周辺の史跡
小田原の魅力は小田原城だけではありません。
北条氏を降伏へと追い込んだ一夜城伝説が有名な石垣山一夜城や、
これまで注目を浴びなかった近代史についても清閑亭をはじめ、
大物政治家や実業家の別邸が小田原にたくさん建てられました。
小田原城周辺の史跡・文化財について紹介します。
石垣山一夜城 | |
豊臣秀吉が天下統一を果たした小田原合戦、 北条氏を降伏へと追い込んだ一夜城伝説が有名です。 しかし、実際は築城に約80日が費やされており、 関東より東国では初めての総石垣の本格的な城でした。 井戸曲輪など珍しい曲輪があり、 かつて秀吉も見下ろした小田原城下の眺めも素晴らしいです。 ハイキングコースとして晴れた日に登城してみましょう。 |
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富士山砦 | |
箱根外輪山より延びる丘陵地から早川に向かって突き出すこの山は、 形が富士山に似ていることから富士山(ふじやま)と呼ばれています。 天正18(1590)年では細川藤孝(幽斎)、忠興親子が、 小田原城攻囲軍として陣を構えたと伝えられています。 |
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清閑亭は黒田長成侯爵の別邸として造られました。 茶室建築の意匠を取り入れた数寄屋造りの邸宅で、 各所に侯爵別邸ならではの贅沢な工夫がされています。 建物は国登録有形文化財として無料で一般公開されており、 館内ガイドツアーや喫茶店などが有ります。 |
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松永記念館は小田原市郷土文化館分館として公開されており、 日本の電力事業に貢献した電力王、 電力の鬼とも呼ばれる松永安左ヱ門の邸宅です。 号を耳庵(じあん)とし茶の湯の世界では、 最後の数寄茶人として有名な方です。 昭和21年にこの地に移り住み本邸として晩年をここで過しました。 施設は茶会や短歌、俳句の会など様々な会合にも利用できます。 |
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小田原の西海子(さいかち)通りには小田原文学館があります。 この小田原文学館は田中光顕伯爵別邸です。 『海良し山良し天気良し』と斉藤緑雨が小田原を評したように、 多くの文学者が活動の場を小田原に求めました。 本館の文学館、白秋童謡館、尾崎邸書斎などがあり、 文学者たちが好んだ町小田原を再発見できるでしょう。 |
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板橋にある『あいおいニッセイ同和損保研修所』は、 山縣有朋が晩年過ごした別邸古稀庵です。 建物は何も残されていませんが、 有朋自慢の庭園は健在です。 公開日の日曜日には古希庵に足を運んでみましょう。 古稀庵の洋館、山縣有朋記念館の特別ページも作成しました。 是非、山縣有朋記念館にもお立ち寄りください。 |
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御幸の浜は明治6年8月3日に明治天皇、 皇后両陛下が箱根宮ノ下に行幸啓されるに先立ち、 小田原海岸にお立ち寄りの計画があり、 翌日4日にこの海岸にて地引網をご覧になられたことに由来します。 |
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小田原城総構の早川口近くには平成輔のお墓があります。 平成輔は鎌倉時代の京都の公家で平氏です。 後醍醐天皇の鎌倉幕府の倒幕に加担しますが、 計画が漏れた為に捕らえられ鎌倉に送られる途中、 この地で斬られました。 |
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形が蛙に似ている所から名づけられました。 小田原城内にあったという伝承がありますが、 調査では地下に埋まる巨大な岩の一角で、 元々この場所にあった可能性が高いそうです。 小田原に災害が起こる時に必ず鳴くという伝承があります。 |
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山王口があったとされる場所に北條稲荷があります。 北條氏康が亡くなった際に狐の祟りと驚いた北條氏政が、 狐の霊を鎮める為に壮大な供養をしたというのが、 北條稲荷の起こりです。 元々小田原城内にあった稲荷神社らしいですが、 現在はこの位置に移築されました。 |
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山角天神社には瓜生外吉像がひっそりと置かれています。 日露戦争では海軍提督として仁川沖の海戦で最初の号砲を鳴らし、 戦功により海軍大将、男爵までのぼりつめます。 近くには瓜生坂と呼ばれる坂道もあります。 |
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荻窪用水に残る水車小屋です。 主に精米に使われていたようですが現在は使われていません。 地元のおばあさんによると 最盛期には荻窪用水に沿ってずらっと15台並んでいたようです。 |
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荻窪用水が北に折れ曲がる場所に、 童謡『めだかの学校』の親水公園がありました。 『めだかの学校』は荻窪用水の小川がモデルで、 作詞家の茶木滋によって作詞されました。 荻窪の親水公園には記念碑やめだかの住む小川、 小川に水を引く水車小屋などがあります。 |
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