| 残念ながら浜降祭の史料は乏しく、古くは戦国時代に長尾影虎?が攻め込んできた戦乱で神社が消失した。それと寒川神社は江戸時代までは別当寺(薬王寺)、供僧寺(神照寺・中之坊・三大坊と西善院)と呼ばれた古義真言宗寺院の僧侶と神主や社人が神事・仏事を執行していたが、書類関係は寺院が管理していた可能性があり、明治元年の神仏分離により書類が整理されたとき、神社側には残らなかった。寺院側に残っていないのだろうか。浜降祭のはじまりについてはいくつかの伝承が残っているが、ここで整理して紹介しておきます。 第一は浜降祭日記に「神事は千有余年間継続し、執行して来た由緒ある最重要な神事」として、古代から千有余年以上続いているとしている。 第二は同じく浜降祭日記に「横浜貿易新報」の記事を紹介している。「初め祭神は相模川沿岸、当時の河口たりし南湖の浜に降り給え(中略)祭神の没後、その報恩に報い、かつは神夢によりて、漁猟を祝福せんとしたる古代の遺風に濫觴すと伝う」と、これまた古代にはじまる祭りとし、南湖の浜に寒川神社の祭神が降臨し漁民にその術をさずけたため、その報恩に報いるために祭りをしたとしている。 第三は同じく「横浜貿易新報」の記事であるが、「往古相模川洪水のため、氾濫せし際、神輿もこの厄に罹りて流れ下りたるを、南湖の漁民が拾いあげたるに始まる」としている。ここでは寒川神社の神を漂着神信仰としてとらえている。これと似たような話が茅ヶ崎市芹沢にも伝わっている。「昔、寒川神社のミタマが6月15日に相模川に流されてしまったが、7月15日になってミタマが浜に打ち上げられ南湖の人が拾ってくれたので、そのお礼として海岸に神輿を出す」というものである。 昔の相模川はよく氾濫したらしく、江戸時代の絵図でも大きく蛇行しており、洪水が発生しやすい流れだった様子がわかる。往古は寒川神社に近い相模川で禊を行っていたという説もあり、流されて浜で拾われた話はいろいろなかたちで残っている。神が流された川だから「神川」というのだろうか? 第四はやはり相模川に流された話で、別項でも紹介しているが、天保9年寒川神社の神輿が国府祭の帰りに、梅雨で増水中の馬入川に流され行方不明になったが、数日後南湖の天王山南側に住み代々天孫と通称される網元鈴木孫七の地引網にかかり孫七の手によって寒川神社へ返された。そのお礼のために毎年寒川神社の神輿が南湖の浜へ渡御することになったというものである。(国府祭はこちらとこちらから) この話は浜降祭の伝承として一番知られている話ではないだろうか、私は子供の頃に聞かされて長い間信じてきた。しかし別項でも書いたが、浜降祭はすでに安永9年(1780)以前から行われており、天保9年(1838)が始まりではない。鈴木家は馬入川で神輿が流され寒川神社が懸賞金つきで捜索したとき既に南湖の御旅所神主を勤めており、偶然に神輿を見つけたのではなく責任ある立場上積極的に捜索をした結果発見したという説のほうが確かではなかろうか。その後も浜降祭の準備役をしており、明治期の「浜降祭日記」や「寒川神社日記」にも毎年のごとく登場している。 |