(明治43年)されたものと伝わっています。譲渡されたときは
素木(白木)の輿だったものを、南湖で金箔に塗り直したようです。
 これらの話は、小ホームページに既に紹介していますが、小掲示板に「八雲
神社へいつ頃譲渡されたか?」の質問があり、改めて寒川町郷土研究会の郷土
誌を読み直したら、いくつかの話がでているので、私なりにまとめ直して披露
しておきたいと思います。

<この神輿の生まれ>・・・管理人
 既に、小ホームページに掲載していますが、寒川神社から払い下げてもらっ
たいわゆる天保神輿の傷みがひどいので作り替えることになり、前から八坂神
社にあった輿と神輿職人が持って来た輿の
良いところをとって修理した。
 残った二体についても部品を買い足しながらそれぞれに仕上げ、ひとつは大
曲の十二神社へ、そして残る一体を現在の平塚市入野の八坂神社に売った。

 この話が世に出たきっかけ・・・(昭和61年)
 郷土研究会々員の木村モトさんの努力で、木村家(注)の古文書を見ること
ができ、貴重な書籍や文書の数ある中から御神輿金物仕法帳」が目にとまり
この文書を基に「詳しいことは前田さん聞いて欲しい」といわれて聞きとった
結果判明したものである。
 この仕法帳は、明治26年に西岡田の神輿が修復されることになった際の新
しい金具の代金や古い金具を磨く手間賃の受領書で、大磯の飾り職人三武岩吉
から西岡田の総代に宛てているもの。二冊の堅帳からなっており、各々一号、
二号と表紙に記してある。ほぼ、そのままの状態で残っている入野の神輿の金
具等の照合から一号が入野、二号が南湖の神輿用か?と思われる。
(注)天保神輿の譲渡証文もこの木村家の古文書から発見されたと思われる。
   御神輿金物仕法帳は、さむ川その昔を語る第九集に紹介されています。

 修理の時期は?
 @御神輿金物仕法帳;明治廿六年巳八月吉日
 A神輿の中の墨書銘文;明治廿七年七月廿八日(入野八坂神社の神輿)
 B八坂神社の神輿修理;明治29年(前田さんの話)
 C入野八坂神社と大曲十二神社へ譲渡;明治29年(前田さんの話)
 D神社合祀の布令;明治42年
 E菅谷神社に合祀;明治42年7月23日(岡田、小谷、大蔵の5神社)
 F南湖八雲神社へ譲渡;明治43年(さむ川その昔を語る第九集)
 管理人(注)
 
以上の資料から、@の御神輿金物仕法帳は、天保神輿を修理した後に買い足
した新しい金具の代金や金具を磨いた手間賃の受領書なので、天保神輿の修理
は、明治26年には完了していたと推察できる。
 残りの二基は、Aの銘文から、入野の輿は明治27年に完了、南湖の輿は、
前田さんの記憶に若干の相違が認められる気がするが、明治29年に譲渡とい
うことになろうか?
 

 
以下「さむ川その昔を語る第九集(昭和61年発刊)」に、明治23年生れ
の前田喜一さんが96歳の時に、6歳の時の出来事として聞き語りされたもの
を紹介されている記述の抜粋です。


西岡田
八坂さんの御輿について

<売られた御輿は二基>
 明治42年におふれが出て、お宮さんが合併するめえ(前)は、西岡田の三
町(根下、仲町、大塚)だけで八坂さんをおまつりしてえたんです。おんなじ
(同じ)場所に日枝さんもありましたが、日枝さんは岡田ぜーんぶの神さんで
ね、お祭りもてんでこに(別々に)やっていましたよ。八坂さんは7月15日
、日枝さんは9月29日がお祭りでした。
 菅谷さんは今でこそ立派ですが、その頃は”天の宮”と呼ばれ、松の大木の
下に石のほこら(祠)のようなものが裸のまんまあっただけでした。
 お祭りも、年に一度御神酒をあげたぐらいのものでねえ、合併と言う事にな
って、小谷、大蔵、岡田の西・東、方々の畑を買取って敷地を広くしたんです。

 さて肝心の”おこし”のことですが、おこしを作りけえ(替え)たのは、私が
六つの時の出来事だから、ちゃんと話せるかどうか苦労しちまうよ!
 うちの方じゃあ、寒川神社のおこしを払い下げていただいたんですがねー・・・
・・略・・天保の神輿についちゃあ、故木村慈太郎さんが書いておられんからいい
として、明治29年にね輿を作りけえたのは、どうも払い下げてもらった神輿
が傷んじゃったらしいんだね、そこで三つの輿を三つに作りけえたんですよ。
 ひとつは、めえ(前)から八坂さんにあった輿・・・(イ)
 ひとつは、寒川さんから払い下げてもらった輿・・・(ロ)
 ひとつは、輿職人が持って来たもの・・・(ハ)
 この三つの輿の良いところを全部とって八坂さんの輿にしました。
 残りの二つの輿は、
良いところを全部八坂さんへ持っていかれちゃいました
から、足りねえ部品は新たに買い足してな、三つは三つに仕上げたんですよ。
そうして一つは大曲へ売って、一つは川向こうへ売ったんです。→へ続く

 管理人(注)
 良いところをとって修理とあるが、「御神輿金物仕法帳」に記載の購入部品
から判断すると、三体をばらばらにした訳ではなく、外観部分の主として金物
等の飾り物を外して修理したことが判る。
 寒川神社から譲渡された神輿は、天保神輿と呼ばれているが、江戸中期の作
と伝わっている。正確には天保よりも前か?

