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( 標高 : 1,356 m ) N 35°13′29″ E 139°01′29″ |
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1 所 在 地 : 神奈川県足柄下郡箱根町 2 雪 形 : 出ない 3 山名の由来 : (1)箱根神社の奥の院「駒形権 現」が山頂に奉られたことによ る。 「角川・日本地名大辞典」 (2)溶岩円頂丘のこの山を、麓 から見て馬の形に残雪が見え たときは豊作という言い伝えが あった。 一方、コマは高麗に通じる という見方もある。 「日本自然地名辞典」 (3)山頂近くに「駒ノ爪」という 巨岩がある。これが山名の起 因で、駒形権現の石祠がある。 「世界山岳百科事典」 など、いくつかの説があるが、 「高麗ヶ岳」から「駒ヶ岳」にな ったと言うのが有力のようだ。 山 名 の 由 来
箱根駒ヶ岳の山名の由来のついては、諸説があ る。 文化史研究家の谷有二氏は、『富士山はなぜフジ サンか』の中で、箱根駒ケ岳の山名について考察さ れている。その概要は、次のとおりである。 朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)が滅ぼされ戦い で国を失った高麗人が日本列島へ逃げてきた。その 一つ高麗王若光の集団が神奈川県の大磯の浜に 上陸して住み着いた。 この辺りを、交通情報では「唐が原(とうがはら)」と いっているが、正しくは「もろこしがはら」という地名 が残っている。 その証拠に、近くには「高麗山」があり、そこには「 高来神社」が祀ってある。いまでは、「こまやま」と読 ませているが「こうらいさん」であり、「たかくじんじゃ」 と読ませているが、まさしく「こうらいじんじゃ」だ。 大磯を本拠地にしていた高麗人は、箱根の開拓に まで広げていって、1,327mの山上に「高麗権現」を 祀った。高麗権現を祀った山が箱根の高麗ヶ岳にな り、後に「箱根駒ヶ岳」となったという。 「箱根権現縁起」 わたくしも、この説を支持したい。 箱根駒ヶ岳の伝説 箱根駒ケ岳は、古来より、神々が白馬に乗って降臨されたという伝承があり、聖占(しょうせん)仙人によって約2400年の昔、初めて祀られて以来、箱根神社の元宮(もとみや)とされている。 駒ヶ岳駒ケ岳山頂には、昭和39年に再建された箱根神社奥宮があり、境内には人々の信仰を集めている巨石群がある。中でも「馬降石」には馬神信仰と祈雨信仰が伝えられ、古代祭祀の遺構として知られている。 毎年10月24日には、古式にのっとり、山頂で「御神火祭」、そしてその例祭が斎行される。 |
![]() 箱根駒ヶ岳(左)と神山(右) 鷹巣山からの展望 カシミール3Dで作成 ![]() ![]() ![]() |
会友・田口計介氏 (現・駒ヶ岳ファンクラブ会長) から、箱根町の駒ヶ岳を古文書から調査された「箱根駒ヶ岳あれこれ」が寄せられた。ここに全文を掲載させたいただきます。(2004・05・14) 1 『筥根山縁起』の駒ヶ岳 箱根神社の別当源行実(源頼朝の義弟とされる)が編集し、興福寺僧信救が書き残した『筥根山縁起』は、鎌倉幕府発足の前年建久2年(1191)に完成している。原本は失われていて、2種類の写本が残されている。 この書に「聖占仙人が駒岳の山頂に権扉を排して神仙宮を営んだ」とあり、箱根駒ヶ岳の初出であるが、全国の駒ヶ岳としても初出であろう。『筥根山縁起』は箱根三社権現の形態と出現を記録している著であり、筥根(箱根)山の原始山岳信仰と役行者小角など有力な修行者の話を載せている。 