菅谷神社の天保神輿  2004.02.05

 
 
菅谷神社の天保神輿については他の項でも書いているが、天保九年旧五月節句、国府祭の帰途に馬入川で流された寒川神社の神輿を譲り受けたもので、現在でも浜降祭に参加している。譲渡に関する証文の見つかった岡田三丁目、木村信一家の故木村慈太郎氏遺蹟書が「さむ川その昔を語る」に掲載されていたので紹介しておきます。1982年時点で故人の人が古老に聞いた話などが書き残されている遺蹟書ですし、違った角度から神輿流出事件の顛末が解るので興味がもてます。(緑文字は管理人の説明文)

 寒川様より譲り受けた菅谷の神輿 天保の頃で金十五両
 
木村家の古箱より大正の頃に証文見つかる
 大正元年春、天保生まれの長兵衛が使っていた古箱の中から寒川神社のみこしを西岡田に払い下げた時の書類が見つかりました。大正二年寒川神社の宮司様にお見せし、みこしの払い下げになった理由を添えて宮内省にその古文書を提出致しましたところ、けんかでみこしを流したとは恐れ多い、事故、敬神の意味からも此の証文は家宝として大事に保存しておいてくださいと言う返事がありました。そこでこの証文をここに書き写しておきます。

 
証文の原文は各種文献で紹介されているので、「郷土研究会」の解説文を掲載します。
 
一つ目は宮山村惣代九人の連名で宛て先は西岡田村の惣代中 組頭中 名主中となっている譲渡証文。二つ目は宮山村の口入証人である勝右衛門と岡田村の惣代、組頭、名主が連署したもので、いわゆる受け取り証文である。(菅谷神社所蔵、三留スミ子氏も同文の写しを所蔵:1998年)

 証文之事(解説文)
 この度宮山村では御神輿を新しく作りなおしました。そうしましたら勝右エ門の紹介で西岡田で古い御神輿を譲ってほしいという事ですから、金拾五両とお酒二樽でお譲りしましょう。なお、四方破風という形については手本もありますので、修理の折にお直し下さい。又、作りなおす時には、忍返の形式にお直しく下さい。  天保十五年六月
 
  一札之事(解説文)
 古い御輿をお譲り下され、もったいないくらい幸せでございます。神道の規則もありますので四方破風のことは離してお譲り下さったことは、ごもっともでございます。差掛について御無心申しましたのは、今後修理の時、棟木を直したいと申したわけで、舟建などする時はこれをこわし、後々まで変える事はございません。ここに証拠として一札いれておきますので、まちがいありません。    
天保十五年辰年六月
  (木村慈太郎氏談)
  この古文書が私の家にあった理由はここに出てくる名主 藤兵衛が木村家の4代前の人だからです。

 
 
自宅から証文が見つかった縁もあってか、慈太郎氏はこの件に関し聞き取り調査をして書き残したり、丁髷塚の建立に奔走したりしている。(句読点がないが、文脈ともどもそのままとした)
 熱心に聞き取り調査をした故木村慈太郎氏
 御神輿巻物添書に付馬入方寒川方古老の傳説を猶明記す。
 寒川神社一之宮、神揃山帰路馬入川渡行不祥事一之宮方即死三名負傷者多数、御神輿は海に流れ出、其の時の騒ぎ一方ならず馬入方八幡様は勝ちに誇り一夜中御神輿をかつぎしが時の代官江川太郎左衛門の耳に入り宮入出来ず馬入方喧嘩の頭立者刑きまり初めて宮入せしと時の16人の刑打首3名外13人は丁髷を切られ所払ひ馬入連光寺裏西側竹薮の際共同墓地に皆埋葬せらる。
(関係ページはこちら
 大正の大震災前迄有志方供養せられしと、不祥当時の歌に「粋な平塚喧嘩じゃ馬入」と云うはやり歌出来今に云ひ傳へありと、右不祥ありし為か代官江川太郎左衛門は天保11年に代官は小田原管轄なりしと其の不祥事後馬入村には不時の災難数しれず、一之宮様の祟りと人々恐れ寒川様の御通りの時は昔の人(天保代)皆我家の前に土下座して御通過を拝せられしと云ひ傳へあり。
 其の不祥事後一之宮様御神輿擁護の為血巻の棒と云う樫の木にて造りし喧嘩棒出来御神輿の下に添付らる。又御神輿流れ出し時濱辺には一之宮様御神輿見附け拾い上げし者には褒賞として百石下し與へらるとの云い触れ江川様より出たりと
   (以下の名前は聞き取りの相手であろうか)
   