 前田さんは、売られた経緯がいかなるものか?
 どの輿がどこへとは言っていないので、詳細はわからないが・・・・・
 天保神輿の調査結果や、上記Aの神輿の墨書銘文、等から推定すると・・・
 (イ)が入野 八坂神社の神輿
 (ロ)が岡田 菅谷神社の神輿
 (ハ)が南湖 八雲神社の神輿 ・・・と判断出来るのではないだろうか?

 →続き
 御輿は宝塔院の一番奥の座敷で作りけえてね、風がへー(入)ると金箔が飛ぶ
といけねえからって・・・・その頃、
小沢常吉さんて人がいられてね、なんてった
って御輿が好きで、仕事なんておっぽり出して輿作りに夢中だったですよ。
 輿職人がどっから来たかおべー(覚え)てませんが、常吉っつぁんとこへ寝泊
りしてましたよ。そうよねー、どのくれえ日数がかかったもんかなあ、何ヶ月
もかかったようにおべーてますが、私は六つでしたが、親父が部落の役をして
ーたから、よく後へとっついてっちゃあ宝塔院の上がりっぱなへかじりついて
夢中で見ていたのはよーくおべーてます。
 だいたい、担いでおっ壊れる場所は決まっていますから、予備の部品が小沢
常吉さんの所に残してあって、こわれると小沢さんへ部品をもらいに行き、自
分たちで直したものです。

 
<御輿のもじりかけ>
 御輿に白い晒しの布をよってかける事をもじりかけと言いますが、
小沢常吉
さんが布しめをやられんと絶対にゆるまねえと評判でした。
 常さんは輿職人からその締め方を教わったそうですが、午前三時に宮立ちを
して一之宮の
八百貞の所まで行くうちに他の御輿はゆるんでしまうのに、八坂
さんの輿は
夜の十時になってもがたっともしなかったそうです。
 管理人(注)
 赤文字の他のみこしは・・・・は、八坂神社以外に複数の神輿が一之宮を通過し
ていることをうかがわせますね。このことからも、他の項にも書いていますが、
「寒川さんまで迎えに行き、供奉して浜まで行った」ことが裏づけられます。
夜の十時になっても・・・村周りですかね?そんなに夜遅くなるまで担いでいた?
昔のわけーし(若い衆)も好きだったんだねえ!?

<輿が川向こうへ売られていった日>
 出来上がった輿は村の若い衆に担がれて、一之宮の河原まで送って行った。
当時、
輿は八人で担ぐと決まってえた。なんでって、「ワッショイ、ワッショ
イ」と走ったんですから、人数が多かったら足がからまっちゃいますから・・・
 それで重てえもんですから途中で交替がないとだめなんですが、大曲から助
っ人を頼んだですよ。大曲は宝塔院の檀家だから身内って感じでね、東岡田は
寺が違うから頼まなかったです。
 私もちゃんと担ぐ様な格好をして、河原まで姉様達と一緒について行きまし
たが、田村側の土手に買い手の若え衆が、ずらーっと並んで待っていたのが、
今でも目に見えるようです。
 そのお輿を売った先は、どうしても思い出せねえ、平塚の金目のいのだなん
て言う人もいられんけんど、どうしても思い出せねえんだよ。

 私等は、浜降祭なんて呼ばないで、”日の出まつり”と言って寒川さんのお
供をして浜へ行き、寒川さんを送りつけて自分の宮へ帰った。村渡りと言って
も八坂さんの氏子の家をまわるだけだから何軒でもねえです。そうよねー人様
はよく三十九軒て言われますけど、本当の所は分からないです。

<大曲へ売った御輿の行方> 
(”寒川その昔を語る”第一集「大曲の昔ばなし」から抜粋)
 語る人;石塚四郎さん 明治42年生まれ

 神社もある程度の財産がないと合併しないといけないと言われました。そこ
で相談した結果、おみこしを売って財産を作ろうということになり、茅ヶ崎の
南湖仲町 八雲神社へ
180円で作ったみこしを千円で売りました。
(下記、管理人;注を参照)
 そして、その千円をもとにして、古かった神社を新しく作り変えたのです。
ですから、こんな小さな部落なのに神社が合併しないで残っている訳です。

(”寒川その昔を語る”第九集から抜粋 第一集を基に郷土研究会の人が記述。)
 明治43年に、荒廃神社は併合せよとの布令がでました。戸数22戸の大曲
村は、十二神社をどこかと合併しなくてはならない運命にさらされました。
 そこで、石坂善太郎氏は神輿を売って神社を守ろうと考えられ、部落の人に
相談されたところ、村民が心血を注いで手に入れた御輿を売るのは反対である
という人が半数もいたそうですが、反対を押し切って八雲神社へ
180円で売
、お宮を守られました。
 本殿、拝殿、鳥居、等を完備し、境内地百五十坪以上と言うお布令でしたの
で、下大曲は田端の貴船神社へ合併されたという経緯もあり、十二神社はよく
護持されたなあと村民の結集力に驚いています。
 

