< 古代の道を訪ねて 神坂峠、三州街道 >

2005/8

中津川 ー 神坂峠 ー 阿智村 ー 稲武 ー 足助 ー 豊田

 

 神坂峠は古代の東山道(あづまへのやまつみち)最大の難所である。ヤマトタケルの伝説が残り、8世紀初めに木曽路が拓かれるまでは、この峠を越えて人々や物資は都と東国の間を行き来した。一方、三州街道は秋葉街道と並び、石器時代からの黒曜石や塩、その他の海産物などの交易の道であった。

 この道は神坂峠が大雪などアクシデントの際のサブルートではなかろうか。

 


 

< 神坂峠越え >


                  木曽路は山の中

 

 6時18分の名古屋発、中津川行きの電車に乗る。徐々に山深くなっていく。7時33分に中津川着。自転車を組んで走り始める。最初から上り。道は山に分けいっていく。道路脇に法華塔がある。案内板に道路下の河原は「賽の河原」と呼ばれ、「桧一本、首ひとつ」といわれた江戸時代の頃の刑場の跡だとある。やはりここは木曽。このまま道なりに行けば馬篭、妻篭宿。

 


                           霧が原の台地

 

 川並で右折、橋を渡って台地状になった尾根筋を上る。霧が原で眺望がひらけるが、まもなく桧、杉林の山道となる。お盆なのにここではハルゼミが鳴いている。


 


 

< 神坂峠 >

 背後のV字渓谷。足にとっては厳しい傾斜も、ここから眺めると、穏やかな谷筋にしか見えない。左上に白く見える部分が中津川の町。中津川から右へ、山の中腹の白い帯が中央高速。川並、霧が原は右手の山陰になって見えない。右の山裾を巻いて上がって来た。


                    中津川方面のV字峡

 

< 神坂峠・古代祭祀遺跡 >

 神坂峠の祭祀場遺跡に立ち寄る。写真から想像していたような平らな広場ではなく、片流れの傾斜地だった。ここではどのような形で神事が執り行われたのであろう。

 

 


                       古代祭祀遺跡

 

 神坂峠に着いたのが10時半。旧東山道は神坂小屋の裏手から神坂神社方面に下るらしい。簡単な地図しか持たずに、神坂小屋で行き止まりかと錯覚してしまい、通行止めの林道を下る。昼神温泉を抜け、阿智村まで下りきったのが約11時半。南に折れて名古屋方面に向かう。空はピーカン。一番暑い時間。そば屋に逃げ込み昼食とする。

 


 

< 飯田街道(三州街道) >

 

 名古屋から飯田への旧街道である。以前といっても30年も前の話だが、車で走った時には道も狭く、農家の庭先をかすめる狭い曲がりくねった街道だった。山国特有の家並みの道が好ましかった。しかし現在では立派にバイパス化され、物流の大型トラックがスピードをあげて追い抜いてゆく。

 寒原峠、治部坂峠。日影のないバイパス道路を延々と上る。焼かれたアスファルトと太陽の照り返しでフライパンの上のようだ。伊勢神をはじめ何箇所かのトンネルの中だけが涼しく、普段は嫌いなトンネルだが、この日に限っては天国のように思えた。

 


               旧道風景

 


 

<稲武・古橋懐古館>



 稲武で「古橋懐古館」に立ち寄る。主に幕末の志士の書が集められている。高杉晋作、坂本龍馬、西郷、勝それぞれ達筆だが、偉才を放っていたのが吉田松陰だった。また梅田雲浜の自由闊達でのびのびしたスケール感が印象に残った。

 実のところ、あまりの暑さに冷房を期待して入館したのだが、生憎、味噌蔵を改築した建物は空調もなく、おまけに窓が閉め切られ、<幕末>そのままのような暑さだった。

 見学を終えると茶がでた。「昔は観光バスも立ち寄ったが、今時の若い人はこういうものには興味がないようで、今日の来館者はまだ5組なんですよ。」

 


 

< 豊田で切り上げる >

 

 

 猛暑とアップダウンが予想外にこたえた。名古屋まで走るつもりだったが、豊田に着いた時には5時を回ってしまっていた。やはり真夏のこの時期には日中を避け、午前中か少し涼しくなってから走るのが常識だろう。

 しかし、そうはいっても「なかなか加減が難しい」。

 

 

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