筥根山とは大よそ神山と駒ヶ岳を指し、神山が神籬(神体山)であり、駒ヶ岳は“産土の神”(地主神)が奉斎されていたが駒形権現に発展したとされている。聖占仙人が神仙宮を営むとは、道教的(呪術的信仰、老荘思想と神仙思想の結合)な影響も伺える。また権現とは、仏・菩薩が大衆を救うために神の姿で現れることを言う。 箱根駒ヶ岳に駒形権現が出現したことは、どちらが先かは別として原始の山岳信仰に仏教がジョイントして新しい信仰の形態を生み出したのである。これは駒ヶ岳を箱根神社の上社とする、山岳信仰の確立である。 山岳信仰の形態を残すのは箱根神社以外に、奈良の大神神社(背後の山がご神体)、信州の諏訪神社上社などがある。 2 大磯浜への高麗人の渡来 はじめ化粧坂から花水橋に至る大磯村高麗の地に居を定めたが、後に武蔵高麗郡に移った。 大磯の国人は若光の徳を慕い、高麗(高来)神社を創建、高麗王若光の霊を祀った」とある。 高麗王若光の伝承は、相当部分事実を伝えている。 �@ 朝鮮半島の高句麗が、新羅に討たれ668年滅亡した �A 『続日本記』の大宝3年(703)4月の條(項)に「高麗王若光に王姓を賜う」とある �B 『続日本記』に「霊亀2年(716)、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、常陸、下野の7カ国に高麗人1799人を遷し、武蔵国に高麗郡を置く」とある �C 森浩一同志社大学名誉教授によると「古代の人は潟を港として利用していた。太平洋沿岸で潟の様子がはっきりしているのは、 さらに「太平洋沿岸の有名な遺跡のあるところは、帯状の潟が残っていて今日でも小船が出入りしている」そうである。大磯、平塚一帯は縄文遺跡、弥生遺跡、古墳の宝庫である。 �D �E 高来神社はタカク神社、コウライ神社、コマ神社、ゴンゲンサマとも呼ばれ、7月に夏の大祭を開催している。 この大祭の祝歌に「抑権現丸の由来を尋ぬれば、応神天皇の16代の御時より、俄かに海上騒がしく、浦の者共怪しみて、遥かの沖を見てあれば、唐舟急ぎ八の帆を上げ大磯の方へ走り寄る・・・・・、かの舟の中より翁一人立ち出でて・・・、我は日本の者に非らず、諸越の高麗国の守護なるが、・・・、汝等帰依する者なれば、大磯の裏の守護となり、子孫繁昌と守るべし。・・・権現様を載せ奉りし舟なれば権現丸とはこれを言うなれよ。ソウリャン ヤイヤン」とあり、地元では若光伝承を受け継いでいる。 この高麗権現由来の祝歌は『高麗権現由来記』の内容が元であり、由来記の書き 書き写しは北条茂時の一子但馬守とされている。 3 『箱根権現縁起絵巻』 『箱根権現縁起絵巻』は国の重要文化財であるが、この十一段を要約すると「斯羅奈国のさだいえ中将と娘二人(りょうさい、りょうしゅ)、娘の夫二人(波羅奈国の王子、太郎、次郎)5人が大磯に上陸し高麗寺に止っておろうとしたが、箱根が霊験あらたかな聖域であると聞き、箱根にきた。さだいえ中将と次郎・りょうしゅ夫妻は箱根山に止まり、太郎・りょうさい夫婦は伊豆山に入って、そこを開発した。中将らが箱根三所権現であり、太郎夫妻が伊豆山二所権現である」である。 この記述は渡来人(高句麗など)が仏教を携え大磯に上陸、そして箱根に移り、伊豆にも影響を及ぼしたことを意味し、箱根駒ヶ岳が大磯の高麗山から移転したとの伝承の元になっている。 4 箱根駒ヶ岳山頂の遺跡調査 駒ヶ岳山頂の駒形神社の社殿新築工事に伴い、昭和39年(1964)国学院大学が周辺の遺跡調査を行った。発掘に従事した坂詰秀一氏の報告の要旨は以下の通りである。 