城下町
じょうかまち
小田原の街角の各所には昔の町名とその名の由来が刻まれた石碑が置かれています。
この石碑は『旧町名保存碑』といい、歴史のある小田原の街の町名を後世に残すために、
小田原市は昭和60年度から「歴史的町名保存事業」として町名を調査し石碑を設置しました。
こちらの画像は小田原市教育委員会が作成した資料、
『歩く・見るおだわらの城下町・宿場町』を元に作成した江戸時代の小田原の城下町の地図です。
この配布資料に基づいて小田原の街と『旧町名保存碑』を合わせたの風景写真を集めてみました。
町名に振った番号は全て『歩く・見るおだわらの城下町・宿場町』に基づいたものです。
町名の番号が途中飛んでいるところもありますが、
これは石碑を設置していない町、又は石碑を見つけられなかった町があるためです。
現在私が石碑を確認できているのは地図で示す100箇所に対し81箇所になります。
又、石碑に刻まれている説明文を原文のまま公開致します。
(※構成上、段落に手を加えた説明文もあります。)
又、小田原の城下町には日本最古の上水道と言われる小田原用水が流れていました。
上記の地図には小田原市道水路整備課の『河川排水路網図』を元に、
小田原用水と関連性の高い現在の排水路を水色のラインで示しました。
町名とその由来、そして小田原用水も貴重な文化財です。
『旧町名保存碑』を探しながら、又は小田原用水をめぐりながら、
小田原の城下町を歩いてみましょう。
そこには今まで知らなかった小田原の町の歴史が隠されています。
小田原用水 | |
小田原用水は戦国時代に北条氏が城下町を潤す為に、 施設した日本最古の上水道と言われます。 記録として最古のものは天文14(1545)年北条三代氏康の頃、 連歌師谷宋牧の東国紀行があります。 そして時代の移り変わりと共に多目的用水として変革していきました。 現在に残る小田原用水の軌跡を追いかけてみましょう。 |
|
東海道筋通り町 | |
江戸時代の小田原の町は、 東海道の箱根越え直前の宿場町として栄えました。 その中心が東海道沿いに9町あり、「通り町」と言われました。 大名が泊まる「本陣(ほんじん)」、や「脇本陣(わきほんじん)」、 一般の旅人が泊まる「旅籠(はたご)」等が並び、 宿場町のたたずまいがみられました。 |
|
東海道筋南部 脇町 | |
東海道筋の南側の海沿いにあった町を「脇町」といいます。 これらの町には魚商 、廻船業、漁業関係者が多く住みました。 この町並みは昭和の時代まで続きましたが、 早川に小田原漁港ができるとそちらに移動してしまいました。 |
|
東海道筋 横町及び小名 | |
東海道筋の周りには表通りから横に入った通り筋にある「横町」や、 町を小分けした「小名(こな)」がありました。 ここでは『旧町名保存碑』を確認している7町を紹介します。 |
|
甲州道筋 | |
東海道筋から北上する甲州道沿いにあった町を「脇町」といい、 これらの町は城下町小田原としての商人色の濃いところでした。 又、甲州道筋の脇町にも横町・小名があり、 山上横町、誓願町、錦織町などがありました。 |
|
小田原城東部 武家地 | |
武家地は小田原城の周の町人地以外の広い平坦地にあり、 小田原藩の施設や武家屋敷などが立ち並んでいました。 ここでは小田原城東北部の武家地を紹介します。 |
|
甲州道東部 武家地 | |
甲州道東部の武家地には大新馬場や中新馬場などの馬術の調練所や、 花ノ木の広大な土地を許された連上院や本源時などのお寺もありました。 ここでは甲州道東部の武家地を紹介します。 |
|
小田原城南西部 武家地 | |
閑静な住宅街、東海道筋の南西部の海岸寄りには、 いくつもの小路の名前が残っており、 この地が武家地であったことを匂わせます。 |
|
戦国時代 小田原城 | |
箱根外輪山の丘陵地には戦国時代の小田原城がありました。 この戦国時代のお城の跡にも地名として、 『旧町名保存碑』は設置されています。 |
|