< 条里制跡? >

 

風の冷たい冬場はストーブの傍でついつい地図サイクリング

 

 

 参謀本部陸軍部測量局による、明治16年測量、同19年製版の迅速図とよばれる2万分の1の地図がある。国府津駅の開業が明治20年というから、まだ東海道線も来ていない。
(東海道線は1934年に丹那トンネルが開通するまでは御殿場を越えた)

 

 
                  昭和礼文社刊行による迅速図より 「小田原」(部分)

 

< 富士道 >

 

 酒匂川、富士道橋から国府津方面に向かう「富士道」と呼ばれる道がある(上記地図)。古い道にありがちな二車線ぎりぎりの道幅で、図のように "かぎの手" に折れて続く。

 以前から、この直角に曲がる道を不思議に思っていたが、律令時代の条里制地割りの跡と考えれば納得がいく。県内で正確に条里地割りが確かめられた箇所はまだほとんどないとのことだが、道の様子からこのような箇所は足柄平野、相模平野など県内各地で、数多く見ることができる。

 

  
           久野近辺(同上)

 

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 千代台地には最初の国分寺?と思われる千代廃寺跡があり、府中(ふなか)という地名などから永塚に最初の相模国府を想定する説がある(「神奈川の古道」藤沢市教育委員会刊で木下良氏)。

 

 

<千代廃寺跡 >

 


                  千代廃寺跡

 

 この台地の畑から、往古より古瓦、土器片、また礎石等が多数出土し、観音屋敷や塔の腰などの地名からして、大寺院であったことを想定されていたが、当時は弓削道鏡建立による千葉山弓削寺と考えられていた。
 しかし、その礎石の規模の雄大なこと、また出土古瓦も複雑多技であり、その時代も奈良時代から平安時代初期のもので、地方寺院の瓦とは考えられない高度のものであることから、近年この寺院跡は、今までと違う角度から研究されるようになった。

 そこで、昭和33年に小田原市と神奈川県の合同で発掘調査が行われた。発掘担当者には日本大学軽部慈恩教授と、横浜国大、大岡実教授が当り調査がなされたが、結論は出ていない。 
 しかし、軽部教授によって東大寺式伽藍配置が想定され、初期国分寺ではないかと考査されるようになった。

(案内板解説)

 

 

< 巡礼街道(上記地図)>

 

 現在の巡礼街道は郊外型ショッピングモールが立ち並び、趣を一変させた。迅速図上で巡礼街道は騎小径として表され、国府津側では一部直線を崩す部分も見られる。巡礼街道が約3kmの直線道路となるのは、大正6年に始まる耕地整理による。昭和42年に復員15mの歩道を備えた現在の道路が完成。(「巡礼街道をたどる」石綿勉氏)

 

迅速図、凡例の一部 

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 足柄平野を走っていると、都市化が進む普通の田園地帯にしか見えないが、調べてゆくうちに幾層にも重なりあった歴史がみえてくる。下堀には中世土豪の館跡がきれいに残っている。

 

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