小文集’2012


2012.1.6    あけましておめでとうございます。

 と、今年も慣習上この15文字の長い挨拶を何度もすることになりますが、去年も

書いたように私には年が明けるという感覚がありません。始めと終わりを決めておく

方が何かと便利ではありますが、心の中にそういう枠を作りたくありません。毎朝が

新年です。とは申しながら自分なりの枠はたくさん作っています。2ケ月ごとの発表会

や自分が演奏するライブ、フェス、絵の展覧会などです。昔とちがって人は共通の時間

を生きていません。


2012.2.3    と つ ぜ ん (1)

 道を歩いているとき向こうからくる車が運転のミスかハンドルの故障か、何かの理由

で突然こちらへ向かってきて私の命を奪う、ということをいつも考える。私は突然この

世界からいなくなり、世界も消えて無くなる。それは大変なことでも困ったことでもなく

そうなるだけのことだ。元々何も無かったのだから。むしろ私がいて世界が在るという

ことの方が大変なことだ。小学校の3年生以来、車にはぶつからずに今日まで生きている

が明日も生きているとは限らない。だから何だと言われても困るが、そんな感覚で毎日を

めでたく生きているということです。


2012.3.2     言   葉

 人は言葉によって世界を知り自分を知る。朝という言葉で朝を知り、風という言葉で

風を知る。言葉によって見えてきた世界の中で人は生きる。しかし人が作ったものである

言葉は人を惑わす。人の欲望を反映して、ないものをあるように思わせる。永遠とか真実

とか愛とか幸せとか才能とか血統とか。私という言葉で私は私になる。でも私が何である

か全くわからない。私なんていないのかもしれない。猫を見ているとそんな気がしてくる。

日向ぼっこをしている猫の満足げな顔。言葉をすてて猫になるか。


2012.4       楽 し い 時 間

 30年前の今ごろ私は組織から解放されて羽ばたいた。自分の好きなように歩くこと

ができた。好きなように歩いた。それまでの人生とは全くちがった。楽しかった。楽しい

時間ははやく過ぎる。30年があっというまに過ぎた。65才の私がここにいる。5年後

がすぐに来て、また同じようなことを書くだろう。70才の私がここにいる、と。いない

かもしれないが。いたとしてもそこはすぐにまた通り過ぎて先へ進むだろう。時間はなぜ

か後戻りしない。しかし不思議なことに行きつく先は生まれる前と同じところである。
 


2012.5.7     と つ ぜ ん (2)

 寒がりの私には5月の暖かさがうれしい。2月の教室だよりに、とつぜん車がこちらに

向かってきて命を奪われるかもしれない、と書いた。この4月、まさにそういう事故が現実

にたてつづけに起きた。車や道路の問題、運転手の問題は考えねばならないことではあるが

、私はとつぜん人生が終わった人のことを真っ先に考えた。かわいそうとか気の毒というのは

ひとごとの感想だ。自分のこととして考えるとき、それは生きていることの不思議さになる。

とつぜん終わる人生もみなその始まりは「とつぜん」だったのだ。140億年前にとつぜん

出現した宇宙。65年前にとつぜん出現した私。とつぜん消えても不思議はないか。


2012.6.4    没    頭

 何かに没頭できることはすばらしいことだ。しかし考えてみると没頭という状態は不思議

なものだ。没頭しているときの私(私という意識)はどこかに消えていて、それが終わった

ときにまた戻ってくる。没頭していた時の私は私でなかったようにも思える。アレンジして

いる時、演奏している時、絵を描いている時、映画を見ている時、私はどこかに消えてしまう。

何もしていないときに再び現れて「私は誰?」などと問い始める。私が現れて私について考え

ている時間が私は好きだ。だからヒマな時間がいくらあっても退屈はしない。

いや、やがて退屈するかな?


2012.7.2     原    点

 50年前、母に不器用だからと反対されたのに入部してしまった高校のマンドリンクラブ。

3年間2ndマンドリンのままだったことは母の言ったとおり不器用の証明になったが、ここ

で味わった合奏の楽しさ、おもしろさが私のその後の人生を変えた。上手に弾くことも大切

だがそれだけではない。合わせることのおもしろさと喜びを多くの人に伝えたいと思った。

マンドリン合奏、ギター合奏、ウクレレ合奏、ブルーグラスバンド、楽器はちがってもその

楽しさは同じ。原点は15才。「トロイカ」の2ndマンドリンでした。 


2012.8.3     3 0 年

 今月号はVol.360になるはずなのだが、どこでずれてしまったのか・・・そのうち

調べてみよう。いずれにせよ、この教室を始めて丸30年になる。地球や宇宙の時間から見れ

ば一瞬だが人間にとっては長い時間だ。赤ン坊が大人になり大人が老人になる。教室を始めた

とき35才だった私は65才になった。れっきとした老人だ。自分が老人だということに違和感

を持つもう一人の自分もいるけれど。 たくさんの生徒さんに支えられてここまで来ました。

感謝!


2012.9.1      ことしのスイカ

 7月末から全快まで2週間かかった腸炎のおかげで今年はあれほど好きなスイカを少ししか

食べられなかった。スイカの食べ過ぎだろうと多くの人に言われた。スイカが悪いのでなく、

冷たいのをたくさん食べるという食べ方はよくなかったと思う。それで胃腸が冷えて弱った

ところに細菌が入ったのかもしれない。お体を大切にとか、ご自愛くださいとかいう言葉が

単なる社交辞令ではないと思えるようになった。人間は体でできている。体が心をつくる。

その心がまた体をコントロールする。なんでもない状態は最高の状態であることを病んでみて知る。

そろそろ今年のスイカが終わる。


2012.10.1     小 さ な 板 (1)

 たまに電車に乗ると10人中8、9人は手に持った小さな板を見つめたり、それで親指を

やたらはやく動かして通信をしている。隣に座っている人との温かい気持は感じられない。

遠くの人とは常につながっていながら目の前の人との関係は断絶している。異様な光景である。

小さな板は人を結ぶ道具だったのに、遠くの人を結びつけたぶん近くの人を疎遠にしてしまった。

四六時中メールのやりとりをしていないと不安という人も多いようだ。小さな板は人間社会を

どう変えてゆくのだろうか。
 


2012.11.1       小 さ な 板 (2)

 町では人は隣人と話をしなくなり、かわりに小さな板で他人とつながるようになった。あっさり

したやりとりで疲れないおつきあいがでまるようになったが、そんな友人・知人が100人いても

200人いても心が満たされることはないだろう。車の普及で足が弱るように便利さにだまされて

大事なものが失われてゆく。字を書く、足で歩く、話をする、自分で考える、何かを手作りする、

という基本的なことをしないとヒトは退化すると思う。小さな板の向こう側には恐ろしい世界も

存在している。人間の力がためされている。


2012.12.1    時    間

 もう12月、時のたつのがはやい。時というのは考えれば考えるほど不思議なものだ。時間が長い

とか短いとか、時が進むとか、遠い未来とか、そういう言葉はみな時間を空間のように表している。

でも時間は空間ではない。長くも短くも遠くもない、もっと別の尺度なのに空間にたとえてしまう。

たしかに長い時間歩けば遠くに行ける。アナログ時計の針は円周上を移動する。カレンダーの日付は

右へ進む。でも時間は左から右へ進むものではない。ではどう進むのだろう? 時間の中にいる人間

にはよくわからない。時間の外に出てみたい。あれ、中とか外とか言ってこれ空間の話だよね??


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