駒ヶ岳山頂の磐座は、五個の安山岩質の自然石である。五個には大きな馬降石、馬乗石とやや小ぶりの三個の石である。発掘は、これらの磐座の周囲を対象に行われた。 出土品は土器片、坏形土師器(燈明皿)、鉄釘片、古銭(宋銭、寛永通宝)である。発掘調査に基づく所見は「中世を上限とする時期以降に一宇が存在していた」としている。 中世を上限とは平安時代には遡らないものであり、箱根駒ヶ岳の山岳信仰を含む歴史は鎌倉時代から始まったと考えてよい。 聖占仙人、役行者小角(姥婆塞)などの伝説、伝承は、考古学的には否定されたのである。 しかし、山岳信仰はさて置き「斯羅奈国」説話ではないが、この箱根地方にも奈良時代には仏教は入っていた。神山をご神体とする神道以前の山岳信仰が仏教と結合し、まず社殿建築を行う形で箱根神社を創建、その後平安時代の後期か、鎌倉時代の初期駒ヶ岳山頂に元宮を営んだのであろう。 ここで、同じ関東で山岳信仰が行われている日光の男体山(二荒山)について述べる。 男体山の伝承によると、天応2年(782)勝道上人が男体山に初登頂して、奥宮を創建したとされる。勝道上人の役割は箱根駒ヶ岳の聖占仙人と同様であり、実在は疑わしい。 昭和34年(1959)、男体山上の祭祀遺跡についての本格的な発掘調査が行われた。そして奈良時代以降の古銭、銅印、仏具、武器など7000点以上が発掘されている。山岳信仰の始まりが、箱根駒ヶ岳の鎌倉時代に比べて男体山は400年ほど古いことになる。 5 古絵図からの駒ヶ岳 古代の太平洋側の西から東への移動は、箱根山塊一帯が一大障壁となっていた。 しかし箱根をそれた伊豆半島の天城越えよりも、箱根・足柄越えの方が採用された。それは天城山の方が高く、かつ距離的にも大幅に遠回りになるからである。 奈良時代の頃から箱根越えは開発されていて、「碓氷道」( さらに、平安時代末期ごろからは「箱根道」がメインとなる、ほぼ旧東海道である。従って、箱根周辺の古い絵図が残っていそうだが、残念ながら江戸時代以降の古絵図しかない。 判明している古絵図を古い順に並べると ・ 東海道分間絵図 正保元年(1711) ・ 箱根権現領と小田原藩仙石村村境争図 享保16年(1731) ・ 東海道名所図会 寛政9年(1797) ・ 東海道分間延絵図 文化3年(1806) ・ 箱根七湯一覧 文久3年(1863) 駒ヶ岳記載 ・ 相州箱根山地図 慶応4年(1868) 駒ヶ岳記載 ・ 相州箱根温泉真景全図 明治35年(1902) 駒ヶ岳記載 などである。
6 箱根駒ケ岳の雪形 多くの駒ヶ岳ではその名前の由来の一つを雪形としているが、箱根駒ヶ岳ではどうであろうか。幾つかの山名辞典では、箱根駒ヶ岳の由来も雪形としているがその出所は不明である。 『日本自然地名辞典』 山口恵一郎編 「麓から見て馬の形に残雪が見えた年は豊作という言い伝えがある」 『日本山岳ルーツ大辞典』 藤田恭一編集 「農事がはじまるころ、残雪が馬の形に残るからともいわれる」 では、実際の箱根における積雪はどんなものであろうか。江戸時代の紀行文に、積雪による箱根峠越えの厳しさを示す文章がある。 『よし正紀行』宮部義正著 安永9年(1780) 「正月4日、山上は雪深く、関所手前で引き返したという多数の旅人と出会い、畑宿 に泊ることを余儀なくされた」 『道中日記帳』金子太市著 嘉永3年(1850) 「畑宿を後に坂を登るにつれ、雪が2〜3尺も積ってあたため、駕籠を降りることを余儀なくされた」
