教育哲学から身体を捉える視点

 


1.「生成としての身体教育」という考え

○教育の「生成(becoming)」とは「生成AI」のgenerativeとは異なります。AIのように広範なデータから

 何らかのモノをつくることではなく,becomingは人間のある存在様態を生みだすことであります。

→余談ですが:人工知能の「生成」は誰が翻訳したのでしょうか?→翻訳の障害ということがあります。

 例えばオリンピックを「五輪」と訳したこと。新聞の見だしには長すぎるから、略せないか?

 それに対して読売新聞記者であった川本さんが「五輪」と考案、1936年 昭和11年 のことです。 

→本来「五輪」は供養塔・お墓の「五輪の塔」や、宮本武蔵の「五輪の書」がありました。

 宮本武蔵がオリンピックを論じたのではありません。

 「五輪」とは:「地」「水」「火」「風」「空」ですが、それは忘れられました。

→今後、「生成AI」という言葉によって、教育の「生成」の意味が変質してしまうかも? 不安です。

○「体育の授業」;では、子どもたちの「身体」の向上を目指して身体運動を手段としています。

  教育哲学者の矢野は、体育においての「身体の手段化」を批判しています。

  「身体の教育」は訓練主義的体育、 「身体による教育」は身体活動を手段 と批判します。

○「発達」:を重視し「より速く、より高く、より強く」という「身体」をつくることは、

  「身体」の運動それ自体の価値を見ていないのであります.

〇その「身体」:の運動は-人間の存在様態を生みだすこと、つまり「生成(becoming)」と結びつく

  と考えることができます。それが私の考える「生成としての身体教育」です。

 

2.「身体(からだ)」という捉え方

○「客体としての身体」:その視点で、身体を客観的世界の対象物として論じることがあります.

  そこでは「身体」を生理的、物質的なモノ として捉え、科学的な実験や研究が行われます。

○「生きられた身体」:武田先生も主張していますが、教育哲学でも使用される言葉です。

  それは「主体としての身体」であって,客体としての生理的、物質的なモノではなく、

  志向性を持ち、世界との相互作用がある存在と考える必要があります。

 →この「主体」は「意識的な主体」ではなく、生きている「私の身体という主体」と考えます。

○その「身体」を「開かれた身体」:と呼ぶことがあります。それは「世界」に開かれ、

  人間としての本質的体験が可能となり、自然と自己が融合するような「からだ」であります。 

 →私はそんな身体を、漢字で「身体」と書いて「からだ」と読むようにしています。

〇「身体の機能化」:矢野はそんな科学的管理は「子ども同士の共感的な関わりや

  身体を介しての世界との出会いを阻(はば)んでいる」と述べています。

〇「人間は身体をもつもの、身体的存在」:と 哲学者の桑子が言います。

 →人間は身体として存在し、その「身体(からだ)」の運動によって世界と繋がると思います。

  

3.「身体(からだ)」の二重性

〇「身体の二重性」:「主観-身体」と「客観-身体」、これは体育哲学者樋口の言葉ですが、

 「客観-身体」を「主観-身体」が運動感覚的に知覚するのであって、身体が身体を感じる

 「身体の二重性」があると言っています。

〇「身体の二重構造」:を 哲学者 湯浅は論じています:それは「表層的構造-意識の領域」と

 「基底的構造-無意識の領域」です。この無意識の領域が重要ですが、注目されていません。

  湯浅はその原因を「心が身体を支配している」という人間の意識の没頭(ぼっとう)だと言ってます。

〇「リベット値」:それは意識が生じるには0.5秒かかるというリベットさんの実験結果です。 

  例えば野球のバッタ-:150kmのボールは意識したときキャッチャーミットの中。でも打ちます。

  あるいは卓球:あの速すぎるボールのラリーはTVで観ていても意識が追いつきません。

 →無意識の身体の動きはいろいろあります。例えば自転車の急なブレーキ、

  つまずいて転びそうになったときの手の反応、熱いものに触れた瞬間の手の引っ込め。

 →後期高齢者(私ですが・・・)のテニスのボレー・・・

 →自分の方に飛んで来る強烈なスマッシュのボールに「あっ」とラケットが出るのです

   そのボレーの動きは、科学的には「脊髄反射」といい、脳の働きは無いようですが、

   どうしてボールにラケットを当てようとする動きが出てくるのでしょうか?

