御用米曲輪の史跡整備が始まりました
2011/10/13


御用米曲輪の整備が始まりました
10月13日より御用米曲輪の史跡整備が始まりました。
御用米曲輪は江戸時代、幕府の米倉として利用されたと考えられていて、
江戸初期には百間倉という名称で呼ばれてました。
天正18(1590)年、北条氏が小田原合戦の時に秀吉の14万とも言われる軍勢に囲まれながら、
約100日の篭城戦を戦い抜いた原動力がこの曲輪にあるかもしれません。

又、江戸時代に二宮尊徳さんが小田原城の米倉を開けて、
天保の飢饉から領民を救ったという逸話がありますが、
この御用米曲輪の米倉の可能性も秘めています。

御用米曲輪の整備が始まりました
今回の整備は野球場として使われたスタンドを撤去した際に、
スタンドを突き破って生えている雑木を自立させる為に身を軽くする枝おろしです。
スタンドの撤去後に倒壊の恐れのある雑木は伐採の対象になります。
まずは曲輪内に飛び出した枝が重機搬入の邪魔にならないように枝おろしをします。

御用米曲輪の整備が始まりました
作業はクレーンでゴンドラを吊るし作業員がゴンドラから枝おろしを行います。
この作業の妨げになる枝も枝おろしの対象になります。
このスタンドの下には400年以上の歴史のある土塁が隠されています。
その上に生える雑木は楠で成長が早く樹齢50年ぐらいでこの程度までの大きさに成長します。

御用米曲輪は戦国時代、北条氏の城郭遺構を色濃く残していると言われ、
画像奥、土塁の向こう側には評定所曲輪という長細い帯曲輪がかつてありました。


1995 小田原市史 別編 城郭より加筆、着色

この帯曲輪は奥にある焔硝曲輪と堀で分断されており、行き止まりになっています。
進入した敵の目にはこの行き止まりが解りにくくなっており、
敵が気づくまでに大量の横矢を浴びせる事が出来る非常に防御性の高い構造です。

永禄4(1561)年の上杉謙信、永禄12(1569)年の武田信玄の来攻時では、
この土塁上から帯曲輪に進入した敵を迎え撃った戦いが想定されます。


スタンド撤去後にスタンドの下に隠れる土塁の発掘調査が行われます。
史跡と緑の共存という理念の元、憩いの場として史跡整備が行われますが、
課題がまだまだ多いように感じ取れました。

以下からはこの土塁の現状の問題点を取り上げてみたいと思います。

出土した石垣
スタンドの無い場所で1月に行われた発掘調査では江戸時代の米倉の石垣が出土しましたが、
楠の根によって破壊が進んでいることが確認できました。
小田原城の石垣は関東大震災によって殆ど倒壊してしまった為、
江戸時代の工法のまま残るこの石垣は文化財的価値が非常に高く、
このままでは二度と見られなくなる可能性があります。


こちらは夕暮れ時の画像。
このように土塁上の楠にはカラスがたくさん集まり寝床としているようです。
このカラスたちは城址公園だけでなく周辺の街中まで寝床としているようです。


楠の根元にはびっしりとカラスの糞が落ちています。
とても腰掛けられません。
憩いの場どころか衛生上考えても問題があります。


引用・参考文献

小笠原清ほか小田原市編さん委員会 1995 小田原市史 別編 城郭 小田原市


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