「これらのことば」とは、イエスが良い牧者で、羊のためにいのちを捨てることと、そして、それを再び得る力を持っていることである。
【ヨハネ10:14ー18】
これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。再びである。再びとは、この仮庵の祭りの時に三度目である。
一度目は、仮庵の祭りの最終日である祭りの大いなる日にイエスの言葉を聞いた群衆の間に分裂が起こったのである。
【ヨハネ7:37−38】
二度目は、パリサイ人のうちで、生まれつき目の見えない人の件で、彼らの間に分裂が生じた。
3度目はイエスが良き羊飼い、良き牧者の話しをした後、再び彼らの間に分裂が生じたのである。 この分裂は、秋の仮庵の祭りの短い期間に、3度もユダヤ人たちの中で起こったのである。
パリサイ人たちの間で起こった二度目の分裂は、イエスが安息日を守っていないので罪人だと言い、他の者たちは「罪人が生まれつき目の見えなかった人を見えるようにすることができようか」 と言った内容であった。しかし、三度目の分裂は、イエスが「悪霊につかれておかしくなっている」という、さらにイエスを罪人から悪霊呼ばわりする議論になっている。
最初の人アダムの最初の息子カインは、弟アベルを殺して、父アダムの家族と分裂して暮らすように成った。
ノアの時代には、人類の悪が増大したために、神は大洪水を起こされた。そしてノアとその家族から、もろもろの国民が地上に別れ出た。人類とノアの家族との分裂、その後、諸国民が分裂したのである。
ノアの洪水の後、全地は一つの話しことば、一つの国語であった。ところが、バベルの塔の時から、人々はさらに散らされて、一つの国語が分裂して、各国の国語ができたのである。
アブラハムは、カルデア人のウルから、ハランと、ずーっと一緒に旅した甥のロトとも、離れるようになる。アブラハムの親戚同士が分裂したのである。
アブラハムは、女奴隷ハガルによってイシュマエルを得たが、その息子と母親とを追い出し親子が分裂した。
アブラハムの息子イサクに妻リベカによって双子が生まれようとしていた。しかし、リベカの腹の中で双子がぶつかり合うようになった。その時、主はリベカに言われた。つまり兄弟同士が分裂すると言われたのである。主の預言通りに、やがてヤコブとエサウの兄弟は、離れて別の地で暮らすようになった。
【創世記36:6】
ヤコブは、20年間、母リベカの兄である叔父ラバンのもとで羊飼いをして働き、ラバンのもとで2人の妻(レアとラケル)と2人の女奴隷(ジルパとビルハ)によって、12人の息子たちが与えられた。しかし、ヤコブは20年後、叔父ラバンのもとから逃げ出すように離れて、カナンの地に帰っていく。親戚同士の分裂である。
ヤコブと12人の息子たちは、ヤコブの最愛の息子ヨセフによって、エジプトで430年間を暮らす。この期間を日本の歴史で言うなら江戸時代の初めから現在までの4世紀の長い期間である。しかし、430年が終わった、ちょうどその日に、イスラエル人は、モーセに率いられてエジプトの国を出たのである。民族同士の分裂である。
預言者アヒヤは、手腕家ヤロブアムに、ソロモン王国の10部族を与えると預言した。ダビデから始まったイスラエル12部族の統一王国は、ソロモンの子レハブアムの時代に、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂したのである。国の分裂である。
コリント教会内部でも分裂が起こった。コリント教会の分裂である。
バルナバとパウロは、マルコの件で、互いに激しく分裂した。
11世紀、1054年にキリスト教が、ローマ教皇を首長とするカトリック教会と、東方の正教会とに二分された。この時互いに破門宣告を出し合ったのである。
16世紀になると、カトリック教会が出していた免罪符(カトリック教会が献金などを取って信徒に与えた一時的罪を許す免除証書)に対して、1517年神学者のマルティン・ルターは、ヴィッテンベルクの城教会の門に95か条の論題を張り出す。これは、カトリック教会の免罪符の販売などを批判した抗議文であった。
初期キリスト教会から二千年が過ぎた現代、地上のキリスト教会は、カトリック、ギリシャ正教会、プロテスタントと大まかに分裂している。しかし、これは大まかな分け方であって、現在のキリスト教会は、世界に45000以上の教派へと細分化されている。
パウロは、教会の分派が生じるのもやむを得ないと言った。なぜなら「本当の信者が明らかにされるため」だと。 私たちは、分裂は、悪いものだというイメージを持っている。しかし、分裂は、人類の初めから絶え間なく行われてきた。神を信じていても、神を信じていなくても、分裂、分派は、人類には必ず起こったのである。人類が、自分たちの力で一つになろうとすれば、必ず滅びを招くようになるであろう。なぜなら・・・
聖書は終末の時代に人類が、自分たちの力で一つになろうとするようになることが預言されている。しかし、その結果、自分たちの支配権を獣であるサタン(悪魔)に委ねることになると預言されている。獣に支配権を委ねた結果、この世界には終わりが訪れるのである。
では、私たちはどうしたら良いのか? 自分たちの力で一つになろうとして悪魔に支配権を委ねるようになるのではなく、聖霊の力によって一つになり、イエスに支配権を委ねるようになれば良いのである。 実際に私は、今まで超教派の集会に何回も出席して、ギリシャ正教の日本人の司祭や、カトリックの修道女や信徒の方が聖霊を受けているのを目撃した。聖霊によって、カトリックや正教会、プロテスタント、聖公会、福音派やペンテコステ派が、聖霊によって、一つになることができるのである。
私たちが、一つになれるのは、自分たちの力によるのではなく、一つの御霊によって、信者は一つになれるのである。カトリックも正教会もプロテスタントも、福音派もペンテコステ派も、そしてユダヤ人も、イエス・キリストを唯一の主、神であると信じていた人々は、聖霊を受けて、一つの御霊によって、一つのからだになるのである。
それぞれの聖書解釈上の違い、宗教上の違いは、イエス・キリストが主であるとの基本的な福音の土台が共通であれば、聖霊によってやがて、一つになれるのである。それは、それぞれの違いを受け入れ合い、配慮し合うことによって実現できる。
この言葉は、聖書の一番最後の黙示録の一番最後の章に書かれた言葉である。なぜ、「御霊と花嫁」が一緒に「来てください」と言いなさいと書かれているのだろうか? 前回、私は、聖霊という言葉は、ヘブル語では女性名詞だと語った。 ヘブル語では「ルーアッハ」という。そして、イエスを信じる私たちが、父・御子・聖霊の三位一体の交わりの中に入れられると言うことは、四位一体になるのではなく、御霊と教会である花嫁(その中にイスラエルも含まれる)が一つになり、父・子・御霊の三位一体となると語った。創世記の初めに、最初の人アダムの中に「いのちの息」として人間の霊が吹き込まれ、「人は生きるものとなった」ように、この世の終わりには、キリストを信じる者の中に、アダムのような人の霊ではなく、神の霊である聖霊が一人のキリストの花嫁のかたちとなって私たちの内に宿るのである。その時、御霊と花嫁が一つになるのである。
私たちは、今もそうであるように聖霊が私たちの内にかたちをとる場所となっているのである。御霊と花嫁が一つになり、女性的な聖霊がキリストの花嫁である教会(イスラエルも含まれる)と完全に一つになって、花婿なるキリストとやがて一つに結ばれるのである。