小文集’2011


11.1.6     今年もよろしく♪

 今年も世間に流されず自分らしく生きたいと思います。それをあまり強く実践すると角が立つの

で、ほどほどにというのが要です。紅白歌合戦を見るかどうか、紅白のあと永平寺の雪景色で年が

移り変わると思うかどうか、年が明けました、というアナウンサーの声で新しい年に変わったと思

うかどうか。本当は何も変わっていないのです。人間社会が作った虚構です。これらは別に害はない

ので反抗するような問題ではないのですが、虚構はそこにもここにもあります。虚構だらけの過剰な

情報の氾濫の中で自分の目で、自分の頭で、自分の心で生きてゆくことは中々むずかしい。むずかし

いけれどもそういう気持ちで生きてゆきたいと思います。


11.2.1     虚  構

 前号で、年が明けるというのは虚構であると書いたが、それは私にとってであってすべての人に

ではない。農業を営む人には季節の変わり目は大切な現実だ。自分にとって何が虚構で何が現実か

ということが大事なことだ。人と自分はちがう。私にとって誕生日は虚構であり、お祝いなどして

ほしくない。誕生日は本当に私が生まれたその日だけだから。いや、毎日が新たな誕生日かもしれ

ない。年は明けなくても日は明ける。太陽が昇るのは虚構ではなく現実。いやそれも虚構、太陽は

昇らない。地球のほうが動いている。


11.3.4     年をとること

 人は年をとって
死ぬとはかぎらない。事故、災害、病気は年齢に関係なく命を奪う。1年生き延びることは

大変なことだ。だから年をとったことを否定的に考えたり卑下してはいけない。内心自慢していいことなのだ。

長く生き延びたことだけが自慢なのではない。年をとるほど世界がよく見えてくる。10才は1000mの山、20才は

2000mの山からの眺めだ。38才でやっと富士山、48才でモンブラン、59才でキリマンジャロとなる。高く登れば

また別の眺望が開ける。どこまで登れるだろうか。できればゆっくり登りたいものだ。


11.4.1     大 震 災

 年をとった人が先に死ぬとはかぎらない、と前号に書いた直後に大地震が起きて、それが現実

のことになってしまった。あまりのことに言葉が見つからない。何を言っても軽々しく聞こえて

しまう。だから何も言わない。何も言えない。ただ、多くの生き残っている人の内側で何かが変

わった。外側でも何か変わるだろう。今は自分が生きているというより生き残っているという感じ

がする。


11.5.6     色 即 是 空 (1)

 生き残っている感じはまだ続いている。今までも生死については考え続けてきたが、この大

地震でそれがより目の前の具体的なものになった。たまたまブックオフで柳澤桂子さん(生命

科学者で、歌人、難病と闘いながら本も書く)の「生きて死ぬ知恵」という小さな本を発見。

副題が「心訳・般若心経」である。読んでみて私が今まで考えつづけた結果とあまりにも同じで

驚いてしまった。大昔の人が考えたことと現代の私が考えたことが同じなのだ。

それは生と死が別のものではないということ。


11.6.3     色 即 是 空 (2)

