小文集’2013
まとめるにあたって原文の一部を書き直しています。
2013.1.5 のようなもの
すべては「のようなもの」である。私は私のようなもの、石は石のようなもの、今は今の
ようなもの、死は死のようなもの、愛は愛のようなもの、神は神のようなもの、1は1の
ようなもの、雲は雲のようなもの、心は心のようなもの。確かなものはひとつもない。
それは不安でもあるけれど、おもしろいことでもある。すべては近似値。
私の考えと古代の思想と相対性理論、量子力学などの現代の科学が近づいています。
2013.2.1 時 の 感 覚
生活の中でくり返される同じ場面に出会うとき、前のその場面との間にあったはずの
時間が平たく圧縮されて過去になったことを実感して、その厚みのなさにいつもとまどう。
たとえば風呂に入って湯船の中に自分の両足を見るとき。きのうと同じ場面だと、きのうも
同じことを風呂の中で思った。またすぐに明日のこの場面になっているにちがいない。
湯の中の両足の画像は私の人生の通奏低音と言える。他にもそういう場面はあるのだが、
寝る前に風呂に入る私にとって1日の終わりにゆっくり見るこの画像が一番時の不思議さを
感じさせてくれるのだ。因みにウチの風呂は小さいので足を伸ばせずアグラ状に曲げている。
2013.3.1 小 さ な 実
1日はあっという間に過ぎ、1日にできることはほんとうにわずかだ。1週間も1日も
かわらない。1ヶ月もまたたくまに過ぎてもうこの序文を書いている。さすがに1年という
長さはある程度のことをさせてくれる。10年たつと蒔いた種が背丈くらいの木になったり
する。12年前にスタートした公民館のギター合奏クラブが先月、初めての単独コンサート
を大ホールでおこなった。大きな木ではないが実をつけた。
マンドリンの実、ブルーグラスの実、ウクレレの実、ギターの実が少しづつ実ってゆく。音楽の畑
仕事は楽しい。それにしても1日にできることは本当にわずかだ。
2013.4.5 す べ て は
前号に書いた「小さな実」は日本や世界という大きな視野から見れば取るに足らない小さな
実だった。しかしギタークラブのメンバーにとっては大きな実だった。物事はすべて相対的だ。
桜の花が咲いてまた一つ年をとった。66年生きた。長いか短いか?初めの方の記憶がうすれて
いるくらい長い年月だが、学生時代がついこの間のことのように思える。人生はすばらしいもの
だと思うときもあり、逆にすべてがつまらなく思えるときもある。どちらが本当ということもなく
どちらも本当なのだ。というか、本当なんてどこにもない。すべては相対的で近似値。小さくも
あり大きくもあり、長くもあり短くもあり、すばらしくもありつまらなくもある。 色即是空。
2013.5.7 青 空
富士山が世界遺産に登録され、鎌倉は登録されないことになった。やはり富士山の方がえらい
だろうなと思う。しかしもっとえらい、いや、もっともっとえらい遺産がある。それは地球の青空
であり、海であり、空気だ。広い宇宙を探してもこんなすばらしいものがある星はたぶんないだろう。
この地球という星こそが宇宙遺産だ。遠い将来この星も太陽も、そしてたぶんこの宇宙全体も消えて
なくなる日が来る。そんな時間のスケールから見ればほんの一瞬のことだが青空があり海があり猫が
いて人がいる。奇跡のようなこの世界にいる。
2013.6.3 聴覚 と 視覚
耳と目、音と光、音楽と絵、似ているようで違いも大きい。耳が聞こえない人でも作曲するが
目の見えない人に絵は描けない。耳は音の高さを精密に感じとるが音源の位置は左右がわかる程度、
それに対し目は明るさや色合いには大ざっぱだが空間の解像度はすごい。感覚した後の脳の働きも
だいぶちがう。音の変化はかなり正確に記憶される。だからメロディーになる。聞こえたそばから
消えていったらメロディーにならない。逆に色の変化はあまり記憶されない。スクリーンに七色を
順に映していっても、その順はまず覚えられない。その代わり固定した映像はかなり記憶に残る。
舌による味覚はどうでしょう。また、手による触覚はどうかな?
