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■カンボジアの歴史    (最終更新日:2004/9/29)
 
1720年 カンボジアはベトナムに服属していた。
1866年 フランスがカンボジアを植民地とした。
1942年 第二次世界大戦中、日本がカンボジアを占領した。
1945年 日本敗戦後、再びフランスの植民地となる。
フランス軍が、ホー・チン・ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)を武力により抑え込もうとしたため、インドシナ戦が勃発した。
カンボジア・ラオス・ベトナムは再び戦闘状態へと突入。
1953年 カンボジアはシアヌーク国王のもと、主権を回復。
1954年 カンボジアは独立を宣言。
王政に反対するクメール・ルージュ(ポル・ポト)は、中国の共産主義を取り入れた革命を目指していた。
1969年 ベトナム戦争の和平交渉が進まず、アメリカのニクソン大統領は一時カンボジアとラオスにまで戦闘を拡大させた。
1970年 シアヌーク国王がフランスへ外遊中に、首相であったロン・ノル将軍がアメリカの力を背景に軍事クーデターを起こした。シアヌーク国王は中国に亡命する。
シアヌーク国王はカンボジア国民に対して「ベトコン(ベトナム民族解放戦線)と
中国軍の力を借りてロン・ノル将軍率いる軍隊と戦うように」という声明を発表した。
しかし、アメリカ合衆国・タイ・南ベトナムという強力な軍事的背景により、阻止される。
1973年 ロン・ノル将軍はベトナム軍に勝利することとなる。その後もポル・ポトの指揮するクメール・ルージュを中心とする解放勢力と政府軍の間で内戦が続いた。
1975年 アメリカ軍・南ベトナム人・タイ軍がカンボジアから撤退したのを機にロン・ノル将軍はクメール・ルージュから首都プノンペンを制圧され、政権の座を奪われる。
クメール・ルージュは1975年4月17日にカンボジアの首都プノンペンで凱旋し、平和を約束する。
しかし、ポル・ポト率いるクメール・ルージュの支配下におかれたカンボジア国民は、クメール・ルージュ政権の間、推定200万〜300万人の国民が虐殺された。
ポル・ポトは400年前に行われていたような、全ての人々が農業に従事するという共産主義社会の建設を強行した。
この制度を施行するにあたり、社会制度を改革するため、市民一人一人の仕事、家族構成、財産を調査していった。
留学経験を持つポル・ポトは、教育水準の高い人間は反乱分子となりうると考え、残酷な拷問の上、処刑していった。
また、クメール・ルージュは「新しい生活の保障」と引き換えに「武器と財産」の返還を強制した。しかしその約束は保証されることはなく、ほとんどのプノンペン在住者は徒歩で遠方のジャングルに連れて行かれ、ある者は農村で強制労働に従事させられ、ある者は残忍な方法で処刑されていった。
クメール・ルージュ政権は1979年にベトナム軍に支援された「カンプチア救国民族統一戦線」がカンボジアに侵攻して首都プノンペンを占領、ヘン・サムリンを元首とする「カンプチア人民共和国」を樹立するまでの3年9ヶ月間続いた。
プノンペンを追われたクメール・ルージュ(民主カンプチア)はタイ国境付近で力を持ち、ジャングルにたくさんの拠点を張り、ヘン・サムリン政府への抗戦を続けた。
1989年 ベトナム軍がカンボジアから撤退した。
フン・セン(2004年現在、首相)とシハヌーク国王とソンサン軍に率いられたカンボジア軍は、引き続きクメール・ルージュとの戦闘を続ける。
1991年10月 パリ会議においてパリ和平協定が調印された。
1992年 停戦監視と公正な選挙の実施のため、国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)が成立され、国連平和維持軍が介入した。
内戦状態はそれでも続く。
1993年5月 ポル・ポト派を抜きで総選挙が実施され、主権君主制のカンボジア王国が成立した。
1998年 ポル・ポトが死亡。
カンボジア政府が出した恩赦令に呼応してポル・ポトの右腕といわれたタモック氏も逮捕、内戦が終了した。


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