これらの道中記の時代に比べ、今日は地球温暖化の影響で箱根の降雪量は大幅に減少していると思われるが、ここに 観測地点は元箱根(芦ノ湖の標高724m)で、昭和50年から平成15年までの28年間の0,5cm以上の積雪深の記録である。28年間で降雪日の総計は237日で年平均8,5日、年毎に見ると積雪深の最高が平成13年の87,0cm、最低が平成9年の4,5cmであり、年平均は22,6cmであった。 また、伊豆箱根鉄道(株)駒ヶ岳鋼索道課がロープウェイ頂上駅(標高1328m)の積雪の状態を記録している。 この記録は平成12年〜16年のものであり、積雪深の最高は平成12年と13年の20cmである。元箱根に比べて積雪深が浅いのは、頂上駅すなわち駒ヶ岳が吹き曝しであり、これが原因であろう。駒ヶ岳の山肌には、元箱根以上の積雪がある筈である。 二つの辞典が記載しているように、箱根駒ヶ岳の雪形を農事暦にしていた時代もあった。その頃に比較すると現在は降雪頻度、降雪量も大幅に減少しているし、農事暦としての雪形も必要ない。 しかし、箱根駒ヶ岳に雪を出現させる条件は立派にある。すぐ近くの丹沢でも馬の雪形が出現(2,001年1月18日、神奈川新聞)したとの報道があるように、箱根駒ヶ岳からも雪形の知らせが届くであろう。 7 駒形神社 『箱根権現縁起絵巻』に見られるように、渡来人の信仰が大磯の高麗山から箱根駒ヶ岳へ移動したとされるように、箱根には渡来人高麗(高句麗)に係わる駒形神社が三社ある。 また、源頼朝の鎌倉幕府の開幕以後、畿内と関東の人や物の移動が活発になり東海道は最も重要な道路となった。さらに江戸時代には東海道に宿駅制度が確立した。特に箱根八里は最大の難所であり、馬の助け必要“箱根八里は馬でもこすが”の唄を残すほどであった。 このように箱根の駒形神社は、高麗神と馬の守護神である勝善神の二つの影響下にあった。 �@ 駒形神社( 永禄年間(1558〜70)の創建とされる。『新編相模風土記』に「駒形権現社、村の鎮守なり」とある。 �A 駒形神社( 創建は不明。もと荒湯駒形権現社と号し、箱根神社社外の末社。地主神である駒ヶ岳の駒形大神を勧請した。 �B 駒形神社( 当村創立の頃箱根泰禄山に奉斎する駒形大神を勧請して、駒形大権現と崇めた。
8 馬頭観音 �@ 馬頭観音坐像(箱根峠・舟形) 天保8年(1837)5月 �A 馬頭観音立像(芦川・舟形) 宝暦12年(1762)6月12日 �B 馬頭観音立像(芦川・舟形) 文政12年(1829)5月 �C 馬頭観音立像(芦川交差点・舟形) 天保12年(1841)7月23日 �D 馬頭観音立像(興禅院境内・舟形) 明治16年(1883)10月10日 �E 馬頭観音立像(興福院本堂前・舟形) 寛政4年(1792) �F 馬頭観音立像(早雲寺山門脇・舟形) 銘・年期ともに無し 旧街道沿いの石塔・石仏の調査総数が248ある中で、馬頭観音像はわずか8体と極めて少ない。馬や旅の安全を馬子や旅人は馬頭観音には頼らず、駒形神社に祈念していたのであろうか。
9 武将の関連 他の駒ヶ岳での武将に係わる伝承は大いに疑わしい内容であるが、箱根駒ヶ岳に関しては『吾妻鏡』などの記録もあり、正確である。 �@ 治承4年(1180)、源頼朝が早河庄を箱根権現の神領として寄付 �A 建久元年(1190)、源頼朝が伊豆山権現、箱根権現の二社に参詣 �B 建仁3年(1203)以降数回、源実朝が伊豆山権現、三島権現、箱根権現の三社権現に参詣
10 その他 他の駒ヶ岳にしばしば登場する牧場に関する情報は、見当たらない。箱根駒ヶ岳の地形から馬を飼育する牧場の立地条件はない。
参考資料 「 「箱根神社 信仰の歴史と文化」 箱根神社 「 「 「箱根神社の歴史と祭」 「街道」関係資料調査報告書 「箱根八里 難所東坂を登る」 |