大正代  馬 入 古 老  武井 仙蔵  杉山 直吉  杉山 幸太郎
   現 代  平塚郷土文庫者  高瀬 慎吾  杉山 久吉


 
神輿は南湖の漁師、孫七さんに拾われる
 流出した神輿はそれから数日後の早朝、代々「天孫」という屋号をもつ網元の鈴木孫七さんに拾われ鈴木家の庭にある石尊山に奉置され、早速、寒川神社に使いを走らせた。ところが、それから三日たち四日たっても神社からは何の沙汰もないので、自分で荷車に積み牛に引かせて寒川神社に運んで行った。
 神社では三百石の報償付きで布令を出したものの未だその用意が出来ておらず困っていたところだった。孫七は「私は三百石の報償を頂くために御輿を持参したのではありません」と言って帰って参りました。神社では孫七の心に打たれ、毎年このお礼をかね南湖海岸で浜降祭が行われるようになった。

 丁髷塚
 塚の建立に奔走した故人 線香立を奉納  平塚市長に働きかけ

 馬入側打首、丁髷の刑に処せられし無縁の霊に対し、其の供養碑を建てたくて南湖鈴木孫七氏にお話しし一方平塚市の戸川市長相談しました所、平塚観光協会長:高瀬慎吾氏、副会長:杉山 久吉氏、平塚市協会にて記念碑が建立されました。時は昭和32年7月12日、御供物を奉納し霊魂に対し線香立をあげました。碑建立が本決まりとなった6月21日は旧暦の5月5日、国府祭の日でした。不祥事寒川一之宮神輿を流しし年回忌に当り、不思議な事もあるものだと戸川市長が驚かれました。丁髷塚の碑は戸川市長の書であります。

 
丁髷塚関連記事  2004.02.22追記
 
平塚市長が陳謝のため寒川神社を参詣
 
2月のある日寒川駅近くの湘南信用金庫で順番待ちをしていて何の気なしにラックを見ると「週間神社紀行・寒川神社」なる雑誌が目に入った。(2003.09.11発刊、毎週木曜日発売、学研、560円、毎週各地の神社をとりあげている)当然、浜降祭、国府祭、等が記載されており、その中に本稿と関係のある丁髷塚の記事があったので紹介しておきます。
 「むかし馬入村の若衆十六人のちょんまげを埋めた処と言う」・・・・・昭和32年(1957)石碑が建てられることになった。地元の元教師が郷土の伝説顕彰のためにと寄進したものである。するとこの話を聞きつけた寒川町のある老人が、平塚市長のもとを訪れ、こういったという。「これを機に、市長さんが寒川神社に参拝し、陳謝してもらいたい」市長はこの奇異な申し出を快諾。後日、さっそく参詣の運びとなった。
 これに感激した老人は「お礼に丁髷塚に香炉を献呈したい」と申し出たという。これにて積年の因縁はようやく決着・・・・・といえるかもしれない。
 
この話にでてくる老人は木村慈太郎氏ではないかと思われますが、どうでしょうか?

