小文集’2010     新しいものが上になっています。


10.12.2    アドリブ(3)

 あるジャンルの音楽の慣用句と言いまわしはCDなどを聞いて慣れるのが一番だ。

聞き慣れていないのに譜を見て指の練習をしても成果は上がらない。そのフレーズは

弾けるようになっても他のフレーズは出てこない。アドリブは脳ミソから出てくるもの

であり、脳ミソは耳からそれを仕入れる。指の練習よりも口ずさむ練習がアドリブには

必要だ。くずしたメロディーが口からどんどん出てくるようにすればよい。耳で仕入れ

て口から出す。指の出番は最後だ。だから楽器がなくても真夜中でも指をケガしていても

アドリブは練習できる。
 


10.11.2    アドリブ(2)

 演説や祝辞はむずかしく、時に原稿が必要だが会話はむずかしくない。でも英語で

の会話はむずかしい。少なくともある程度の単語と慣用句、言い回しを知らないと

できない。音楽の会話では単語は覚えなくていい。元のメロディーを知っていれば

よい。コードも知っていればなおよいが知らなくてもある程度アドリブはできる。

そのジャンルの音楽の慣用句と言いまわしは覚えなくてはならないが英語の勉強より

覚えることは少ない。 


10.10.1    アドリブ(1)

 クラシック音楽には基本的にアドリブはない。ポピュラー音楽や民族音楽ではアド

リブは大切な要素だ。ここで言うアドリブはメロディーをちょっとくずす程度のもの

(その程度のものをフェイクという)から、モダンジャズの高度なアドリブまでを

含む。ブルーグラスのそれはその中間くらいになる。アドリブができると楽しい。

どうしたらアドリブができるようになるのか、という質問をよくいただく。しばらく

このことについて考えてみようと思う。例えて言えばアドリブは話し言葉だろう。

クラシック音楽の譜面は文学や演説原稿にあたる。私たちはふだんアドリブで会話し

ているのにそれを難しいとは思わない。


10.9.2     ゴ ミ ?

 3日たつと生ゴミの袋は一杯になる。一週間で包装などのプラゴミも沢山たまる。

毎日ゴミが出る。ホコリがたまる。教室の中を見わたすとCDが、DVDが、本が、

曲集が、ファイルがどんどん増えている。使わなければゴミと同じだが、使うかも

しれないので捨てられない。毎日さらに増えつづける。増えつづけるものを分類し

整理しようとするが追いつかない。教室がだんだん狭くなる。埋めつくされてしまう

前に反撃に出なくては。10年間使わなかったものをまず捨てよう。いや20年かな?

本当に捨てられるかな?


10.8.4     夏 休 み

 一番すきな8月がまためぐってきた。寒がりという理由のほかに、あるいはスイカが

食べられるという理由のほかに8月がすきな理由がある。夏休みだったからだ。マンド

リンクラブや美術部の合宿はきらめく思い出が詰まっている。社会人になって13年の

教員時代も夏休みはうれしい時間だった。教員を辞めたあとも、ブルーグラスの合宿に

ファミリーバンドで参加して・・・。青空とゆったりした時間と自由。それが8月。


10.7.1     海 の 風

 エアコンのないビレッジ教室はこの時季みなさんに苦行を強いています。あと2,3回

の辛抱です。梅雨が明けると暑さの性質が変わります。海辺の町では夏の風に海の涼しさ

が含まれています。エアコンの乱暴な涼しさとちがう、やさしい涼しさです。ご飯の甘み

コーヒーの酸味のような微妙な味わいというのはぜいたくなものだと思います。

海辺の町の夏の涼しさ、冬の暖かさはぜいたくな感覚です。


10.6.3     胸きゅん

 フランスの画家のモネは30代の大半をアルジャントゥイユという町で過ごしているが

、私はこの時代の絵が好きだ。おだやかな川の流れと岸辺の樹木、晴れた空に浮かぶ羊雲。

ありふれた風景でありながら世界の美しさを、生きている喜びを感じさせてくれる。

これらの心地よい絵を見ていると、なぜか胸がキュンとなる。あまりにも美しいものは

悲しみを呼び起こすのだろうか。


10.5.6     アドリブ

 よい季節になりました。鼻歌の一つも出てきそうです。皆さんはどんな鼻歌が出てきま

すか?昔のヒット曲、CMソング、世界名曲、人によりいろいろでしょうね。私は特に

何かの曲ではなく、その時その時で○○風のアドリブです。ブルーグラス風とかジャズ風

とか。鼻歌といっても私の場合は外には聞こえない頭の中での鼻歌で、本当の鼻歌とは

言えないのかもしれません。でもこれは楽器の練習につながっています。楽器は指の練習

だけしてもいい演奏はできません。心に音楽がないと。鼻歌が心の音楽の練習になります。


10.4.5     4 5 年

 今月の初めに高校のマンドリンクラブのOB、OGの集いに初めて参加した。先輩後輩

合わせて15名ほどで逗子を散策し、お昼を食べた。45年ぶりでもすぐにわかった人、

名前を聞いて思い出した人、名前を聞いても思い出せなかった人もいて45年という歳月

の長さを実感した。自分の心の奥のほうで薄れつつある、しかし大事な部分が双眼鏡を覗

いたように眼前に立ち現れた。年をとるのも面白い。


10.3.4  目で見えない世界 (3)

 目が見える人の世界が、見えない人の世界よりも豊かであるとは言えないだろう。たしかに見えることで

情報量は増えるが情報量の多さは必ずしも世界の正しい把握にはつながらない。また心の豊かさにも比例

しない。ラジオのほうがテレビよりもイメージが豊かにわくという人が多いのも頷ける。安全に生きるためには

情報量が多い方が有利だが、世界を感じとるということに関しては人間もミミズもゾウリムシも変わりはない

と思う。もしかしたら発達した目や耳、さらに言語まで使える私たちよりも単細胞のゾウリムシの方が世界を

ストレートに感じとっているかもしれない。私たちの世界は世界の1つの見え方にすぎない。


10.2.4  目で見えない世界 (2)

 私が何かを想像するとき、それは想像という字のとおり形で思い描く。画像、映像だ。目の

見えない人はどのように想像するのだろうか。たとえば美人を・・・。美しい声と魅力的な

話し方、ほかに? 「きれい」ということはどう捉えているのだろう。きれいな人というのも

かなりちがうんだろうな。目が見える人には見えないものが見えるかもしれない。私は見える

ことに慣れすぎてしまったので見えない人の世界を想像することがむずかしい。むずかしいけれども想像したい。


10.1.7  目で見えない世界 (1)

 午後、海に出た。西は箱根から東は房総半島まで広がる青のグラデーション、海面にはまぶしい陽だまり。

目をつぶってみた。しばらく目をとじていると打ち寄せる波のとどろきが右のほうから始まって左へ移動し、

こんどは左のほうから戻ってきて右へ消えてゆく。目で見るのとはちがう大きな空間があった。

目が見えない人には音と手ざわり、そして全身の皮膚感覚による世界がある。目が見える人は視覚を優先

させてしまうので、音や手ざわりなどの他の感覚をおろそかにしてしまいがちだ。時には目をとじてみよう。


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