< 北国脇往還 北国街道 越前海岸 塩津街道 > |
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2009/8/3 |
関ヶ原 ー (北国脇往還) ー 木之本 ー (北国街道) ー 武生 約85km
おまけ 那谷寺 |
< 越前海岸 >
2日目、越前海岸を敦賀へ、そして塩津街道で塩津に戻る
5時に福井を出発。越前海岸へ向かう。雲が低く、霧で周囲がもやっている。道は徐々に山に分け入っていく。上っては下る。車はほとんど通らない。蝉の声だけ。静かな道である。今日は海のはずが、またしても山越えである。実は九頭竜川に沿って柳原へ出るつもりだったが、「越前海岸」という道路標示に従っていたら、これが大味への山越えの道だった。
最後に一気の下りで大味。雲が厚く、水平線がはっきりしない。灰色の日本海である。 大味漁港を抜ける。道路の真ん中で犬を散歩させていたり、お年寄りがのんびり乳母車を押している。305号線はカニやイカの看板がやたら目につく。軽いアップダウンを繰り返す。ひたすらペダルを廻す。単調といえば単調。
越前岬灯台を見るために急坂を上る。隣りが水仙ランド。夏というのに、いずれもひと気がなく寂しい景色である。
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北前船主の館に立ち寄る。9時。門は開いているのに受付は無人。後で分かったのだが、公開は9時半からで、まだ開館の準備中だった。入場券は後で払うことにして、まず洋館を見るために裏山へ上る。
右近家は江戸中期から明治の後半にかけて大阪と蝦夷地を結び、最盛期には30余艘を有した船主だった。北前船の衰退とともに蒸気船の導入や海上保険業に転換をはかり、日本火災海上の基となる。昔の有力者は干拓事業など現在では考えられないような事業を行っているが、右近家も河野・武生間の新道を開いたり、水道施設を作ったり、本来、自治体が行うような事業を行っている。 このような例を前にした時、よりダイナミックな経済学の尺度が欲しいと実感する。それは地理学や政治学、社会学、美学、生理学、哲学などとの連携の中で、歴史や風土とともに顔を持って生きる人間の経済学なのだ。
「本当に美しいものは静かである。」邸宅内の座敷の印象である。釘隠しなどの装飾はあるが、正目のみを選んだ柱や長押など、建築技術の高さは勿論だが、感性の鋭敏さと趣味の高さに驚かされる。 石段を上ると崖の上に海を望む山小屋があった。2階部分がスイス風のログハウスになっている。玄関ロビーはタイル張り、2階への階段の踊り場にはステンドグラスがはめ込んである。1階ホールの暖炉にもタイルが用いられているが、灰色を基調に控えめな色使いによって豊かな色彩効果をあげている。
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大比田で国道8号線と合流して現代に引き戻された。大型貨物が列を作って追い越して行く。気の抜けない状況は敦賀バイパスまで続いた。 敦賀市内に入る。気比神宮の前で小学生が写生をしている。妹らしき子らが閑を持て余している。カメラ雑誌で「不機嫌な子供たち」を見たのが高度成長期。「ゲーム世代」といわれてからも久しい。今現在の子供たちはどんなか。町から子供たちが消えて、元気があるのはシニア世代だけ。
気比の松原は赤松が多く、どこか女性的な柔らかさがあった。この付近に渤海使のための松原客館があったという。
< 前期越前国府敦賀説 >
前期越前国府を敦賀に想定する説(水野和雄氏・朝倉氏遺跡資料館)がある。 古代の越中国府は高岡市の伏木、越後は直江津、加賀は小松、能登は七尾。若狭国府は小浜、丹後は宮津。全てが海に面している。越前だけが海に面していないのは不自然である。敦賀に越前国府を想定する説はないかと調べるうちに、水野氏の説に出会う。 北陸の雪は深い。雪で閉ざされる冬の長さを考えると、舟による輸送は必然であろう。物資を大量に支障なく運ぶためには舟による輸送が最も適している。
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< 塩津街道 >
近江と越を結ぶ古代の道は海津からの七里越えと塩津からの深坂越えなどがあり、愛発関を疋田に想定する説が有力である。塩津と気比の松原を結ぶ直進性と、沓掛、追分間が6km程しかないこと、何より海上交通のウエイトの高さなどから、深坂越えに特別な意味合いを感じていた。 疋田には古い町並みが残り、街道に沿って用水が流れている。説明板によると曵き舟のための運河の名残で当時は9尺(2.8m)の川幅があり、舟の滑りを良くするために川底に胴木が敷かれていたとある。
さて、深坂越えである。自転車を押しながらの峠越えの不安もあったが(石段はともかく、ヤブコギは厳しい)、いざとなれば引き返して8号線に迂回しても、時間的には充分余裕がある。 新疋田駅の脇に古道の入り口があった。しかし「クマ注意」の看板には一瞬たじろいでしまった。
旧街道はよく手入れされ、ヤブコギの心配はなかった。道に沿ってきれいな小川が流れ、顔や腕を洗ったり、口にふくんだりするのに具合よい。首にまとわりつく小さなブヨには閉口させられた。払っても払ってもついてくる。しばらく息を止めてみても効果がなく、結局峠に至るまでその状態が続いた。ブヨさえいなければ、どれほど心地よい道だったか。
峠を少し下ったところに地蔵堂があった。もう目鼻も残っていない。塩害防止のため塩を掛けないようにとの注意がある。塩津街道は塩の道でもあった。杉林の階段を下ると国道に出る。 真直ぐ下りきって塩津宿。旧街道の宿場町が残っている。古い建物を眺めながら、緩やかに曲がった道を歩くような速度で自転車を走らせる。
やがて道は湖岸で行き止まりとなる。ここが昔の船着き場跡だというが、痕跡は何も残っていない。夏の風にそよぐ芦を写して今日の走りを終えることにする。
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