小文集’2007     新しいものが上になっています。


07.12.3     こ れ か ら

 今年は教室が25周年、私は60才という嬉しさから友人の拡大、3大ブルーグラス・フ

ェスへの参加、外ジャムの開始、ミクシーへの参加と活用、と積極的に動きました。やりた

いだけやったという充実感があります。

来年もこのペースでゆくと疲れてしまうので、こんどは量を減らして質を高める方向に転換

しようと思います。また旧友の個展に刺激されて、もっと絵を描きたいと思っています。

私にしか描けない絵があるはずなので、それを描きたいのです。絵描きの世界では60才は

まだ若手。これからです。


07.11.2    微 妙 な 味 わ い

 子供のころはお醤油をたくさん使ってごはんを食べていた。いつの頃からか少なめにする

ようになった。冷やっこにも一滴しか垂らさない。一滴も垂らさずに食べることもある。

すると豆腐の味がする。あたりまえだがそれが結構おいしい。サラダにもドレッシングはか

けない。野菜のそのままの味がいい。濃い味付けは一見おいしくて食べやすいが、微妙な味

の奥深さを犠牲にしてしまう。素材の味を大切にしたい。素材の味を大切にすることは音楽

にも絵にも通じることだと思う。感覚を研ぎ澄ませることが豊かな世界への道なのだ。


07.10.1    いつのまにか300号

 25年前の9月に教室を始めたので本当は8月で300号になるはずなのに、どこかでま

ちがえたらしい。あるいは発行をサボったことがあったのかもしれない。とにかく300回

はこのたよりを発行してきた。数字にはこだわらない私だが何だかうれしい。はじめること

はやさしいが続けることはむずかしい。所属バンドは20も替わった。が、教室をやめよう

と思ったことは一度もない。楽しんで25年が過ぎた。楽しいから過ぎるのが速かった。

35才の私が気がつけば60才になっていた。数字にはこだわらないが、ここまで来られた

ことはうれしい。先のことはわからない。今やりたいことをやるだけ。やりたいことが山ほ

どあって大変。


07.9.1     暑さ寒さに感謝

 9月になったらちゃんと涼しくなってくれた。あたりまえなのだけれど、そうとも言えな

い怖さがある。丸い地球の薄い表面はもはや健康とは言えない状態にある。それでもなお夏

に上着を着るほど冷やし、冬には汗をかくほど暖めている。時候の挨拶をするときに多くの

人が否定的に言う。「いつまでも暑いですねー」「よく降りますねー」「はっきりしません

ねー」と。私は心の中でいつも「いいじゃないか、それで」と思う。暑くてありがたい、降

ってありがたい、という心にもどろう。地球とすべての生き物のために。


07.8.6     おかげさまで25年♪

 今月末でビレッジ教室は25年続けられたことになります。開校以来700人を超える生

徒さん一人一人に深くお礼申しあげます。教えることは教わることでもあり、一番たくさん

教わった生徒はこの私かもしれません。

今の生徒さんで一番長い方は絵のクラスの方たちで23年になります。楽器の方ではフォー

クギターのH氏が最古参で17年! 皆様のおかげで好きなことでメシを食うという非常識

を生き抜いております♪


07.7.2     2 5 年

 来月でビレッジ教室は25年になる。楽しかったので、あっというまの25年だ。

その前の13年間の学校教師時代の方を長く感じる。教える仕事という点では同じだったが

自由にやれるかどうか、という点で全くちがった。100%の自由を得た代わりに生活の保

障はなくなった。ある人は無謀と言い、ある人は勇気と言った。どちらでもいい。私にはこ

の道しかなかった。自分の作った道を自分で歩いてきた。


07.6.1     外 ジ ャ ム

 「外ジャム♪」というのを活発にやっています。この4月から始めたのですが実は前から

駅前で弾き語りしている若者を見て似たようなことをしたいと思っていました。始めてみる

と中々気持ちがいい。ストリート・ライブというより、おじさんたちが駅前で練習している

だけなのですが通行人もけっこう足を止めて聞いてくれて、曲が終わると拍手が来たりしま

す。今年は攻めの姿勢です♪ 前へ出る相撲をとります!


06.5.7     歳 月

 前号で、60才になった今が一番おもしろいと書いたが、これは空威張りでなく本心であ

る。映画の料金が安くなるとかいうことはどうでもいいことで、もっと大きなことは自分と

いうものがわかってきたことだ。もちろん、昔にくらべてということであって、まだわから

ない部分の方が多いのだが、それでも自分はこうだと射えるうになった。

今までやってきたことと、これからやりたいことが60才という丘の上からはよく見える。

また、記憶の中を行き来する楽しさと哀しさ・・・そんな味わいの深さは60年という長さ

があればこそである。年はとりたいものだ♪


07.4.2     ス キ マ (3)

 「私」というものは音のようなもの、あるいは雲のようなもの。あるのだけれども確かな

ものではない。ふっと生まれ、ふっと消える。在ると無いは混ざっている。在るの中に無い

があり、無いの中に在るがある。それを実感として少しづつ感じとれている。60才になっ

た。今が一番おもしろい。


07.3.2     ス キ マ (2)

 空間的にも時間的にも私の大部分はスキマでできている。前号でそのスキマを「空」(く

 う)と名づけた。「空」と私の関係は、空気と音の関係に似ている。音は物ではない、が

確かに在る。空気の揺れが音であるように「空」のゆれ、あるいは乱れが私である。私は音

のようなもの。在るといえば在るし、無いといえば無い。だから生と死はそれほどちがわな

い。もう1つの譬えは雲だ。遠くから見れば在るけれども正体はスキマだらけの水滴だ。

その水滴も生まれたり消えたりしている。私もその雲のような形で存在している。


07.2.2     ス キ マ (1)

 つながって見える水も一億倍の顕微鏡で見れば酸素と水素の原子と、その間のだだっ広い

スキマになってしまう。私の体もギターの弦もスキマだらけなのだ。つながつているように

見えているだけだ。このことは空間の話にとどまらず時間の意識についても言えてしまう。

私の意識はなめらかに続いてはいない。何かを考えたあと空白(スキマ)があり、そのあと

また何かを考える。言葉が浮かび、消える。浮かんでいる時が繋がっているように思えるだ

けだ。映画のフィルムのコマ送りと同じように。

私というものは空間的にも時間的にもスキマだらけのものなのだ。スキマでない部分が繋が

って私が居るように見えている。では私の中にあるスキマは一体何なのか。私はそれを「空」

(くう)と名づけようと思う。そう、色即是空の「空」に近いと思います。


07.1.5 あけましておめでとうございます♪ ことしもよろしく♪

 ん十回めのお正月です。子供のころのお正月は静かで白いイメージです。雪がよく降って

いたのでしょうか。お年玉がもらえて、本や模型を買ってうれしかった。いまはお正月に特

別の楽しみはありません。というか毎日が元日だと思っています。今日も明けましておめで

とう、と毎朝心の中で言っています。なぜか今日もきのうの私のつづきなので、つづきをや

って一日が終わりますが、明日はわかりません。そう言いながら来月の予定を書いています。

おもしろいですね。


                        「西やんノート」へもどる