 大曲よも山ばなし
 (郷土さむかわ第13集から抜粋)
 語る人;高橋 市作さん 明治41年生まれ
 
南湖へ譲渡した神輿のことを語っている。

 私の子供の頃は、大曲の部落は上と下とで戸数は40軒たらずでした。それ
でも十二神社にはお神輿がありましてね、その時分にお神輿があったのは
菅谷
神社と十二神社
ぐらいだったのか、浜降祭は替り番こに行っていたようです。
 ところがある年、
浜降祭に行く年ではなかったのに、若い衆が勝手にお神輿
を担ぎ出して、どこだかまで行ってしまった
という話を子供の頃聞いたことが
ありました。
 そんなお神輿だったのに、明治40年代に
維持が出来なくなって、百八十円
で南湖仲町の八雲神社へ売ってしまったのです。
このお神輿は白木だったので
向うでは
金箔に塗り直した
そうですが、このお神輿の下の枠の所には波の千鳥
の彫り物
がしてあるので、今でも見ればすぐ分かります

 その頃、十二神社は藁葺きの屋根でお宮はおんぼろにいたんでいて、子供の頃は
中にもぐりこんで駆けずり回って遊んだほどです。お神輿を売った百八十円を定期に
預けておいたのが、昭和三年には元利合計でちょうど千円になった
のでお宮
を建て直すことになったのです。
 各戸に、二百円、百八十円、百五十円
というように段階をつくった寄付の割り当
てがあったんですが、なにしろ米一俵が八円という時代ですから、百円と言えば大金
なので、皆で一括して今の農協の前身でその頃の産業組合から借金をして、米の取
れた時、蚕の繭が売れた時というように、長い間金を返してきました。
 昭和三年十月六日に御遷宮になったので、それまでは九月三十日だったお祭りを
十月六日にしたんですが、十月では涼しすぎて余興のある夜はもう寒いくらいなので、
一ヶ月早い九月六日にしたんです。 

 管理人(注)
 菅谷神社と十二神社ぐらいとありますが、この当時は合祀前で、岡田は、
日枝神社または八坂神社(両神社は同敷地内)として出御しています。

 日枝神社は、新編相模国風土記稿にみえる神社名では山王社で、別当寺は
馬入村の蓮光寺(ちょん髷塚がある)である。
木村慈太郎さんは、天保より
明治42年までは、西岡田 山王社の神輿、合祀により菅谷さんの神輿・・・
と語っている。


 波の千鳥の彫り物
・・・機会があったら確認してみたいですね。

 若い衆が勝手にお神輿を担ぎ出して・・・
他の項でも似たような話を紹介していま
すが、神輿好きは今も昔も変わらないようですね!現在のように他所のお祭りへ担ぎ
に行くなんてことはなかった時代でしょうから、当時の大曲のわけーしの気持ちが分か
るような気がします。

 180円で作ったみこしを千円で・・・
 
語る人は明治42年生まれの人で、神輿が売られたのは明治43年頃と思
われるので
、自身の経験のように記述されていますが、子供の頃に聞いた話
ではないかと思われますね・・・。
 神輿を売った
百八十円を定期に・・・元利合計でちょうど千円に! 
どうも、
こちらの話の方が正しいのでしょうね?

 大曲で皆が待ちわびていた日
(”寒川その昔を語る”第一集から抜粋)
 語る人;石塚四郎さん 
明治42年生まれ
 1、道祖神祭(1月14日)
 2、飯綱権現さんの日
 3、
浜降祭(7月14日)
 4、村祭り(9月29日)
 これらの”お日待ち(祭りの前日)”に名物の「大曲おじや」が出される。
 管理人(注)
 浜降祭を待ちわびていた様子が伝わってきます。他の項の記述にも出てきま
すが、当時の寒川の人たちにとって、浜降祭が
楽しまれていた様子がしのばれ
ます。

関係ページは
菅谷神社天保神輿の歴史(西岡田の神輿を平塚へ売った話。)
菅谷神社の天保神輿
菅谷神社と天保神輿

参考資料
寒川その昔を語る 第一集(昭和54年3月1日発行)
寒川その昔を語る 第九集(昭和61年11月1日発行)
郷土さむかわ 第13集(平成2年11月発行)
 いずれも、明治生まれの長老から、郷土研究会の人が聞取り調査をして
記述したものである。神輿以外のことでも、当時の寒川の歴史や暮らしが
よく分かる貴重な郷土史です。

現在の神輿画像        今昔物語トップへ
現在の神輿の画像  南湖 八雲神社  平成20年(2008)7月16日 浜降祭で撮影
平塚市 入野 八坂神社  平成15年(2003)4月6日撮影
菅谷神社 天保神輿  平成22年(2010)7月19日 浜降祭で撮影

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