高校美術部OBの同人誌「樹」からのピックアップ


 98.6.19 「形式と自由」

 前号、S君のの「読書ノート −禅と日本文化...−」の中で禅の日本文化への影響の

説明として「@禅は精神に重点をおくAその結果、形式を無視し、あるいは蔑視するB精神

だけを見つめていたいという欲求が、わざと不完全な形式を求めたり、儀礼や慣習を否定し

たりする」という所まで読んで、あれ、これは僕の考え、というか感覚に似ている、と思っ

た。背広ネクタイきらい、結婚式葬式きらい、中元歳暮きらい、年賀状きらい・・・でそう

いうことをかなり実践もしているので、僕は基本的に「禅」だったのかなと思い、先を読む。

「Cそれを一言で表現すれば「わび」の精神ということになる。・・・」そうか「わび」の

精神だったのか。「世間的な富や名声に頼らず、しかも心中に時代や社会を超えた価値ある

ものの存在を感じることである。」まったく同感。「飾りけのない単純性を愛し、」そのと

おり。「あるいは超絶的な弧高または弧絶を求める精神のことを言う。」・・・ちょっと待

てよ、こりゃなんだ。僕には弧高とか弧絶という感覚はないぞ。人間社会に対してかなり悲

観的になってはいるが、世間から弧絶しようとは思っていない。だから僕のは「わび」では

なさそうだ。


 僕は慣例・儀礼を積極的に無視しようとしているが「形式」というものはそう簡単に無視

できない手ごわい相手でもある。現にこの文章だって日本語・横書き・黒の活字・B5判縦

という形式にはめ込むことで「樹」に載るのだし。自由度が高いと思っているブルーグラス

音楽も、基本の3和音、2拍子、特定の楽器、ソロ−歌−コーラスを繰り返すという形式の

中での自由に過ぎない。ソロの中でもブルーグラスらしい音使いやフレーズから逃れるわけ

にはいかない。そういう形式があるからブルーグラスという名がつくのであって、これはジ

ャズでもブルースでもクラシックでも同じことなのだ。精神と儀礼の対立は自由と形式の対

立とも言える。心と体の対立と言うこともできる。心は羽ばたいても体は空に浮き上がらな

い。右足と左足を交互に出すという形式によって歩くことができる。心は体に制約される。

しかし心を創り出しているのは他ならぬ体なのだ。音楽や美術でもそれは言えるのだと思う。

ブルーグラスの形式はブルーグラスの体であり、ジャズの形式はジャズの体なのだ。体をよ

く知ることで体を動かす自由が得られる。それは心の動きにつながる。警戒すべきは形式に

頼りきってしまうことだ。ブルーグラスらしいフレーズを並べてゆけばブルーグラスらしく

聞こえ、それで満足してしまいやすい。**派の手法で絵を描けばそれらしく見え、それで

満足してしまいやすい。


 日常生活での儀礼・慣習も同じことなのだと思う。それに頼りきってしまえばある意味で

は楽である。その社会の人らしく生きてゆける。が、自分らしく自由に生きることからは遠

くなる。日常の挨拶から始まって、葬式の付き合いまで様々なレベルの慣習の中で僕たちは

生きている。それらの慣習のどれが必要な役立つもので、どれが余分で弊害のあるものなの

かを点検してゆかねばならない。学校など、今まさにそれが急務だと思う。


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