菅谷神社の天保神輿   2011.3.25(平成23年)寸雅爺

天保神輿については、既にいろいろなかたちでアップしていますが、この度、一括編集しました。

 天保神輿に関係するページ
    菅谷神社の天保神輿
     天保生まれの長兵衛が使っていた古箱の中から、寒川神社のみこしを西岡田に
    払い下げた時の書類が見つかりました。
・・・・・天保神輿の詳細
  
南湖八雲神社神輿の歴史
    西岡田で天保神輿を修理した話・・・大曲から南湖の八雲神社へ譲渡した話。
  菅谷神社天保神輿の歴史
    上と同じだが、中郡金田村入野(平塚市)の八坂神社へ譲渡した話が主体。
  菅谷神社と天保神輿
    菅谷神社と天保神輿の概要(小ホームページを立ち上げた初期にアップしたもの)
  蓮光寺とちょんまげ塚
    天保神輿が国府祭の帰途に馬入川へ流された話。乱暴者が丁髷を切られた話。
    浜降祭での天保神輿の画像 その1 その2

    この神輿の内陣には、徳川家・家紋の「葵の御紋(三つ葉葵)」が入っており、このことからも、徳川家より奉納されたか、
  
それに近い神輿であったことがうかがわれます。
(このページ下の方に写真掲載)
 天保神輿
  この神輿は、寒川町指定重要文化財で、江戸時代中期の作とも伝わり、天保9年5月
 (1838)、国府祭の帰路に、梅雨で増水した馬入川へ流失したが、南湖の浜へ引き上げら
 れて、
浜降祭の起源になったと言われる神輿です。

  
天保15年に寒川神社から西岡田村八坂神社へ譲渡され、現在は、菅谷神社の所有
 で、昭和53年に昭和神輿が新調されたときに引退して、本殿に奉安されていたが、
 平成10年6月に合祀90周年事業として修復され、平成25年現在、
今でも担がれて
 います。


  天保15年6月付の宮山惣代より西岡田村惣代中・組頭中・名主中に宛てた証文が現存
 する。これによると、寒川神社の神輿が新規に造られるのに際して、旧神輿が西岡田村の
 八坂神社に譲渡されたことが知られる。

  江戸中期の作と伝わっているので、正確には天保神輿と呼ぶのはおかしいかも知れない。
  天保15年に新調された寒川神社の神輿が、昭和50年に参集殿に飾られたときに、天保
 神輿と表示されたので、菅谷の神輿も同じ様な言い方をしてしまったのかな?

  この神輿の浜降祭への出御
  寒川神社に残る浜降祭書留によると、岡田は明治11年(1878)に迎え神輿で出御して
 以来、大曲と隔年で出御している。この頃の西岡田村は村全体の鎮守である日枝神社と、
 同じ境内に八坂神社があった。
  岡田は明治40年までに迎え神輿も含めて15回出輿しているが、神社名の届け出は、
 日枝神社と八坂神社で約半々となっている。

  明治23年に八坂神社総代から高座郡警察署に宛てた「神輿御渡御許可願い」には、
「取扱人」として西岡田41人、大曲16人の姓名が添えられており、隔年の出輿とい
 っても相互に担ぎ手を出し合っていたこと、東岡田の人は参加していないことが窺える。
 (東岡田が参加しない訳は、宝塔院の檀家の関係だった。他の稿参照) 
 寒川町指定重要文化財(昭和54年12月15日付)
 寒川町 岡田 菅谷神社の所有 江戸時代中期の作と伝わる。
 装飾性に富んだ江戸時代の神輿の典型的な作例である


