< 郡衙の風景 >

2003/5

 

 3棟の高床倉庫が立つ丘の風景は新鮮だった。

 使われている建築部材の太さや、直線の組み合わせによる単純な形態もそうだが、スケール感が仏教建築などとは基本的に異なる。スケールユニット自身を巨大化させた建物とでも言えようか。
 特に高床や土倉の中央に穿たれた吹きさらしの空間が古代のおおらかさを表している。 

 


 

 当時の郡衙の全体像はどのような姿だったのか、手元に神奈川県史があったので少し調べてみた。


 郡は評(こほり)が後に郡(こほり)と変わったもので、「郡をコホリといひしは、韓国の言に出しなり。即今も朝鮮の俗、郡をも県をも秉にコホルというは、即コホリの転語なり」 新井白石『東雅三』

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「評」は大野の意で土地の区域を指し、新羅の「啄評」、高句麗の「内評、外評」の例で知られるように軍事的に編成された区域全体であった。評制については帰化人の族制的な人的団体とする説や屯倉を中心とする地方政治的組織とする説などがある。(吉川弘文館・国史大辞典)

 


 

< 郡衙 >

 

 多胡郡の郡衙の記録から当時の郡衙の様子が伺える。郡衙は庁舎や倉、宿舎や食堂、厩などの多くの建物群からなり、周囲を堀や土塁で囲った砦のようなものだったようだ。任地へ赴く官吏や公の身分の者の宿舎や食事のため供されたが、一般庶民が庸物を中央へ運ぶ際には利用できなかった。


 郡の郡庁、郡衙のある里(郷)を郡家といった。郡家は古代における郡司の政庁「こおりのみやけ」「ぐうけ」とよばれ、庁舎、館舎、正倉、その他の建物や、駅屋(うまや)や軍団なども隣接していた。「上野国交代実録帳」(平安遺文 - 巻94609)では多胡郡の郡衙の記録が残る。正倉は板倉や土倉。郡長館以下4館がそれぞれ宿屋、廚屋、厩などを備えた一大建物群で、周囲は堀や土塁で囲まれていた。郡長館の他に一館を加える郡の例もあるが、これらは4等官制をとっていたためか。(神奈川県史) 

正倉
 西一土倉壱宇 西二土倉壱宇 南一土倉壱宇 南二土倉□ 南三土倉壱宇 南四土倉壱宇 中一□□板倉壱宇 北一板□ (□は不明文字)
郡庁館
 宿屋壱宇 厨家壱宇 西納屋壱宇 向屋壱宇 副屋壱宇 厩壱宇
二館
 宿屋壱宇 向屋壱宇 厩壱宇
三館
 納屋壱宇 向屋壱宇 副屋壱宇
四館
 宿屋壱宇 納屋壱宇 副屋壱宇
厨屋
 酒屋壱宇 納屋壱宇 竈屋壱宇

 


復元された土壁の倉

 


校倉造


板倉

 平沢官衙遺跡では建物の形式を示す資料がないため、奈良に残る建物を参考に復元を行ったという。

 


 

< 国の規模 >

 

 和名抄の書かれた頃(911年−983年)の関東諸国。常陸の国の規模の大きさが目につく。また稲の作柄は田の種類によって3倍もの開きがある。これらの稲について、正税は国府や郡衙の倉に蓄え置かれ、実際の地方の財源は出挙(すいこ)の利子によって賄われた。    

国名
郷数
人口
郷別人口
和名抄の田積
郷別田積(町)
常陸国

153

216900人
1418人
40092町歩
262町歩
下総
91
120600
1325
26432
290
武蔵
119
130900
1100
35574
299
相模
67
102000
1522
11236
168

 (1町歩 99.174アール)    

田の種類
穫稲
近代枡で
重量
10アール当たり
上田
500束
10石
1.4t
141kg
中田
400束
8石
1.12t
112kg
下田
300束
6石
0.84t
84kg
下々田
150束
3石
0.42t
42kg


 「延喜式」(905年)には 「祖稲を国府や郡衙に設けた正倉に収納し、地方財政の財源にあてる。庸調物は中央へ輸送する」とある。

 しかし、これら大税(正税)は蓄え置くこととされた。正倉の出し入れには中央の許可がいり、地方財源は郡稲と呼ばれる国造時代からの蓄えによってなされていた。しかし諸国の郡稲が不足し、大税(正税)の一部を割いて郡稲(すいこ)にあてて、出挙(すいこ)し、その利子を郡稲に充てるようになる。蓄えられた稲の内、古くなったものを春先に種籾として貸し出して、3割とか5割の利子をつけて返させるものである。そしてこの利稲を地方財源とした。

 また粟などが飢饉に備えての義倉に蓄えられた。
 地方での支出は正月の朝賀に始まる各行事の経費、国司や官吏、防人や衛士らの赴任や移動途中の食料の支給、官吏の手当など。但し、庸調の都への運搬にかかる運脚の経費は農民などの自前であった。

 その他、庸調にかかる品目が税として求められた。庸は年間10日の公役であるが(正丁の場合)、不要なときは1日当たり二尺六寸の割で布を納めさせた。調物は絹、あしぎぬ、糸、綿、布のうち、郷土の産するところの物を原則とするが、鉄、鍬、塩、あわび、鰹、烏賊などを納める場合もある。