〇「身(み)をもって知る」と市川は言います。彼は「精神としての身体」で有名な哲学者です。

  無意識の領域では「身体感覚」で認識、つまり「身(み)が世界と感応する」と考えるのです。

〇「身体図式」、メルロ-ポンティはそれを「無意識レベルの身体の身構え」と捉えています。

  先に「無意識の領域」を主張した湯浅は、無意識のうちに身体を動かせるような状態を

 「心身一如(いちにょ)」と表現しています。

 →東海大文明研の田中先生は湯浅先生と共著の論文で,「身体図式」は「他者や環境を内に含む

  体験世界全体の生成原理としての側面をもっている」が故に,「他者や環境との相互作用に向かって

  開かれており,互いに影響を与え合う」と述べています。

〇「身体図式」は「他者の身体」「モノ」「自己の身体」へと「同調的感応(共鳴)」している

  と私は考えます。野球のバッターは投手の動き、飛んで来るボール、それを打とうとする

  自分の身体(からだ)の構え、動きに、無意識に同調(共鳴)していると考えます。


☆ここで「体育哲学的実験」をやってみましょう   「とんとん/すーすー」実験です

 右手を軽く握り-右足の膝の上をトントン 同時に左手を開いて左足のモモをスースーと撫でます

 その逆もやってみます では「とんとん/すーすー」を行い、私が「はい」と言ったら逆に替えてください

→スタートです・・・「はい」

・・・つぎに進みます。

 

4.「身体(からだ)」が感知する体験

〇「純粋経験」:「善の研究」で有名な哲学者 西田幾多郎の言葉です。断崖を一生懸命に登る場合、   

  音楽家の曲を無心に演奏する場合、あるいは「花」観て「あっ」と言った瞬間

  このような「主客未分」の状態を「純粋経験」と言い、       

  その時、感性的な「行為的直観」によって「物を身体的に把握」すると、西田は言っています。

〇「内的体験」:哲学者バタイユは エクスターズ(恍惚)の状態、脱自の体験 、そして

   「主体と客体は溶け去る」状態を「内的体験」と言っています。

 →「ホモルーデンス」を論じたホイジンガも「遊びの情緒」=「我を忘れた恍惚境」と言っています。

〇「溶解体験」:これは社会学者 作田の自己と外界との境界が溶け去る体験のことです。

  作田は フロイトの「大洋感情」に関連すると述べています。

  作田は 意識に先立つ経験を「体験」と呼ぶ としています。

 →「体験」と「経験」の違いは」、私の論文:身体教育における「体験」の捉え方 を参照して下さい。

〇「非—知の体験」:矢野は「溶解体験」をそう呼びます。主体が客体へと溶け込み、

  「おお」とか「ああ」と言い、言葉にできない体験です。

 →ちなみに「非-知」とは「知らない」でなく 知性によって認識不可能という意味です。

 →その他の「体験」もあります。

  ・心理学者マズローの「至高体験」 peak experience  最高の幸福と達成を感じる瞬間

  ・チクセントミハイの「フロー体験」 ボールが止まっているように見える神秘的体験

  →私も「フロー体験」が1回だけあります。BBの試合、50年以上まえの体験です。

   日本体育大学とのリーグ戦、接戦の試合です。私のデフェンスしている逆のサイドで味方がドリブル

   で抜かれ、フリースローライン辺りでストップ、ジャンプショット。それがなんとスローモーションで

   見えたのです。私はその選手に近づき、彼がドリブルを止め、両手でボールをつかみ シュート

   体勢です。その彼の両手でつかんだボールを奪い取ったのです。

    あんなカットプレイは初めてでした。その後もありません。

  →「フロー体験」の注意:それは

   この特別な体験自体ではなく、ボールを取った、打つことができたという結果に注目してしまうこと

  です。スポーツは 役に立つこと「有用性の原理」、技術のレベルアップ-「発達の論理」で考えて

   しまいます。「勝った」「負けた」でなく、「止まって見えた」という身体の体験に注目すべきです。


5.「身体(からだ)」で知ること(knowing)

