近隣の村々から浜降祭への出輿が増えてくると、いろいろと問題もでてきたらしく、近隣の13ヶ村に明治21年(1888)7月5日に寒川神社へ出頭するよう通知している。当日は岡田、門沢橋、柳島、浜之郷、円蔵、芹沢、遠藤、計7ヶ村の氏子惣代と5名の神官の出席で12条にわたって取り決めをしている。 通 知 当社浜降祭ノ節、供奉ノ神輿逐次増加ニヨリ、将来尚一層隆盛ヲ希望候ニ付テハ、 該祭事ニ関シ、一応御協議ニ及ヒ置度義之候間、乍御足労、来ル七月五日晴雨ヲ 論セス、午前八時当社務所江御出頭相成度、。。。。。以下略 12条を意訳して書くと次のような内容である。 第一条、午前2時寒川神社を出発、4時30分南湖海岸で浜降祭を執行、午前11時還幸、午後3時還幸祭を行い、午後4時に各神輿とも退社すること。 第二条、神輿の席順は従来の通りとし、不参加の翌年は末席となること。 第三条、供奉する場合は寒川神社へ迎えに来てから浜降祭へ参加すること。浜辺のみへの出輿は認めない。但し特別の事情がある場合はやむをえない。 第4条、還幸の途中、茅ヶ崎村、一之宮村で休憩すること。その後輿丁の行装整理のため二の鳥居で暫時休憩すること。 第5条、帰社に際して二の鳥居前で休憩中に、宮山村の山車数台を寒川神社前に整列させ、ついで神輿が帰社すること。(宮入用の迎えのお囃子をたたいたのだろうか) 第6条、南湖の浜での神饌は三台宛てとし、品目は赤飯一台、神酒一台、魚、野菜一台を予定していること。但し調度品及び運搬費は毎年一社につき金50銭ずつ徴収すること。もっともその労は寒川神社においてとるものとすること。 第7条、神饌台は八足机と定めること。・・・・・以下略す 第8条、浜降祭の祭場には、各社の神饌所及び神官や氏子惣代の休憩所がなく、やや体裁が悪いので五間の長さの幕を三張り、幕串をそれぞれ新調すること。(以下略) 第9条、浜降祭の祭場の敷物は・・・・略・・・来年は新調したいこと。 第10条、祭事係・神官は靴あるいは草履を用いること。下手の使用は禁止すること。 第11条、浜降祭に新しく参加したい神社は、先述の新しい調度品の保存費として、1円50銭を徴収すること。これは積立てておくこと。 第12条、毎年7月5日には、参加する村の神社の神官と氏子惣代一名ずつが、寒川神社に集合し、浜降祭に関するさまざまな問題を協議すること。(これは今日でも7月5日に開催されている) 以上のことをこの年決定している。この年明治21年4月25日に政府(総理大臣 伊藤博文)は「市制・町村制」を公布し、翌年3月11日神奈川県知事が高座郡の村の内から一之宮・中瀬・下大曲・岡田・大曲・小谷・大蔵・小動・宮山・倉見・田端の11か村を寒川村とすることを命じた。 寒川神社としては、これまで浜降祭に参加していた村々を高座郡南部地域としてとらえていたものが、この法律の施行により、参加している村々が小出・鶴嶺・御所見・有馬・松林・茅ヶ崎・寒川の七つの行政村に区分されることになった。当然のことながら寒川神社としては、行政の組替えに危機感をもつことになった。とりわけ南湖の浜が同一行政区ではなくなり、他村ということになってしまった。 氏子圏の分割は、浜降祭施行の折り、これまでは高座郡役所のみでよかったものが、七つの村役場へ書類を提出せねばならなくなったことでもあった。それゆえ、行政の組替えにかかわりなく、従来の氏子圏の確保はもちろんのこと、一方で浜降祭の開催にあたっての、組織の確立、予算・決算書の作成等の明確化を打ち出すことになった。 次に浜降祭の費用についてみてみよう。明治21年の収入の部は11か村の11神社が各社2円ずつ負担していて計22円である。この年の米の値段で換算すると1社当たり約1斗7升にあたる。約25.5kg、全体では約280.5kgである。(11か村の神社名は「明治から昭和にかけての浜降祭」表2を参照) 支出の部は下表の通りである。赤飯・神酒の量がかなり多いがこれは参加者に振舞ったものであろう。幕の購入費が高額で全体の約56%を占めている。工事請負はこれまで通り、鈴木孫七がつとめている。
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