西やん哲学


どこまでが私?

世界は本当にあるのか、私というものが本当に居るのか? 58才になっても私には「私」が何であるか、なぜ

私が「私」なのかわかりません。なぜこの人の中にいるのだろう? この人の目を通してしか外を見ることが

できないのでしょう? この人が死ぬと「私」も永久に消えるのでしょうか? それとも別の人あるいは生物と

して、また突然発生するのでしょうか? 58年前にこの人の中に何の理由もなく突然発生したように。

第一この人のどこまでが「私」なのでしょうか。私の意志で動かせる所? それでは髪の毛は? 爪は?

もし病気で足を切断したらその切断した足は? そうやって考えてゆくと最後に残る「私」は私の脳ミソだけに

なります。でも普段そんなふうには思っていません。私の顔、私の手、私の体、・・・。でも私の体の中のことは

ほとんど知らない。肝臓とか腎臓とか知識はあるけれど見た事はない。私の肝臓という実感はない。その肝臓

の中で働いている組織や細胞のこともわからない。でもそれは私の一部。 私の脳ミソの指令で働いている。

どこまでが私で、どこからが私ではないんだろう? そういうふうにはっきり線をひくことができないのではないか。

大脳の前頭葉あたりに一番濃い「私」があってそこから離れてゆくにしたがって「私」が薄くなってゆくように思う。

足の爪なんか相当薄い「私」である。私の肺の中にある気体はいくらか「私」であるが口から出ていった気体は

もう「私」ではない。でもその境い目を決められるだろうか。「私」と「私でないもの」とははっきり分けられず

連続的につながっている。この目の内側に居るのは「私」、その「私」が見ているのは外の世界。

でも「私」と外の世界とははっきり分かれてはいない。直線という概念ややドレミの音階と同じように「私」もまた

思い込みによって作られた概念であり、近似値なのだと思います。 2005.11.4
(2010.2.26一部修正)


日常の感覚

この世界はかなり不確かなものです。日常の感覚では大きな石は重くてなかなか動きません。ぎゅっと何かが

詰まって固まっていると感じられます。しかし電子顕微鏡で見れば珪素や酸素の原子が並んでいて原子と原子

の間は空間で、原子の内部も大部分が空間です。ぎゅっと詰まったものがあるのは原子の中心部の原子核の

ところだけですが、その原子核もパチンコの鉄球のようなものではなく、陽子と中性子と中間子などからできて

いてそれらの間には隙間があるわけですから、大きな石もミクロの目で見れば空間だらけ、隙間だらけです。

それなのに大きな石が固くて重いのは人間がそう感じているだけのことで、人間の尺度では固くて重く感じる

ということです。それならうるさいことを言わずに人間の尺度で物事すべてを考え、感じたらいいではないか、と

言われそうです。それで満足できる人はそれでよいと思います。日常の空間と日常の時間の中でのできごとに

しか興味のない人はそれでよいのですが、私は1億分の1より小さい世界と100億光年の宇宙も「私」とつなが

っている気がするので、そういう尺度でものごとを考え感じようと思っています。私はたまたま小学校6年生の

ときに学校の図書室にあった「原子力の秘密」という小中学生むきに書かれた科学の本を読んで、この世が原

子でできていることを学校で習う前に知ってしまいました。それ以来私はこの世も自分も空間だらけの原子で

できているということを実感として持ち続けています。あの本は私の世界観、人生観を変えた一冊と言えます。

では陽子や中性子は固くて重いしっかりした物質なのかというと、どうもそうではないらしいのです。陽子や中

性子はもっと小さい何かからできているらしい。しかもそれらは物の性質と波の性質を併せ持っていて、位置を

測定しようとすると測定することで位置が変わってしまい、測定が不可能なのだそうです。同時に2ヶ所に存在

することもあるそうです。いわゆる不確定性原理です。こんな不思議な微小世界がたくさん集まって1グラムに

なり100グラムになり56Kgの私を作っています。このくらいの大きさになると同時に2ヶ所に存在するなんてこ

とはできなくなり物としての確実さが増してきます。さらに大きな地球、太陽、銀河という尺度になるとまた日常の

常識とはちがうことが起こります。光が曲がったり時間が縮んだりという、いわゆる相対性理論です。我々はそう

いう微小から極大までの不思議な世界の、中ほど尺度のところで、その辺でだけ通用する法則の中にいます。

                                         2005.11.6(2010.2.26一部修正)