 この論文は 正月に学会から連絡があり、「身体(からだ)で知ること」の捉え方、という題名で次回の

「体育学研究」で公開されそうです。投稿から2年かかりました。こんなことを論じています。

〇「身体知」:体育関連の研究で使われますが、「人工知能学会」ではPhysical Skill  

 Embodied Knowledge   Skill Scienceと「身体知」の英訳はいろいろあります。

  →運動学の金子先生は「人間化された運動の知恵を意味する」と言っています。

  「知識」でなく「知恵」です

  →私は「身体知」という知識(Knowledge)があるのではない と考えています。

○「暗黙知」:ポランニーの書物『The tacit dimension』「暗黙の次元」を「暗黙知」と訳しています。

 この翻訳が障害を生みます。彼が論じたのは知識(knowledge)ではなく「暗黙の次元」においての

「知ること」、(tacit knowing)であり,“we can know more than we can tell”と述べています。

つまり、暗黙知という知識(knowledge)が存在しているのではなく,tacit つまり言葉に表せない

 知ること(knowing)があることを主張しているのです。それは何か?

〇「Knowing in the body」:私は「身体(からだ)で知ること」があると思っています。

  投稿論文の題目の英文に使っています。ポランニーも「in the body」と言っています。

  →例えば「自転車」に初めて乗ることができた時、「主体としての身体」はその世界に「潜入」して、

 「主体(私)」と「客体(自転車)」を隔てる境界が無くなり(→溶解体験/主客未分です)、

  言葉として語ることができない(tacit暗黙的な状態)ですが、「身体(からだ)」は「身体感覚」

  として「知ること(knowing)」ができます。「人間の身体の運動」は、ポランニーが言うように

 「筋肉のこまごまとした収縮」を語ることはできないが、「身体(からだ)」で「知ること(knowing)」 

  が多いと考えます。

〇 それは「感知」、ポランニーは「awareness」と言っています。「生きている身体(からだ)」が

  感覚的な「体感」として感じて「知ること(knowing)」です。

 →「わざ」から知る の執筆者生田久美子は「わざ」の世界に潜入し「形(かたち)」を身体全体で納得

  する。その「形」は習慣化(ハビトス化)して「型(かた)」となる と述べています。

 →先ほどの「身をもって知る」と述べた市川も、「身が世界と感応する」と述べています。

 →私の言った「身体図式の同調的感応」も同じことです。

 →ポランニーが述べるように“we can know more than we can tell”

 →それは「身体(からだ)」の「感知」による(knowing)、知ることと考えています。


→時間がまだ残っていますので 身体知 に関する話しをしましょう

 『「こつ」と「スランプ」の研究』という本の著者 諏訪先生の「身体知」です

 →人工知能学会の諏訪先生は、身体知をEmbodied Knowledge と呼び「知識」と考えています。

  そして「知」は「ことば」が重要な役割があるとし、「体感」をあえて言葉で現します。

  暗黙、(tacit)の次元であり「非知」、知性では認識できない「からだ」の感知を言語化です。

  それを「からだメタ認知」と呼び、「ことば」と「体感」を結びつけることを試みています。

→例えば「体感」それ自体、坂登りの足首にかかる「くわっ」、足曲げのモモの「ずしん」という感じを

 「くわっ」体感、「ずしん」体感と名づけ、結びつけると言うのです。

→暗黙(tacit)/非-知、言葉とすることが困難である身体の「感じ」を「ことば」として表現し、

 客観的な「知識(Knowledge)」として捉え、科学的に分析しようとしています。

→とても面白い発想ですが,湯浅先生が言う「心が身体を支配」という意識の没頭かも?

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