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| < 郡衙の風景 > |
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2003/5 |
3棟の高床倉庫が立つ丘の風景は新鮮だった。 使われている建築部材の太さや、直線の組み合わせによる単純な形態もそうだが、スケール感が仏教建築などとは基本的に異なる。スケールユニット自身を巨大化させた建物とでも言えようか。
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当時の郡衙の全体像はどのような姿だったのか、手元に神奈川県史があったので少し調べてみた。
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< 郡衙 >
多胡郡の郡衙の記録から当時の郡衙の様子が伺える。郡衙は庁舎や倉、宿舎や食堂、厩などの多くの建物群からなり、周囲を堀や土塁で囲った砦のようなものだったようだ。任地へ赴く官吏や公の身分の者の宿舎や食事のため供されたが、一般庶民が庸物を中央へ運ぶ際には利用できなかった。
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< 国の規模 >
和名抄の書かれた頃(911年−983年)の関東諸国。常陸の国の規模の大きさが目につく。また稲の作柄は田の種類によって3倍もの開きがある。これらの稲について、正税は国府や郡衙の倉に蓄え置かれ、実際の地方の財源は出挙(すいこ)の利子によって賄われた。
(1町歩 99.174アール)
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< 庸調の品 >
記録に残る庸調物をひとつずつ見ていくと、多彩な食品や生産物、薬草類など高度な知識や技術が伺い知れる。
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< 文化の水準 >
万葉集の防人の歌にみるような素朴な心情や東国独特の方言などから、当時の東国について文化的にも未開、辺境のイメージがつきまとっていた。しかし一方、古代歌謡の流れをくむ筑波嶺を詠んだ歌の比喩や暗喩の存在から、東国独自の長い時間を経た円熟した文化的土壌の存在も知れる。 正倉院御物の一級の洗練された技術には及ばないまでも、想像以上の文化水準だったと思われる。 全国規模の直線道路網、条里制を可能にした測量技術や戸籍などのデータ管理システム。それらを考えれば当然のことには違いはないが、まだまだ古代は面白い。
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