小文集’2006 新しいものが上になっています。
06.12.1 よく見てみよう
印象派の画家はお互いに強めあう反対色(補色)たとえば赤と緑を近くに置いて輝くよう
なまぶしさ、陽光を表現した、というようなことが美術の本に書いてある。赤と緑、オレン
ジと青、黄と紫、たしかにそれらの対比は強くまぶしい。しかし画家の感覚はそんなに単純
なものではない。モネ、ピサロ、シスレー、さらに強烈な色彩と言われているゴッホやゴー
ギャンの絵も、よく見てみるとむしろ近い色がそばに並んでいる方が多い。黄色と黄緑、緑
と青緑、赤と赤紫、といったぐあい。これはとても美しいひびきを生む。画家たちは感覚で
知っていた。私たちも通説にまどわされないようにしよう。
06.11.1 豊 か な 心
歌は歌手が歌うもの、楽器は演奏家が弾くもの、絵は画家が描くもの、物語は作家が作る
もの、という思い込みはありませんか? いろんなことが分業化、専門家してしまった現代
に本当に必要なことは、歌うことも、奏でることも、描くことも、語ることも、プロではな
いふつうの人にもできるし、すべきなんだという考え方です。古代人は、いや現在でも文明
に毒されていない人たちは心から歌い、奏で、描き、物語ることができます。うまいへたよ
りも大切なのは、歌いたい気持ち、奏でたい気持ち、描きたい気持ち、物語りたい気持ちで
はないでしょうか。それが豊かな心だと思います。
06.10.2 秋
涼しくなった。朝晩寒い日もある。一ヶ月前には汗をかいてスイカにかぶりついていたの
に。夏が去れば秋が来るのはあたりまえ、とは言い切れない時代になっている。ハリケーン
が台風になったり氷河がとけ始めたり、これからは何が起きるかわからない。社会にも何が
起きるかわからない。平和があたりまえ、というのはこの国の中だけだ。自分にも何が起き
るかわからない。今日の次に明日がくるとは限らない。おとついが来るかも。
追伸:向かいの駐車場はクルミの樹の伐採だけで終わらずニセアカシアまで全て切られると
のこと。言葉もなし。
06.9.1 クルミの樹
8月の終わりのある日、おもてで機械の音がしていた。出てみると向かいの駐車場の大き
なクルミの樹の高い枝が切られていた。夕方ふたたび出てみると、なんとあの大きな樹があ
とかたもなく消えていた。冬になって葉を落としたあとの美しい枝の曲線に音楽を感じて尊
敬していた立派な樹だった。駐車場の所有者には木を切る権利があるのだろう。だがそれは
人間が勝手に決めた権利だ。種から芽を出し何十年もかかって立派な大木に成長したクルミ
の樹にも権利はあったはずだ。土地は人間のものではない。川も海も空も人間のものではな
い。発想を転換しなければ人間も生きてゆけなくなるだろう。夏が終わった。
06.8.4 また夏がきて
ブルーグラスバンドで夏の信州へ演奏しにゆくようになって5年め、今年も7月末に3日間
、茅野市民館、姫木平スキー場、長門牧場で演奏してきました。最近レパートリーに加えた
青葉城恋歌の「ときはめぐり、また夏が来て」というリフレインが自分の思いに深く重なり
ました。人それぞれに夏があると思います。私の夏は生命が燃える夏です。いい夏を60回
も過ごすことができました。悲しい夏、つらい夏を背負っている人もたくさんいます。
あらたな悲しい夏がつくられることがないよう願わずにはいられません。でも今日も地球の
上ではたくさんの悲しい夏がつくられています。
06.7.3 地 球 号
梅雨まっただ中ですが今のところ雨は少ないです。でも風が湿っています。汗かきの人には
辛いでしょうが、これも四季の味わいのひとつです。この蒸し暑さの中で多くの命が生まれ
育ちます。南会津で芳醇な緑にどっぷりつかって来ました。戻ってきた都会が廃墟のように
みえました。(去年も同じことを書いたかな) 東京に比べれば平塚はまだましです。
今年になって地球はもう太陽のまわりを半分回りました。のんびりした緑の大自然も実は
ものすごい速さでブッ飛んでいる宇宙船地球号の上にあります。いつもそういうことを実感
できる想像力を持ちつづけたいと思います。
06.6.2 悩みとはちがう
また別の生徒さんには、先生は何か悩みがおありなのでは?と言われた。あまりに予想外の
質問に面食らってしまったが、そうか、哲学的なことばかり書いているとそういうふうに思
