西村丈彦(たけひこ) プロフィル(自己紹介)
男性68才、神奈川県平塚市で妻と暮らしている。
仕事と趣味が同じで、弦楽器と絵画の個人教室「ビレッジ教室」が収入源
好きな音楽:ブルーグラス、ハワイアン、マンドリン、クラシックの独奏曲や室内楽
聴くだけだがジャズのギター・トリオとピアノ・トリオ
好きな画家:シスレー、モネ、浅井忠、セザンヌ、ポリアコフ、カトラン、グエンジョン
モランディ、熊谷守一、ヴィヤール、服部正一郎、五百住乙人
好きな食べ物:すいか、おしるこ、羊羹、ざるそば、高菜炒め、松前漬、鯵の刺身、乳製品
ナチュラルチーズ、干しマンゴー、レーズン
炒めたものや焼いたものが好き うすい味付けがすき 素材の味が好き
好きな飲み物:コーヒー、ココア、緑茶、かぼちゃスープ、ウェルチのグレープジュース
お酒:のめない タバコ:すわない 脂っぽいものや肉はあまり食べない
好きな女優:西田尚美、綾瀬はるか、沢口靖子、奥貫薫、酒井和歌子、鳴海璃子
竹内結子、キムジョンウン、宮崎あおい、マリアシェル(古い人ですが)
きらいなこと:儀式的、形式的なこと、贈答、宴会、電話のおしゃべり(用件はOK)。
政治:市民運動に関わったことがあったが裏でいろいろあるようで遠ざかった。
自分の仕事によってのみ社会、世界の役に立ちたいと思っている。
宗教:名のついた神は神ではないと思っている。猫の生き方を尊敬している。
特記事項:親・兄弟・子供以外の結婚式、お葬式には一切出ないことにしております。
自分たちの結婚式もしなかった(野原で写真だけ撮った♪)。
私が死んでもお葬式はしないように。とにかく式はいやだ!
年賀状をこちらから出すことを15年以上前にやめた。
− 略歴 −
千葉県流山町(現在は市)で1947年(昭和22年)に生まれた。
東京から移り住んだ父母の、裕福ではないが進歩的な雰囲気の中で育った。
それが土地の子たちの感覚とは微妙なズレとなり、子供時代の風景は暗い。
近くにお住まいの笹岡了一画伯のアトリエで日曜日に絵を習った(自由に描いた)。
小4の時、松戸市に移り住む。ここの小学校では担任ぐるみのイジメをうけ人生のどん底。
イジメを知った父母の計らいで小6から松戸市内の別の小学校に転校し窮地を脱する。
小6のとき図書室の「驚異の原子力」という本で自分や世界が原子でできていることを
知った。それは私の世界観・宇宙観の元になった。
中学は、東京の慶応中等部を受験し受かって片道1時間半の電車通学。
早起きして殺人的な通勤ラッシュの山手線で通学したがイジメに比べ
れば何でもなかった。
私立校の明るくリベラルな雰囲気が私の縮んだ心をほぐしてくれたが
朝晩の電車内では疲れたサラリーマンを見て厭世的な気分が強く、
会社勤めはしたくないと思った。
運動部と文化部に1つづつ入ることを学校が勧めていたので柔道部
と気象部に入ったが、柔道部は体力的に夏休みまでしか続かなかった。
父が買ってくる河出書房や平凡社の世界名画全集の印象派やゴッホ、
セザンヌの絵に強く惹かれた。
慶応高校でマンドリンクラブと美術部に入った。横浜の日吉にあったので松戸からは通えず
東京の伯母のもと(伯母は借家に住んでおり、そこにまた借間した)から通った。
マンドリン・クラブでは楽器の弾き方と譜面の読み方をおぼえ合奏の喜びを味わった。
美術部ではよい友を得て青春の輝きを体験、暗かった人生がやっと明るくなった。
友との切磋琢磨のなかでデッサン力を身につけることができた。流山の笹岡アトリエにも
短期間、再び通ったが若い画家たちの熱気が刺激になっただけだった。
大学はなりゆきで慶応工学部へ進んだがバンジョーばか
り弾いていた。よく卒業させてもらえたと思う。感謝。
そのころ入ってきたアメリカのモダンフォークのバン
ジョーの音にハマってしまったのだ。
大学の初めの1年は親元(松戸)から横浜の日吉まで
通った。1年のときに美術のクラブに入ったが高校の
和気あいあいとした人間関係はなく、足が遠のいた。
2年からは工学部校舎が武蔵小金井にあったので再び
下宿になった。ここでブルーグラスギターのKくんと
出会いSくんをベースに誘い初めてのバンドを経験した。
多摩墓地で練習したので初めマウンテン・グレイヴヤードと名づけ後にブルーグラス・レンジ
ャーズと改めた。国分寺にあった日立の中央研究所のブルーグラスバンド「サザンマウンテン
ボーイズ」さんにもお世話になった。東京駒込の喫茶「青い草」へも何度か対中さんの演奏を
聞きに行った。レッスンもあるというのでアパートへ習いに行ったが譜面を使わず口伝えなので
こりゃぁ無理だと思って1,2ケ月でやめた。マンドリンクラブのSさんをフラットmに誘い
スタンレーブラザースやCジェントルメンの曲などを練習した。
レコードも教本も極めて少ない時代
で人づてに手に入れたオープンリー
ル・テープをテープデッキが壊れる
まで繰り返し聞いて耳コピーし、そ
れを楽譜(タブ譜ではなく)にした。
←
他の大学にも当時ブルーグラスバン
ドは沢山あったことを後で知った。
ブルーグラスをしながらも本当の目
的が見出せず孤独と焦燥の日々がつ
づいた。人生で2度めのつらい日々
であった。
4年の時だと思うが、高校美術部の友I君の誘いで参加した鎌倉円覚寺での学生座禅会の参禅
体験は、自分がわからなくなり焦り悩んでいた私に宇宙との一体感を感じとらせてくれて心に
支点ができた。大学時代の絵は、夏休み冬休みに家に戻ったときに描く程度だった。
