講演会 中世都市小田原の風景体験レポート
2011/5/28



5月28日、東海大学湘南校舎で行われた講演会『中世都市小田原の風景』を聞いてきました。
「地域の歴史を掘り起こす」をテーマに東海大学文学部歴史学科日本史専攻がシリーズで開催している講演会です。

今回のテーマは
『戦国大名小田原北條氏が都市として小田原をどう整備し領国支配を行っていたのかを、
これまでの発掘及び文献調査の成果から読み解く』
小田原市文化財課の佐々木健策さんが講演しました。


主な内容は以下の通りです。

はじめに〜相模の国の中世
1.小田原北條氏と小田原
2.小田原の景観と文化
3.小田原北條氏と領国支配


順を追って説明したいところですが、
配布されたレジュメだけでもびっしりと11ページにも及ぶ内容ですので要点を簡単に説明します。



1.キーパーソンは北條二代目北條氏綱

約100年に及ぶ関東の領国支配、小田原北條氏の基盤を作った人として説明されました。

北條と名乗る前、伊勢氏は当時関東に君臨する諸大名からよそ者扱いをされ厄介者とされました。
そうしたイメージを払拭し、関東の支配の正当性を主張する為に氏綱は以下の様々な施策を行います。

1.伊勢から北條へと改姓
2.鶴岡八幡宮をはじめとする寺社の造営
3.相模国主、相州太守を名乗る
4.関白近衛尚通との交流の密化
5.娘の関東公方足利晴氏へ入嫁による関東足利家御一家化

簡単に要点をまとめましたが一言で言うと、
以上の関東の支配の基礎固めを氏綱は実行し、
以後100年近く小田原は関東支配の中心地になりました。


2.出土品から見る北條氏の領国支配

氏綱は近衛尚通との交流により威信財の移入を積極的に行います。
又、寺社造営で呼び寄せた京職人の小田原定住化による、
独自の文化の創生により小田原物と言われる産物も産まれます。

氏綱は積極的に京文化を取り入れていったのですが、
出土品の代表『かわらけ』にもこの京文化移入の様子が伺えます。

『かわらけ』は現代で言えば紙コップのようなもので塗り薬を使わない使い捨ての土器です。
成型方法の違いでロクロ成型と京風の手づくね成型のかわらけがあります。
小田原系かわらけは後者の京風の手づくね成型のものです。

そして威信財、小田原物、小田原系かわらけ等が北條氏の各支城で出土しています。
出土品の多くはかわらけになりますが、
威信財として中国から輸入されたと思われる陶磁器も各支城で出土しています。
これを『珍しくないよ』と言って受け取らせた書状が見つかったりしており、
北條氏はこうした威信財を使って領国支配を強めていったのではないかと推測されます。



3.中世小田原城のイメージ

講演会の順番を全く無視して説明していますが、当サイトは小田原城を紹介するHPですので、
この記事をご覧の方々の関心は小田原城にあると思います。
じっくりと紹介したいと思います。


実は難攻不落ではなかった小田原城!?

小田原城と言うと上杉謙信や武田信玄の攻撃を防ぎ、
豊臣秀吉の来攻時の全長9kmにも及ぶ『総構』から難攻不落の城のイメージがあります。

これまでの文献調査の成果から『総構』は天正18年、秀吉の来攻に備えて整備されたもので、
少なくても天正15年までには存在しなかったことが解りました。
つまり約100年続いた北條の時代でも『総構』はたった3年間しか存在しなかったことになります。


又、武田信玄の攻撃を受けた時は、
二の丸に位置する「氏政の屋敷を焼き払った」、
「巣城だけ残してやった」等の文献が見つかっています。

この巣城とは本丸を指し、本丸を残すだけにして他は散々荒らされたということになります。
つまり、北條氏は落城寸前の窮地に追い込まれた可能性が高く、
当時の小田原城の防御力はさほどではなかったのではないかのこと。

小田原城の縄張図として紹介されるものの殆どは『総構』を含む巨城の姿ですが、
戦国時代の小田原城の姿は大分違うようです。


戦国時代の小田原城は花の御所!?
足利義氏が氏康邸を訪れた記録「鶴岡八幡宮社参記」には、
氏康の屋敷には「寝殿」と「会所」が備えられていたことが書かれています。
これは16世紀に各地の大名家で採用されていた将軍邸、管領邸を模した花の御所的な構造と言えます。
城下町は京都を彷彿させる碁盤の目に沿った区画割を持つ町割りが施工されおり、
花の御所的な屋敷が建ち並ぶ洛中洛外図に描かれたような町であったと考えられます。