 神輿拾い上げし孫七氏は天保十二年お墨付き頂かれる

 
(これも原文は省略、解説文を掲載します)
 
  懇願によって神々の神事許揖の式を与えます
   風折り烏帽子、白色の衣服、黄色のきわめて薄いはかま
   (裾のまわりにひもを通し足のくるぶしの上でくくる)
   を着用して神事にあたるべし、以上当方で命ずる次第である。

 これは昭和35年7月南湖鈴木孫七様宅にて写させていただいたものです。
 京都紫芯宸殿より神輿拾い上げし功により烏帽子直垂及び墨付きを頂かれました。

<ここより木村慎次さんの話>
 今はこれだけ立派な神輿を作れる職人がいないらしいです
 年寄りから聞いた話ですからはきりしませんが、なんでも神輿は喧嘩と海に流されたのと両方で相当傷んでいたらしく今はあとかたもない宝塔院という寺で二つの輿の良い所だけとって作り直したらしいです。
(関係ページはこちらだからがっちりとした素晴らしいお神輿になったのだという話です。
 10年位前、私が宮世話人になった時、根下町と大塚町の神社の会計箱(木で出来ていて縦長の箱)の書類を見たら、お神輿を買った時の帳面がありました。それによると当時、西岡田(根下町と大塚町)は28戸(又は38戸)しか戸数がなく、一軒あたまの寄付金も大変な金額だったようです。それで毎晩若い衆が縄をないそれを売ってお金をこしらえたという様なことが書いてありました。宮世話人同士で、これは貴重なものだから「でえーじにしとかなきゃあ」と言ってたんだが、その後その木箱はどうなってしまったんだろうねー。
 百年の上担いでいる神輿だからあちこち剥げてきましたからヌシャ(塗師)をよんで塗り替えを頼んだんですが、ものすごく金箔が厚く塗ってあって「とてもこんなには塗れない」と断られてしまったのであの輿は一度も塗り替えをやっていません。
(時が流れて平成10年6月、菅谷神社合祀90年事業として見事に修復し、今でも浜降祭に出御しています)

 新しくした神輿
 昭和53年に氏子の総意で輿を新しくすることにしました。職人を呼んでお金はいくらでも出すからこれと同じものを作ってくれと天保の神輿を見せましたところ「勘弁してください、いくら金をつまれても、今じゃあこんな彫り物のできる細工師はいやあしません」と断られてしまいました。そこで、それでは一つだけ天保の名残を残して欲しいと頼んだのが「龍が玉を持っている彫り物で、玉の中にまた玉が入っている」そこだけは真似て作ってもらいたいと強く言ってそこだけはなんとかしてもらいました。

 
神輿を作るという話が持ち上がった時、寒川さんから「古い方を神社へ納めてくれれば、ご希望の神輿を作って菅谷へ奉納しましょう」と申し入れがあり、「寄付を集めなくて済むからそうしましょうか?」という意見も出ましたが、「おいらの先祖が苦労して買ったお神輿だから、いつまでも菅谷さんにおいてもらいてえ西岡田の願いだよ」ということで、皆さんから多額の浄財をあおぎ今の神輿が出来たという訳です。(この話は当時宮総代をしていた父からも同じような話を聞きました。天保神輿のあのなんともいえない屋根の曲線が、何度修正しても再現できなかったそうです。この神輿は昭和53年から平成9年まで担ぎました。関係ページはこちら
 神輿について面白い話といえば、祭りの日に村渡りといって各村々を神輿を担いで廻る訳ですが、一人の人が朝から晩まで担ぐわけにはいきませんので、たいてい自分の町内になった時に主として担ぎ、あとは神輿の後をぶらぶらとくっついて歩いたものです。年によって町内に担ぎ手が少なく他部落より助っ人を頼まなければならない時がある訳ですが、そんな時西岡田では東岡田を頼まないで、大曲の若い衆を助っ人に頼みました。これは不思議だねえ未だに何故だか俺等にもわからねえです。

以上、寒川その昔を語る 第5集(昭和57年11月1日)より
 

 
天保神輿の購入費用捻出については、明治35年生まれの臼井喜代さんの話が「岡田の思い出話」として第8集(昭和60年11月)に掲載されているので抜粋を載せておきます。
 
日枝神社と八坂神社は明治42年に合祀された。(私の七つの時)菅谷神社へ合祀される時に輿と神楽殿と鳥居が行ったという。その輿は寒川神社から譲り受けるについては、皆が寄って縄をないお金にしたそうです。又、川田といって川の端のぬまを寄せて「残り稲苗」を植えて米を取りお金にしたそうです。

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