2013.7.1 目的 と 目標
人生の目的は人それぞれである。私の場合、目的はない。生まれたから生きている。たぶん猫も
同じ。でも猫とちがっていろんなことを考える脳ミソがあるためにエサを探すだけでは満足できない。
エサを探すのに必死の状況のときは他のことを考えるゆとりはないが、エサがとりあえす確保できる
と何か生きる目的がほしくなる。でも目的はないのでとりあえず目指すものを作る。それが目標。
目標ができると生き方がわかりやすくなる。発表会、ライブ、コンサート、展覧会、著作、旅行、
記録達成、・・・。目標に向かって熱く生きられる。
2013.8.5 生きている意味
前号で私には人生の目的はないと書いた。投げやりな感じを受けた人かもいるかもしれないので
続きを。宇宙があって自分がいることは、それ自体が神秘的で不思議で奇跡のようなすごいこと。
それが実感できれば目的なんかわざわざ作らなくても喜んで生きられる。人間が考える目的なんて
タカがしれたもの。存在しているということの感動に比べたらオマケのようなもの。どんなすごい
ものを作ってもいつか人類はいなくなり、地球もなくなり、宇宙も消えてなくなる。だからこそ今、
宇宙があって地球があって人がいて、そして自分がいるということが奇跡のようにすばらしいことなのだ。
2013.9.2 夏 休 み
ビレッジ教室には夏休みはないのだが気持の上では8月は夏休みだ。学校を出るまでの16年間に
加えて教員時代の13年間も夏休みがあったから。青空と強い日射し、合宿やイベント。7月末から
8月末まで心がウキウキする習慣がついてしまったらしい。小さな哀しみとともに夏が終わると再び
規則的な生活に戻って落ちついた日々が始まる。スイカはもう八百屋にない。今年の夏は特別暑かった
が、お腹をこわさずにすんだ。
2013.10.1 音楽は存在しない?
前にも書いたことがあるが音楽は人の心の中にしか存在しない。CDはプラスチックの板であって
音楽ではない。アンプもスピーカーも音楽ではない。楽器もオーケストラも音楽ではない。それらから
送られてくる振動が人の耳から脳に入って初めて音になる。楽器から音が出ているのではない。音は
脳で作られているのだ。だから脳の外に音楽はない。ラジカセでCDがかかっていても人がいなければ
それは空気が振動しているだけ。色も同じ。赤や青が初めからあるのではなく人の心(脳)が色を作る。
2013.11.1 絵も存在しない?
前号の続き。音楽は人間の頭の外には存在していない。あるのは空気の振動だけ。ギターの音色も
歌声も小鳥のさえずりも、私たちが知っているような音としては外界に存在していない。絵も同じで
目から頭に入って初めて赤が赤になり青が青になる。人の頭の外では電磁波にすぎない。モネの睡蓮も
ゴッホのひまわりも電磁波にすぎない。しかしその電磁波は私たちの頭の中で組み立てられて睡蓮になり
、ひまわりになる。音波は組み立てられて楽器の音になり記憶の助けを借りてメロディーになる。私の
頭の中とあなたの頭の中でほぼ同じことが起こる。私たちが思っている世界の姿はそのようなものだ。
2013.12.2 世 界 の 姿
10、11月号で音楽も絵も人の頭の中でのみ存在する、と書いた。味も匂いも寒さも柔らかさも固さ
も重さもすべて人の頭の中の姿だ。ネコの頭の中ではそれらがまた違った姿をしているだろう。魚や虫の
頭の中でもまたちがう姿だろう。つまり生き物の種類の数だけ世界のちがう姿があるということだ。もし
すべての生き物がいなくなったら世界はひとつの大もとの姿になるだろうか? その姿を見る者がいなけ
れば姿がないのと同じなのか? 姿のないこの宇宙は気の遠くなるような年月をかけて生き物をつくり、
その生き物たちにそれぞれの見え方でその姿を見せた。人間が見ているのはその1つの姿だ。
青空に干し柿が美しい。