馬屋曲輪

馬屋曲輪
城址公園の南側に位置する馬屋曲輪は、
三の丸から二の丸に入る大手筋(正式な登城ルート)の重要な曲輪です。
三の丸からは馬出門、お茶壷曲輪からは中仕切門から馬屋曲輪へ入り銅門へと続きます。
江戸時代では登城者に対しての番所として機能していたようです。

馬屋曲輪の説明板
馬屋曲輪の説明板です。
馬屋曲輪には大腰掛や馬屋、二重隅櫓などの建物があり、
曲輪(お城の区切られた敷地)の外周は土塀と石垣で覆われていました。
又内側は馬出門から大腰掛、馬屋、中仕切門と板塀が巡らされていました。

銅門から馬屋曲輪を撮影
銅門から馬屋曲輪を撮影しました。
二の丸の虎口(登城の為の出入り口)銅門を囲むようなL字型の構造の曲輪で、
二の丸の馬出と考えても良さそうです。

三の丸小学校の向かいの横矢掛りの石垣です
三の丸小学校の向かいの横矢掛りの石垣です。

三の丸から二重隅櫓の櫓台を撮影
三の丸から二重隅櫓の櫓台を撮影しました。
色の違う石は平成21年に整備されたものです。
堀側の石垣は関東大震災で崩落した為、昭和7年頃に積み直されました。

櫓台からの馬出門と眼鏡橋を望む
櫓台からの馬出門と眼鏡橋を望む

三の丸小学校方面
三の丸小学校方面

銅門方面
銅門方面

石列を境に砂利の種類に違いがあります
発掘調査により建物の礎石や井戸の跡が見つかっています。
建物があった場所には真土による表示が行われており、
画像の石列は板塀の礎石のあった場所をトレースしています。
又、この石列を境に砂利の種類に違いがある事が解り再現されています。

馬屋跡
こちらは馬屋跡です。
江戸時代の小田原城は徳川将軍家の上洛の際に宿所として使われましたが、
馬屋曲輪の馬屋は将軍家が使用したと考えられています。
尚、小田原藩の馬屋は二の丸の西側にありました。

この辺りからは馬屋の礎石が確認されています
この辺りからは馬屋の礎石が確認されています。
馬屋曲輪の建物は埋蔵保存という形で史跡を保存しています。

現地説明会の模様です
こちらは発掘調査後に行われた現地説明会の模様です。
現在史跡を直接見ることができないのは残念ですが、
史跡をそのまま埋めてしまうことにより保存するという考えです。

大腰掛の跡
大腰掛の跡です。
登城者の待機所として考えられており、
番所としての役割を担う建物のようです。

現地説明会での模様です
現地説明会での模様ですが、大腰掛の礎石などが確認されています。
土が赤くなっているのは江戸時代の元禄地震の際の火災によるものだそうで、
馬屋と大腰掛は以後再建されなかったと考えられています。

切敷石井戸の跡
こちらは馬屋近くの切敷石井戸の跡です。
説明板によると中心部が六角形の井戸は大陸から伝わった特殊な井戸とのことで、
徳川将軍家との関連性がありそうとのこと。

現地説明会での模様
現地説明会での画像です。
井戸の中にも石積みが施されているのが覗けます。
井戸表面は溶結疑灰岩という溶岩系の比較的柔らかい石で装飾が施されています。

雁木と土塁
こちらは土塁上に登る為の雁木という階段です。
雁木だけではなく土塁も整備されています。

整備される以前の雁木
こちらは現地説明会当時の整備される以前の雁木です。
馬屋曲輪の雁木はこの他に二重隅櫓の両脇に2本あります。

二重隅櫓の櫓台の石垣
こちらは二重隅櫓の櫓台の石垣です。
石の色が暗いものは江戸時代から残る石垣です。

現地説明会での模様
こちらは現地説明会での整備前の二重隅櫓の櫓台です。
この石垣は関東大震災でも崩れなかった貴重な石垣です。

櫓台内部
櫓台内部です。
裏込めに使われた栗石は30〜40cmもある比較的大きな石です。
この上に土で埋められていましたが、関東大震災後の新しい埋め立てのようです。

櫓台中央からは砕かれた瓦がたくさん出土しました
櫓台中央からは砕かれた瓦がたくさん出土しました。
赤く焼けた瓦も多く元禄地震により消失した屋根瓦の可能性があるとのことです。


各市町村では史跡の発掘調査が行われると、
一般公開向けの調査報告として現地説明会が行われる場合があります。

現地説明会の日程は新聞や各市町村のホームページ等で知ることができます。
馬屋曲輪の建物のように埋蔵保存という形で史跡が二度と見られない場合もありますので、
現地説明会を見学できるチャンスがあれば是非参加してみてください。


引用・参考文献

小笠原清ほか小田原市編さん委員会 1995 小田原市史 別編 城郭 小田原市
諏訪間順 2008、2009 馬屋曲輪発掘調査見学会配布資料及び解説
史跡馬屋曲輪説明板


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