戦国時代 小田原城
せんごくじだい おだわじょう


戦国時代の小田原城
箱根外輪山の丘陵地には戦国時代の小田原城がありました。
この戦国時代のお城の跡にも地名として、
『旧町名保存碑』は設置されています。

鉄砲矢場(てっぽうやば)
87.鉄砲矢場
この地は、小田原北条氏時代に造られた小田原城の三の丸空堀と
総構(そうがまえ)の空堀とに挟まれた東西に細長い地域、
両方の空堀が接する西側には「二重戸張」(ふたえとばり)と呼ばれる虎口(こぐち・城の出入口)があった。
ここが矢場として利用されたかどうかは、明らかではない。

天神山
88.天神山(てんじんやま)
地名の由来は、この地の南側中腹に天神社が祀られていたので、この名があると考えられる。
この社には室町時代の天神画像が伝えられおり、この地名の古いことがわかる。
なお、天神山には社の背後に小田原北条氏時代の三の丸の空堀が東西に延びていた。

御鐘の台
90.御鐘の台(おかねのだい)
天正十八年(一五九○)豊臣秀吉の小田原攻めに備え、
小田原北条氏が小田原城大外郭を設けた時、この地は城域に取り入れられた。
小田原城の西端に当たり、中世の城郭遺構が最もよく残っているところである。
地名の由来は、小田原攻めの時、この地に陣鐘が置かれていたためといわれている。

毒榎平
91.毒榎平(どくえだいら)
この地の西側に残る巨大な土塁と空堀は、小田原城の三の丸外郭の遺構で、
小田原北条氏時代後期に築造されたものである。
この遺構は豊臣秀吉の小田原攻めに備えた大外郭成立以前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。
毒枝は植物の油桐のことであるが、ここで栽培されたという記録は残されていない。

小峯畑
92.小峯畑(こみねばた)
この盆地状の土地は、古くは城の要害として利用されたと考えられ、
江戸時代には、この地の土砂を小田原城の低地部の改修用に運び出したという伝承もある。
また相模湾岸などの警備が重視される幕末のころ、
ここは「小峰畑調練所」となり、小田原藩兵の軍事訓練が行われた。

小峯
93.小峯(こみね)
小峰と呼ばれていた地域はかなり広く、また時代によってその範囲が著しく伸縮したが、
武家屋敷としての小峰はこのあたりを指し、江戸時代の中期ごろには藩の重臣屋敷が並んでいた。

八幡山
94.八幡山(はちまんやま)
この地には、二つの八幡社があった。
その一つは、北条氏が鎌倉八幡宮から勧請(かんじょう・神仏の分身を他に移す)したものといわれ、
江戸時代には、「元宮」または、「本丸八幡」と呼ばれた。
他の一つは江戸時代初期小田原城主大久保忠世が祀ったもので、
「新御宮」または「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのように二つの八幡社にちなんだものである。

鍛冶曲輪
95.鍛冶曲輪(かじくるわ)
鍛冶曲輪は丘陵地に位置し、小田原北条氏時代の小田原城の重要な曲輪(くるわ)であったと考えられる。
この地は早くからこの地名があったが、
江戸時代前期の寛文二年(一六六二)小田原城主稲葉正則に召抱えられた刀工藤原清平も移り住んだといわれ、
「相州八幡山住藤原清平」の銘がある刀剣も残っている。

八幡曲輪
96.八幡曲輪(はちまんくるわ)
この地は、古くは「裏大門」と呼ばれたところで、「八幡曲輪」の地名は、武家屋敷地としての名である。
東西に延びる坂道の両側には藩の中堅藩士の屋敷があり、江戸時代を通じて五軒ほどの住まいがあった。
幕末にはこの地名は、単に「八幡山」とも呼ばれるようになった。

天守裏
97.天守裏(てんしゅうら)
この地は、もと小田原城の天守台の裏手に直接続いていたのでこの地名がある。
現代に入り東海道線の間削工事によって東西に分断された。
ここは「八幡山古郭群」と呼ばれる小田原城創始期の城跡の残る地域に続き、
小田原城の核心部として重要な地域であったことが知られる。

御前曲輪
99.御前曲輪(ごぜんくるわ)
この地は、今も底の広い窪地で、以前は土塁や空堀をもつ城郭構造であった。
この一角から中世の祭祀遺構と考えられている敷石遺構が発掘され、現在も保存されている。
城郭でいう御前曲輪とは、一般例では城内の神仏をまつる場所である。
なお、この曲輪には「人質曲輪」という別称もあった。


引用・参考文献

各旧町名保存碑
小田原市教育委員会 歩く・見るおだわらの城下町・宿場町 小田原市


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