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人間らしい仕事につきたくて教職を選んだ。千葉・埼玉・茨城で試験に落ち神奈川だけ受かり、
1969年、平塚市西海岸の公立H中学校に理科教師として赴任した。
公立校としてはリベラルな雰囲気のこの中学での8年間は熱く輝いていた。自分が開花した。
後半の3年間に器楽部(実質はギター合奏部)を創りアレンジに精を出した。
この中学の卒業生と作ったバンド「カントリー・ハーツ」がグラスファミリーに発展する。
1973年、町のフォーク教室でギターを習っていた小田原の里子と結婚。
里子も初期のカントリー・ハーツにパーカッション&Voで加わった。
1977年、平塚市K中学に転勤。リベラルな雰囲気はなく先生と生徒は
支配・被支配の関係が強く驚いた。私も地域の特徴を理解しようとせず
親や生徒たちと気持ちが通じなくなり教育者としての自分の資質に限界
を感じた。人生で3度めのつらい時期となった。5年勤めて退職した。
この学校では美術部の顧問をした。この部の子たちとはよい関係だった。
1980年「グラスファミリー」が発足、会報GFCを創刊した。
1982年春、公立中学校を退職し9月からマンドリン・ギターの個人教室「ビレッジ教室」を
始めた。私35才、里子33才、小麦6才、太郎2才。私は不安よりも夢に燃えていた。
その後2002年までのことは「ビレッジ教室の20年」(某BG月刊誌に掲載)に書いた。
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1997年にグラスファミリー会長を自主引退し若手と交替した。バンドをやっていることは
楽しかったが、バンドが増えて大きな組織になりアメリカのプロバンドを呼んだりするように
なると私の性格には合わない役目であることがはっきりしてきたからだ。私が情熱を失ったと
誤解した者もいたようだ。その後2002年頃グラスファミリーは発展的に解消し、横浜まで
を含めた「湘南ブルーグラス」というネットワークになったが私はこの運営にはたずさわって
いない。私は人を動かすことが好きではない。私はいつも自分が先に動く。私が動いたあとに
人がついてきていろんなものができたが、私はいつも新しい所へ歩いてゆく。
ブルーグラスのホームページなのでブルーグラスの話ばかりになったが、学校を退職したあと
一番力を入れたのはクラシックのマンドリンだった。仕事につながれば、と周辺の社会人マン
ドリンクラブに働きかけて毎年の「湘南マンドリン・フェスティバル」を始めた。これは10
年続けて規模が大きくなったところで面倒臭くなってやめた。そしたら勿体ないからと横浜の
クラブの人たちが後を引き継いでくれた。それが「神奈川マンドリン・フェスティバル」で
毎年横浜市栄区で行なわれ、今年は湘南Mフェスからの通算で35回めになる。
他には、2000年ころ平塚市中央公民館がウクレレ講座とギター講座の講師に私を招いてくれ
たことからウクレレサークル「ウクレレポロロン」と、ギター合奏サークル「ギターガーデン
湘南(当初の名称ははポップギタークラブ)」が生まれ、10年以上その講師をしている。
この2つは自分が演奏するのでなくアレンジ(編曲)したものを皆に弾いてもらうのでブルー
グラスとは違う面白さがある。パソコンの作曲ソフトを使うとアレンジが楽で音もすぐ聞ける
とアドバイスしてくれる人がいたが、車と同じで楽をすれば足が弱る。私の脳みそは和音を鳴
らせるし脳みそを使うことが快感だ。脳みそが作った譜面をサークルに持ってゆき本当の音に
なる時の楽しさといったら!それをパソコンにやらせるなんて勿体ない。パソコンは好きだけど。
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音楽に寄り道しすぎてしまったと思っている。
本当は絵描きになりたいという気持ちは変っていない。絵も教えてきた。何々会の会員でも
ないし、大きな賞をとったわけでもないのに生活のために35年も教えた。35年も教えた
ことよりもっとすごいことは35年も教わり続けてくれた生徒さんが3人いることだ。
今いる生徒は6人でうち2人は30年近い。詐欺で訴えられてもおかしくないが 皆個性的な
いい絵を描くようになったので許されるだろう。教えることは私自身に一番プラスになった。
2009年の秋にこの生徒たちと市民プラザで「水彩画展」を行い1000人近い人が見て
くれた。この時もっと絵を描きたいと思った。それで(水)(木)の昼間の楽器のレッスンを
ナシにした。音楽に偏った今の状態を少しづつ変えてゆこうと思ったが中々むずかしかった。
それでも2014年に駅前の「元麻布ギャラリー平塚」を知り、今までの私の絵を総まとめを
してみようと思い立ち6月に「水彩画個展」を11月に「油彩個展」を実行した。
「西村丈彦・絵と音の個展」という形でギャラリーで毎日演奏も行なった。たくさんの方が見
にきてくださり、ある程度絵も売れて赤字にはならずにすんだ。
あと2ヶ月で70才になる。バンドを1つ辞め代わりに大学時代の美術部OB会に復帰した。
しばらく前から言っていた「古希の個展」を行う。一昨年からハマっている「雪の富士山」の
水彩画10数点を主にして3年前と同じ「元麻布ギャラリー平塚」で開く。演奏も行う♪
5/30(火)〜6/4(日)平塚駅北口1分ホテル東横イン1F「元麻布ギャラリー平塚」
2017.1.26