小文集’2005    新しいものを上にしました。


05.12.2   年 末 年 始

10年位前から年賀状をこちらから出すのをやめた。親戚にも目上にも一切出さない。それでも

昨年は109通いただいた。1月3日をすぎてからお礼状を出す。今度のお礼状には、もうやめ

ましょうと書こうかな。私にとって年の初めは常に「今」、この瞬間! 瞬間、瞬間に新しい生

が始まっている。年の終わりもやはり「今」この瞬間。私が生きてきた最終地点が今だから。


05.11.2  「私」の 発 生 (3)

9月号から序文で「私」の発生について書きつづけていますが、書くことで私の考えと感覚が深ま

っています。前号の文を書きながら、他人が他人でないかもしれないということに気づきました。

さらに「私」という意識は人間以外の生き物にも漠然とした形で、あるかもしれません。とすれば

うちのミケも別の私である可能性があります。いや、生物・無生物を問わずこの宇宙をつくってい

る物質はたくさんの「私」であるような気がします。


05.10.3  「私」の 発 生 (2)

「私」という意識が再び発生したとしても、それは今の「私」つまり西村丈彦とは全く別の「私」

です。それから再発生は未来とはかぎらず過去かもしれません。気がついたら、ある時代のある国

の幼児として自分がいる、ということになります。これは大変まずい、と前号で書いたワケはその

「私」が幸せに生きられる確率が少ないからです。歴史の中に不幸な「私」がたくさんいるような

気がします。


05.9.2    「私」の 発 生 (1)

1947年の地球上に私が生まれ、2〜3年後に「私」という意識が生まれた。やがて私が死んで

「私」という意識も消える。そのあと何万年かのちに(人類がいたとして)どこかの誰かに再び

「私」という意識が発生したとする。意識のない何万年かは、かりにそれが何億年であったとして

も「私」にとっては無いに等しい時間だから、今の私が死んだらすぐに次の「私」が始まることに

なる。これは大変まずい。というワケは次号で。

(教室だよりに掲載した文を、よりわかりやすくするため少し手直ししてあります。)


05.8.1    こ こ だ け は

       ここだけは 平和に また夏を迎えている

       いまだけは 平和に また夏を迎えている


05.7.4     ライフワーク

一週間がはやい、ひと月がはやい、半年がはやい!

もう今年の折り返し点をすぎてしまったんですねぇ。前半期はゴールデンウィークに数枚の絵を

描いただけでした。レッスン回数をへらしたのに・・・。まあ、あせらず徐々に絵を描く時間を

ふやしていこうと思います。自分のライフワークはブルーグラスの教材づくりと絵だと思っていま

す。教材づくりの方はバンジョー・テキスト、マンドリン・テキストと作りすすんで今、ギター・

テキストを作っています。全国の人に使ってもらえると思うと楽しいです。今月中に中級編まで

完成させたいと思っています♪


05.6.6      南 会 津

今年もまた初夏の南会津でブルーグラスを演奏してきました。バンドはブロッサム(木の花のイミ

)。1つのホテルと2つのペンションで夜演奏し、昼間は自由です。2泊3日の中日(6/4土)

は、その舘岩村(たていわむら)めぐりをしました。見どころというのもあるのですが、どこに

いても大きな空間とさまざまな緑がゆったりとして時間とともにあって昔に戻ったような気がしま

した。3日めの夕方、帰りの高速道路から見る都会のビル群が不気味に思えました。


05.5.9     スケッチ

ゴールデンウィークは好天に恵まれ、毎日近場へスケッチに出かけました。車はないので電車、

自転車、足で・・・。平塚の海岸、鎌倉、国府津、松田、開成、根府川を訪れました。

スケッチポイントはあらかじめ決まっているわけではなく、それどころか平塚駅でどこ行きの

切符を買うか迷いながら決めます。電車にのって車窓から、あの海がいい!とか、あの丘から

の眺めがよさそう、ということで下りる駅を変えることもあります。観光名所でない所のほう

が絵になる場合が多いです。なんでもない道がフワッと絵になっていたりします。

絵になっているという意味は私の場合、空間が気持ちのいい形になっている、ということです。

家や樹、山や川それ自体でなく、それらを包む空間に感動します。

ホームページ「西やんギャラリー」に今回描いたスケッチを載せました。


05.4.4      家 族 に 乾 杯 !

 NHKに批判が多いようだがTV番組に関しては少なくとも民放よりはいい番組が多い。

「家族に乾杯!」もいい番組だと思ってけっこう楽しみに見ていた。が、ちょっと疑問を

感じはじめた。何で皆いい人ばっかりなんだ?と。

田舎の人が皆いい人であるはずがない。いじわる婆さんもウソつき爺さんもいるはずなのだ。

偶然であった人が皆いい人だったようにまとめられているが、そういう結果をTV局が先に

設定しているのだ。その証拠に田舎で凶暴な事件がたくさん起きている。田舎はいい所という

幻想はすてがたいのだが。
       


05.1.6      〜 詩 〜

     目の外に青空
      目のこちらは20代の私
     外では数十年が経ったのに
      こちらは数年しか過ぎていない
     鏡の中にはなぜか父に似た人がいる
      はっと気づく
      父もかつて同じことを思ったにちがいない、と


                        「西やんノート」へもどる