う人もいるんだ、と知った。
私は個人的にはきわめて幸せであり悩みは皆無に近い。皆無かもしれない。だから宇宙や
時間について考えていられるのだ。サラ金に脅されていたらそれどころではない。ありがた
いことだ。そういう意味での悩みはないけれども自分や宇宙や時間についての疑問は消えな
い。でも、この疑問があるからこそ空に感動し、樹に感動できる。明日があるとは限らない。
宇宙は今日で終わるかもしれない。明日がまた来て空があり樹があり、私がいることは当た
り前のことではない。奇跡なのだ。
06.5.8 不思議の国の私
ある生徒さんに、ここてに書いていることがむずかしくてよくわからないと言われた。
私が59年かけて育ててきた脳ミソをフル回転させて搾りだした言葉を書いているのでむず
かしいかもしれない。でも、むずかしいことを考えていることを自慢するために書いている
のではない。自分が何であるのか、どこから来てどこへ行くのか、そういうことを不思議に
思わない人もいるし、不思議でならない人もいる。私は不思議でならないから考えつづける
。最近ブルーグラスの親しい知人が亡くなったが、今の私にとって死は悲しみでも怖れでも
なくただ最大の不思議である。生きていることと同じくらい不思議だ。毎晩フロにつかって
この不思議さと対話している。
06.4.1 空間 と 時間
この世界は3次元の空間に1次元の時間を加えた4次元の世界である。しかし単純に3+1
と足し算できるだろうか。空間と時間はまったく性質がちがう。私たちは空間の3次元を
自由に(と言っても3mも上には跳びあがれないけれど)行き来できるのに、1次元の時間
の中はひたすら前にしか進めない。進む速さも思いどおりにはならない。ひたすら前に進み
つづける「今」という点のの中に閉じ込められている不自由さを感じて生きている。
本当は時間も1次元ではなくて2次元か3次元なのに、人間にはわからないだけなのかもし
れない。現代物理学の最先端は宇宙を11次元と考えているらしい。あの世は本当にあるの
かもしれない。
06.3.3 時間の話 の つづき の つづき
私はいつも「意識としての今」の中にいる。そして何か別のことを考えたり、やり始めた時、
それまでの「今」は過去へ移る。そうして次から次へとたくさんの「今(だったもの)」が
過去につみ重なってゆく。つみ重なった時間の厚みは物理的な時間には比例しない。そのつみ
重なりはすべて過去のものでありながら、今の私の中に在る。「記憶」として今の私の中に在
る。しかもその「記憶」は今の私にはたらきかけてくる。いやな体験も、美しい思い出も、今
の私に作用する。今の私というは私の表面のようなもので、私の本体は「記憶」の方かもしれ
ない。わかりやすい例えとして、あるメロディーの最後の音を歌っているとき、心の中には最
後の音だけが響いているのではなく、その前のメロディーが響いている♪♪♪
06.2.3 時間の話 の つづき
前号からつづく話です。現実の私は「今」という瞬間にしか存在しない。たとえ写真や録画が
どんなに沢山残っていようと、その時の私はすでにいない。私が本当に居る「今」という瞬間
はわずかな時間の厚みをもつ。もし厚みが0だとしたらそこには何も存在できないからだ。
音も光も素粒子も、わずかな時間がなければ音にも光にも素粒子にもなれない。この世を存在
させる最小限の時間というものがある。そういう物理学的な時間はさておいて、人間の意識を
形づくる最小限の時間というものがあり、それが「今」なのではないかと思う。その「意識と
しての今」は1秒間の場合もあり、10秒間の場合もあり、1分以上のこともある。時を忘れ
て何かを考えたり、したりしている間が「意識としての今」である。
06.1.6 ことし も よろしく♪
時間について考え続けている。お風呂やトイレで。私が居るのはいつでも「今」という瞬間。
でも「今」はすぐ過去になってしまう。「今」の私は時間を薄切りにしたハムのようなスライス
の中に居る。ひとつ瞬きをすればもう新しいスライスに移っている。古いスライスが記憶として
積み重なってゆく。積み重なった記憶としての私。それわ考えている一番新しいスライスの中の
私・・・。しかし、なぜ時間は前へ前へと進んでゆくのでしょう? なぜ今、私は58才なので
しょう? 不思議なことばかりです。