不確かな世界

この世も私もすべてが不確かなものです。すべてが不確かなものである、ということが確かなことです。

私たちは空間と時間の中に居ますが、その空間は限りなく広いのか、それとも限りがあるのか、まだわかりませ

ん。私たちの時間は前にしか進みませんが、これはとても不思議なことです。空間はタテ、ヨコ、高さの3方向が

あり、どっちにでも行けるのに時間には前という1つの向きしかない。ヨコ向きや上向きの時間があってもいいん

じゃないか? 本当はいろんな時間があるんじゃないだろうか? 私たちは前向き一直線の時間の中に居るけ

れど、この時間は約150億年前にビッグバンと呼ばれるこの宇宙の誕生とともにスタートしたものだ。もしかした

ら別の時間を持った別の宇宙があるかもしれない。そういう宇宙がいくつもあるのかもしれない。ということは

別の時間がたくさんある、ということだ。私たちの宇宙と時間を1本の線だとすれば、何本もの線がある・・・。

私たちの線とそれらの線がどこかで出会い、触れ合うことがないとは言いきれない。また私たちの宇宙がビッグ

バンで始まった時に反対方向へ進みはじめた時間と宇宙があるかもしれない。いわば我々の裏宇宙! 私たち

が死に絶えたはるか遠い未来に、この2つの時間がふたたび出会うなんてことが・・・ないと言い切れるだろうか

。宇宙は我々の想像以上にダイナミックで不思議です。想像の中に真実はあると思います。私の想像力をどこま

で広げ、高められるかです。                                       2006.4.10


生と死と死後

生と死を考えるとき死という言葉があいまいに捉えられています。生の終わりの方を言う場合と死後の状態

を言う場合に分けて考えなくてはなりません。前者は死という名詞よりも死ぬという動詞が合います。それは

病気や苦痛をともなうことが多いので、それは暗いイメージになります。が、死後というのは生まれる前と同じ

で自分の意識もないのですから当然苦痛もなく、暗いイメージは必要ありません。どんなイメージも必要ない

のです。それが前者のイメージに影響されて名詞の死まで暗いイメージになりがちです。永眠という言葉は

中々よい表現だと思うのですが、寝ているときは(夢を見ていなければ)意識がないので死後と同じです。

だから暗くも明るくもなく、なんでもない状態です。ですから死に対する恐怖というのは死後への恐怖ではなく

主に生の終わりの状態への恐怖です。苦痛に対する恐怖です。主に、と言うのはもう1つ訳があるからです。

それは生きている状態への名残り惜しさです。家族や仕事や趣味や食べ物やその他いろいろ楽しいことへの

名残り惜しさです。それはどうしようもありませんが、死後はそれも消えてなくなるので問題ありません。

死後は意識がないという点で眠っているときと同じだし、生まれる前とも同じ状態です。生まれる前は何も問題

がない状態でした。むしろ生まれてからが問題だらけになりました。なぜ生まれたのだろう、なぜ私が私なのだ

ろう、なぜ私と同じようなあなたがいるのだろう、と。            2009.11月ころ    


生と死は混在する

生まれる前と死後の状態は安定した状態であり、生きている状態は不自然な状態です。

しかしこれらは別々のものではないと私は考えます。文字を節約するために生まれる前と死後の状態を

「空(くう)」と名づけましょう。私は「空」から発生し「空」に戻ってゆきます。生きている今は別の所にいるのか

というと、そうではなくやはり「空」の中にいるというのが私の考えです。空間的には私は原子でできています

が、原子と原子の間、そして原子の中もほとんど隙間だらけです。その隙間は何もないように見えて電磁波

などが伝わる謎の空間で、この空間は私が死んでも残るわけでこれを「空」と言ってもよいです。

また時間的に私の存在を考えてみると私の意識は時間的に必ずしも連続していません。けっこう途切れ途切

れになっています。いま原子のことを考えていたかと思うと今度は明日の予定を、そしてまた今度は風呂に入

ることを
といったぐあいにコマ切れの意識が入り混じっています。その1コマ1コマの間には何も考えていない

無意識の部分があります。ちょうど映画のフィルムのように不連続なコマを脳みそが上手に繋げているのです。

コマの間の無意識も「空」です。つまり空間的(身体的)にも時間的(意識的)にも私の中は「空」だらけなのです。

つまり私は「空」とともに生きているわけで、言い方を変えれば生きている私の中に死がある、ということです。

生の中に死があり、死の中に生があります。対立する別のものではなく共存しているのです。    2010.2.27


存在の厚み

一日が終わり、お風呂から出て歯磨きをしようとして洗面台を見るとき私は必ず不思議な感覚に襲われます。

夕べもこの同じものを見た。おとついも。そして今日もこの同じ洗面台の穴を見て同じことを考えます。きっと

明日のこの場面もすぐに来てしまうでしょう。夕べの洗面台と今日の洗面台の間にあった一日の時間はどこへ

行ってしまったのでしょう。もちろんそれは思い出せます。朝のトースト、新聞を読んで、メールをやりとりして、

、午前のレッスンがあって、お昼を食べて、アレンジをして、楽器を弾いて・・・たくさんのことをしたにも関わらず

夕べの洗面台と今日の洗面台の間はペッタンコに薄いのです。ノートのページのようです。歯磨きをしようと

洗面台を見たとき1ページが閉じられます。体積と重さがあると思っていた1日が薄く押しつぶされて1ページ

になって閉じられます。昼間起きたすべてのことが今はペッタンコな厚みのない記憶の平面です。

どんなに体積と重さがあっても、つまり確実に存在していると思えても、それは今という一瞬の中でだけの

ことで今が過ぎてしまえばそれはもう存在しません。毎晩、歯を磨くたびに閉じられて消えてゆく1日。

世界の在り方とは何と不思議なものでしょう。                 2010.11.8