 


 

< 庸調の品 >

 

 記録に残る庸調物をひとつずつ見ていくと、多彩な食品や生産物、薬草類など高度な知識や技術が伺い知れる。


 「庸調物の主なものは布(麻織物)、綾(絹織物)の織物。「延喜式」では相模の国の調として、綾の外に紺(こん)布六十端(1端は5丈2尺)、縹(はなだ)布四十端、庸として綿・布を、武蔵の国の調として紺布九十端、縹布五十端、黄布四十端、庸には布としている」
  その他楮などの紙の原料や紙製品。薬草類や各種の鉱物資源(硫黄、雲母、水銀、磁石、樊石(白や青、黄色などの美しい石)、石英など)など。

 水産物では鰒(あわび)、鰹、海草類。干し鰒(あわび)は調理法のちがいで16種類。その他腐耳鰒、甘胎鰒、鮨鰒、腸漬鰒など酢漬けやクサヤづくり。海草類は海藻(わかめ)海松(みる)紫菜(のり)海藻根(まなかね)大凝菜(おごのり)小凝菜(いきす)角俣菜(つのまた)滑海藻(あらめ)於期菜(おご)。その他、鮎など。

 鹿皮、鹿角、鹿革、鹿脯(しかほじし=乾肉)、猪脯、猪鮨、猪蹄(削って薬用)、零羊角(かもしかのつの)、蘓(バター類)、牛皮など。

 織物は多彩で、布(麻織物)は細かく紺布、縹(はなだ)布、黄布など。、綾(絹織物)は本来は外来製品で、東国で古くからあったかどうかの確証はない。高級な絹製品が生産されるのは和銅以降で、和銅4年に挑文師(あやとりのし)を諸国に派遣して、錦、綾を織ることを教えたとある。(続日本記) 古代の綿は(繭綿)真綿のことで、糸は生糸である。糸には3等級がある。織り込み模様の綾、染めた帛など。

 その他、紙、櫑子(らいし=漆塗りの容器)、席(むしろ)、筆(鹿毛、兎毛)、膠、武具など。

 薬草類は麻・熟麻(うま=繊維の原料)、黄麻(こうま)、紅花、茜(=染料、利尿、止血、解熱剤)、木綿(ゆう=楮の繊維を束ねた物、幣とし橘に垂らす)、甘子・橘子(みかん)、黄キン(ヤマヒイラギ=解熱剤、腹痛の薬)、茵陳稾(インチンコウ=河原ヨモギ=利尿、駆虫、風邪薬)、知母(ちも=花菅=根茎を解熱剤)、伍茄(ごか=ウコギ=強壮剤)、芍薬(=鎮痙、鎮痛剤)、黄蓍(こうき=根が薬草)、クコ(=果実を干して強壮剤、根皮は解熱剤)、藍漆(やまあざ=疥瘡の薬)、紫苑(=産後の血の気)、菴蘆子(いぬよもぎのみ=産後の血の気)、防風(ボウフウ=感冒薬)、橘皮(きつび=気を療す)、瓜の蔕(にがうりのほぞ=解熱、強壮)、白頭公(おきなぐさ=熱性利病)、薯蕷(やまのいも=腫物、しもやけ、下痢止め)、麦門冬(やますげ=球根を煎じて解熱など、桃の仁(もものさね=血行をよくする)、胡麻子(ごま=食用、薬用)、干地黄(ほしじおう=根茎を補血強壮剤)、附子(ぶし=トリカブトの根、毒薬、強心、利尿、鎮痛)、烏頭(うず=トリカブトの根)、ハマセリ=消炎、走野老(はしりところ=猛毒、鎮痛薬)、荏子(えのみ=油)、桔梗=肺炎、中耳炎の薬、細辛(ひきひたい=解熱剤)、大黄(おほし=健胃剤、瀉下剤)、土瓜(ひきうり=根を通経、利尿、排濃。種子を鎮咳、鎮痛剤)、当帰(やませり=鎮痛、通経)、甘遂(にはそ=ナツトウダイ=有毒植物で根を利尿剤)決明子(えびすぐさ=種子をハブ茶と称し、健胃、解毒)、牡荊子(おとこばら=正体不明)、地膚子(まきくさ=強壮、利尿)、蜀淑(なるはじかみ=健胃、香味料)

 


 

< 文化の水準 >

 

 万葉集の防人の歌にみるような素朴な心情や東国独特の方言などから、当時の東国について文化的にも未開、辺境のイメージがつきまとっていた。しかし一方、古代歌謡の流れをくむ筑波嶺を詠んだ歌の比喩や暗喩の存在から、東国独自の長い時間を経た円熟した文化的土壌の存在も知れる。 正倉院御物の一級の洗練された技術には及ばないまでも、想像以上の文化水準だったと思われる。

 全国規模の直線道路網、条里制を可能にした測量技術や戸籍などのデータ管理システム。それらを考えれば当然のことには違いはないが、まだまだ古代は面白い。

 

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