 生と死は別のものではないということについて、もう少し続ける。生と死は上と下、右と

左のような反対語ではない。死は生の終わりの部分であって生の一部と言える。若い人から

見ると行く末に死があり、その向こうも死の世界に見える。こっちが生前、あっちが死後。

でもそれはまちがい。死んだ本人にとって死後はどこにもない。生が終わったときに死も終わ

る。生も死もなくなる。しかし地球は回りつづけ太陽は燃えつづけ、私を生み出した宇宙は

また誰かを生み出そうとする。その宇宙もやがていつか消える。しかし宇宙を生み出した何か

が残る。それを神と言ってもよいが私はこの言葉は好きではない。「何か」でよいのだ。


11.7.1     スイカの時間

 ふたたびスイカの季節になった。ふたたびではない、みたび、よたび、いやもっとだ。

季節が巡り同じ所へ戻ってくるような気がするが同じ所ではない。今年のスイカは去年の

スイカではない。去年のスイカはもうどこにもない。食べちゃったからという次元の話では

ない。写真に撮っておいたとしても写真はスイカではない。同じように去年の私はどこにも

いない。きのうの私もどこにもいないし5秒前の私もどこにもいない。もしいたら私が何人

もいておかしなことになってしまうのだが、それにしても不思議なことだ。この世界は常に

今という一瞬にしか実在しない。過去が実在しないように未来も実在しない。それなのに

来月の予定を立てます。


10.8.1     実 在

 この世界は常に今という一瞬にしか実在しないと前号に書いたが、これは本気で考える

とかなり怖いことだ。一瞬の実在は次の瞬間には過去となり消えてゆく。次の一瞬へ実在

は飛び移り、それが続くことで実在が続く。体積も重さもあり石のように固い物でも時間と

いう次元で見れば一瞬にしか存在していない。そういう意味では音楽も実在しない。CD

は音楽ではない。楽譜も音楽ではない。音楽は人の心の中でのみ過去形として存在する。

それ以外のどこにも音楽はない。


11.9.1     心のはたらき

 前号で音楽は実在しない、と書いたがそれは音楽が無意味だということではない。人の

脳(心と言ってもいい)の中でのみ存在するということだ。絵は心の外でも存在している

(実在しいる)ように見えるが実はちがう。楽譜やCDと同じで絵そのものは紙やキャン

バス、絵の具でしかない。その絵を見て何かを感じる心によって絵は絵となる。絵を見て

何かを感じるには少しの時間がかかる。だから絵も心の中で過去形として存在する。文学、

映画、演劇すべて同じだ。しかし心の中はすべてが過去ではない。さっきまでのメロディ

ーとこれから来るメロディーを、つまり過去と未来をつなごうとしているのだ。


11.10.1    人間という尺度

 この宇宙や物質そして生命はあまりに巧みに作られているので、それらが実在すると

思ってしまう。しかし科学はそれらがすべて見かけの現象にすぎないことを明らかにして

きた。たとえば黒くて重い固い石も原子かそれ以下のスケールで見れば黒くも重くも固く

もない。実在しないとは言えないが人間がふつうに思っている石ではない。
人間がふつう

に思っている世界は普遍的な世界ではなく、世界の一つの見え方にすぎない。そのように

見える、そのように思えるだけなのだ。と、わかっていながらお腹はすくし明日の予定も

考えなくてはならない。そんなことは見かけの現象にすぎないとわかっているのに。


11.11.4    時 間

 1日に何度時計を見るだろう。腕時計は持たないので壁の時計だ。見るたびに時は

進む。時間とは何なのか何十年も考え続けているが未だにわからない。年表はふつう

左が古く右が新しい。左のほうに奈良時代があり右のほうに現代がある。時間は空間

とは別のものなのに(現代の物理学ではそうでもないのだが、ここでは常識的な感覚

として)年表のようなイメージで時間を考えてしまう。毎日見ているスケジュール手帳

もカレンダーも時間を左から右へ移動する空間で表している。でもきのうの私は今日の

左にいるわけではない。今日の(今の)私の頭の中に記憶としてあるだけ。

また時計を見上げると30分たっている。少し右に移動したようだ。私は同じ私なのだ

ろうか。


11.12.2    異様な世界

 信じられない距離を信じられないスピードで宙空を飛んでいる青いタマの表面にその引力で

くっついて1年間でひと回り。ひと回りの中心にある巨大な原子炉である太陽もさらに信じられない

スピードで銀河系の中を回ってゆく。 この事実と日常生活との落差に目まいを起こしながら生きて

いる。 日常生活から見れば宙空は異様な世界だが、宙空から見れば日常生活が異様な世界だ。

今年も年賀状は出しません。いただいても返信いたしませんのであしからず。慶弔のセレモニーにも

参列いたしませんのであしんからず。 よいおとしを♪ 


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