・鳳凰を頂く宝形の神輿である。
・台座の上に框座をもうけ、四本の丸柱を立てて屋蓋を支える。
・屋蓋は全面黒漆塗りで四方に大形の輪宝金具(屋根紋)を据える。
・屋蓋各面は曲線に流れて軒先が反り、四方の降棟の先は太い蕨手に作る。
・降棟に金銅製宝相華唐草文毛彫り板金を全面に巻く。
・屋蓋の頂部中央には方形の露盤を据え、その上に一段の持送(もちおくり)を重ね、
 座上に真鍮製の鳳凰を立てている。
・露盤の各側面中央部には巴紋金具、その両端には金銅製宝相華唐草文毛彫り金具を
 据える。
・屋蓋の四方中央部に唐破風を設け、上部は雲文彫刻、下方に鳳凰の透彫りを飾る。
 いずれも朱漆に金泥塗りである。
・軒下は唐様詰組とし、長押上に透彫りの流水竜文を配している。正面のみに巴文装飾
 をつける。
・軸部は四本柱・桁・柱間・長押とも朱漆塗り鹿地蒔絵とし、
 四柱には金銅製宝相華唐草 文毛彫り金具に巴文金具を巻いている。
・柱間中央は各面桟唐戸とし、両脇間は透彫りで昇竜・降竜彫刻を飾る。
・台框上四隅に擬宝珠柱を立て、周囲を端垣とし、中央に朱漆塗り雷文つなぎの格狭間
 を配し、各隅には宝相華唐草文の留め金具をつける。
・台框のしたには四隅に台脚(泥摺り)を設け、轅は差込み形式である。
・降棟先端の蕨手上に真鍮製鳩飾りを差込みで置く。
    〔法 量〕
   総 高  222.1cm    最大幅 150.5cm
   台框下〜路盤上面  165.5cm
   台框幅 23.5cm     台框縦 123.0cm
   鳥居高 53.1cm    鳥居幅 65.8cm 
 左の写真は、合祀90周年事業で修復する以前のもの。
  [葵の御紋] サムネイル版です画像をクリック
内陣;御神体のある奥の部分(国語辞典より)
南湖中町出身のSさん提供:平成9年(1997)12月の写真
内陣を囲う襖(ふすま)でしょうか?扉が閉まっている状態では見えないと思います。
 Sさんのメール;以前例大祭前日に神輿の写真を撮りに伺った時、年配の役員の方とお話しする機会があり、一枚写真をいただきましたことを思い出しましたので、その時いただいたL版の写真をデジカメで撮りなおしたものを添付します。確か97年って書いてあったと思います。修復に出した時に撮ったとおっしゃっていたと記憶しております。(掲示板で倉興會Sさんとのやりとりをみて、メールしてくれました。) 
  譲渡された神輿の屋根紋そのままだったとしたら・・・・・
寒川神社の屋根紋
は輪宝だった?

 輪宝の中でも「八方剣」と言うそうで・・・
八方除けと関係あり・・・それは考え過ぎか?
 
 譲渡された神輿の屋根紋は、そのままだったと思われるので、寒川神社の紋は[輪宝]だったのかも知れない?。輪宝はどちらかと言うと寺院に多い紋所ですが、神仏混淆の時代なので、十分
に考えられますね。
 昭和50年、参集殿に飾られた寒川神社の天保神輿は菊の紋章だったが、菊の御紋になったの
は、明治4年5月に国幣中社の社格を得たときからだと思われます。
 なお神奈川県下では、寒川神社よりずっと遅れて、明治15年9月に鶴岡八幡宮が
二番目
国幣中社になっていますが、菊の御紋ではありませんね?


 明治にはいって天保神輿を修理した時に購入した修理部品リスト(御神輿金物仕法帳)の中にも
屋根紋はありませんし、入野及び大曲→南湖へ譲渡した神輿も、両方とも巴ですから、八坂神社
が輪宝だったことは考えにくいです。だいたい、村の小さな鎮守様に神社紋などなかったと思わ
れます。やはり譲渡された神輿は輪宝だった確率が高いですね。
 浜降祭に出御している神輿も巴紋が多いですよ。戦の神様「八幡信仰」からくる国家神道の関
係で、巴紋を強制されたようなことも聞いたことがあります。