戦国時代の城下町はまるで京都のよう!?
これまで小田原の街で発掘されたもので道路状のものや溝、つまり掘などがありますが、
町割りとして綺麗に碁盤の目のように揃って出土しています。
この町割りを50x50mのグリッドに合せてみると、
その誤差の殆どが一桁台で、最大でも13度という精密なものであることが解りました。

既に京文化を積極的に取り入れたと説明しましたが、
町割りも京都を目指していた事がわかります。


戦国時代に三の丸が無かった!?
発掘調査の結果から江戸時代の三の丸の堀が無かったことが解りました。

北東に位置する三の丸堀近くからは北條氏の時代の障子堀が見つかっており、
この障子堀の範囲を特定したところ、
三の丸堀を無視するような形で方形の屋敷が構えられていた事が解りました。

又、別の場所の三の丸の堀を発掘したところ、
加藤図にしか描かれていない横矢折れが確認され、
前期大久保時代の慶長期の石垣と堀が発掘されました。
しかし、戦国時代の堀は見つかっておらず、
この発掘現場の結果からも三の丸の堀が戦国時代には無かった可能性があるとの見解です。

又、江戸時代の縄張とは全く関係の無い場所からも堀障子が発掘されております。
江戸時代の三の丸の範囲には碁盤の目のように侍屋敷が建ち並び、
各屋敷はそれぞれ北條氏特有の障子堀で囲まれていたのではないかと推測されます。


八幡山って何!?
毛利家が所蔵する小田原陣仕寄陣取図には小田原城として本城と新城が描かれており、
当主の氏直の居城とその親、氏政の隠居城の2つの城の存在を示すものと考えられています。

本城は氏康が晩年家督を氏政に譲った後、御本城様と言われたように当主の城で氏直、
新城は秀吉の来攻に備え新しく築城した氏政の隠居城で、
現在八幡山古郭群と言われる範囲ではないかとのことです。


以上の調査の結果からこれまでの定説、大森氏が八幡山に小田原城を築き、
北條氏が同心円状に拡張していったという定説が説明できない事がわかりました。
同心円状発展説は見直さなければならないということになります。



4.考察
以上、講演の要点を簡単にまとめさせていただきました。
以下は講演を聞いた後での私なりの考察です。

小田原城は城址公園
では戦国時代の小田原城の範囲はどうだったか。
八幡山については天正年間以前の中世の出土品がこれまで発掘されていません。
八幡山は含まれず三の丸もない範囲、
つまり、戦国時代の小田原城は丁度現在の城址公園の範囲になることが解ります。

恐らく大森氏の居城、北條早雲こと伊勢盛時が奪った城も城址公園の範囲でしょう。
八幡山からも出土品も無いこともあり、大森氏は関の預かり人でしたので、
低地部に城を構えたと言われております。

以上、小田原城は築城されてから500年以上、
お城として同じ場所に存在していることになります。
これだけ長い間同じ場所で存在し近世化されたお城は全国でも珍しいのではないかと思います。


小田原は第二の京都
北條氏は京文化を取り入れるだけでなく、
町割りや自らが構える屋敷まで京都を意識していたことが解ります。

北條氏は天正18年の小田原合戦にて敗北し滅亡へと追い込まれてしまいますが、
最後まで秀吉に屈服せず抗戦に望んだ理由はこの京文化を意識したことにも見受けられます。

つまり、小田原を領国支配の中心地として第二の都を目指した。
関東を独立国としてその中心地を小田原にしたいという北條氏の思いが感じられます。



以上、いかがでしょうか?
今回は講演会ですので体験レポートとしてまとめるつもりがなかったのですが、
講義録を作成して欲しいという要望に答えておおっざぱな内容になりましたが要点をまとめました。
画像は用意しませんでしたので文字ばかりで見苦しい点はご了承ください。

今回の講演を聞いて小田原城と小田原の街をまた変わった視線で見ることができそうです。
小田原の街を歩く楽しみがまた増えました。


引用・参考文献
佐々木建策 2011 中世都市小田原の風景講演会配布資料及び解説


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