鶴嶺八幡社の浜降祭   2003年11月 7日

鶴嶺八幡社の浜降祭
 現在の浜降祭は寒川神社の禊神事であるとともに鶴嶺八幡社(茅ヶ崎市浜之郷)の神事という一面も有している。それには両社の複雑な関係がかかわっている。鶴嶺八幡社は古くから6月29日を水無月祓いと定めて南湖海岸で禊神事を行っていたという言い伝えがある。明治6年12月に鶴嶺八幡社が寒川神社の摂社となるにともなって翌明治7年には禊神事である浜降祭を両社共同で実施している。しかし、この時期は田植えにあたり農作業が繁多なので、明治9年に両社は6月30日に行っていた浜降祭を現在のように7月15日に行うことに変更した。
 明治10年には鶴嶺八幡社の摂社が解除され、それにともなって翌
明治11年からは再び禊神事を両社で単独に執行することになった。そして、大正12年(1923)に両社が浜降祭を共同執行して以来、そのまま現在にいたっているという複雑な経緯がある。以上が一般に記載されている内容であり、単独で執行は事実であるが、浜降祭日記を読むと赤文字の年代は疑問で、鶴嶺八幡社はその後も継続して参加しており、明治19年には寒川神社まで供奉して来て還幸祭にも参加している。その時の浜降祭日記の書き方が面白く、新しい発見だった。

 昔々、建久の頃(1191年)波は東海道の辺りまでひたひたと打ち寄せていたといわれる。そこで、八丁松並木といわれる鶴嶺八幡社の参道先で「禊祭り」がおごそかに行われていた。「新編相模国風土記稿」の高座郡濱之郷村の項によると、この村には鶴嶺八幡社と佐塚明神社が同じ境内に並立しており、・・・濱の郷・下町屋・圓蔵・西久保・矢畑・松尾・茅ヶ崎七村の鎮守なり・・・とあることから、両社は鎌倉時代の昔から郷土の信仰の中心であったと思われ、佐塚明神社の神輿が茅ヶ崎の浜で海へ入り、その折り南湖と、帰社の折り大門の二箇所でしばらく足をとどめたとある。つまりこの二箇所に御旅所があったものと思われ、これが佐塚明神社の浜降神事であった。
 
 ○佐塚明神社;社傳に建久二年(注)此浦に伊豫の三島の神出現あり、依て現住思允勧進して社を建立し、社僧六坊を定む、佐塚と号する由来は傳へず、例祭六月廿九日、午後濱下りとして茅ヶ崎村海濱まで出輿す、入輿の時南湖(茅ヶ崎村の属)及び大門中程に暫時休むを旧例とす。・・・・・「新編相模国風土記稿」より
 (注)浜降祭の起源を建久二年とする説(例:浜降祭と神奈川の神輿:浜降祭について)はここからきているのではないかと思われる。

 つまり江戸時代には「浜降(浜下り)祭的な行事」が、南湖の浜で二つ行われており、6月15日には宮山村の寒川神社の神輿が、6月29日には浜之郷村佐塚明神社の神輿がそれぞれ別個に出輿していたことがわかる。ところがこれが明治初年には合同で6月15日に行われ、その頂点に寒川神社の神輿がすわり、第二位に浜之郷の神輿が続く形式になっている。そして鶴嶺八幡社と佐塚明神社の氏子地域の村々も寒川神社の浜降祭に編入されている。
 それでは「浜降祭日記」から浜之郷に関係するところをひろってみよう。

浜降祭でのあつかい
 大正期以降、寒川町の菅谷神社とともに鶴嶺八幡社もまた浜降祭で特別な地位を与えられた神社である。大正元年には南湖浜への渡幸の順、浜での神輿席順とも菅谷神社に次いで第三位であったが、大正12年に浜降祭を共同執行するという立場にになってからは特別待遇を受けている。南湖浜への渡幸順も先駆とされて寒川神社の先頭を行く。次に寒川神社、三番手は菅谷神社で、その後に諸社の神輿が続くのである。(注;下記)

 南湖浜での席順も、中央に寒川神社その東隣に菅谷神社が並び、他の多くの神社が抽籤によって席順を決定するのに対して、鶴嶺八幡社は抽籤には参加せず、諸社の神輿と並んで着輿しない。常に一番東端のそれも最も海に近い位置を占めている。この鶴嶺八幡社の待遇は寒川神社との複雑な関係にもよるが、浜降祭の本質を考える点で重要ではないだろうか。浜降祭今昔物語の「太刀持ち菅谷」にも書いたが、地元では「露払い鶴嶺、太刀持ち菅谷」と言われてきた。「茅ヶ崎市史研究−寒川神社浜降祭の民族象徴論」などでも似たような表現をしているが、上述の歴史を考えればこの表現は当たっていないことに気付かされる。

 明治初年から明治27年に不参加となるまでの間、渡幸順序及び浜降祭々場での席順は浜之郷が常に第二位となっているし、寒川神社の神輿を出迎えにもいかなければ、還幸の折り寒川神社への送りの行列にも加わっていない。これは本来別の浜降祭を行っていたための特権として認められていたものと思われる。

(注;昭和50年代以降特に最近は、ほとんどの神輿が海岸近くの西浜駐車場から海岸のみの渡御であり、渡幸順というよりも、浜への入場順と言ったほうが当たっている。参加神輿の増加と交通量の多い国道134号線を横断する関係か?一番神輿は5時に式場へ入場し、ほとんどの神輿は寒川神社が6時に入場する頃には着輿している。)

浜降祭日記の面白い記事
�@鶴峯(嶺)ノ神輿ハ後レテ来リ
 明治43年(明治27年以降不参加だった)浜之郷が久方ぶりに参加することになったが、寒川神社が考えたように浜降祭は順調には進行しなかったようである。この年の「日記」によれば鶴嶺八幡宮を出発して式場に向かうとき「・・・鶴峯(嶺)ノ神輿ハ後レテ来リ、列ヲ乱シテ十間坂方面ニ向フ、続テ円蔵・中島神輿等同行セリ、是ニ至リ頗ル喧掻(噪)ヲ極メタル者ナリ」と、浜之郷、円蔵、中島の神輿が隊列を乱している様子がえがかれている。
 翌44年は「四時半鶴峯八幡宮前ニ着ス、供奉神輿茅ヶ崎八坂神社、十間坂八坂神社、南湖上町八雲神社ノ三社、列座奉迎セリ、暫時御着座小憩ノ上出発、海岸式場に向フ(是ヨリ先菅谷神社神輿ハ一ノ宮小学校前ニ出迎アリ)」と記されており、浜之郷以下の神輿は不参加になっている。その後、中島、円蔵は参加しているが、浜之郷は大正元年、及び4年に参加して以降はその名前が記録にはない。
 この辺の事情については、今更深い詮索は無用であろうが「日記」の明治41年に「横浜貿易新報」の記事があるが、「・・・是等沿道の神輿は何れも寒川神社の同社境内迄神輿を送迎したるものなりしが、今より十余年前、或る事情により、各郷社ハ鶴ヵ峯村字浜の郷なる鶴峯八幡宮の下に、殆ど同日同時なるも寒川と分離して浜降祭を行ふに至りしと云ふ」と記されており、上述の如く江戸時代以来寒川神社と同様の浜降祭を行っていたことを主張したのだろうか、寒川神社の参加要請に素直には応じなかった様子がうかがえ、興味深いものがある
。
  (誰かな・・・・・?その当時のように別々にやれば、「浜降祭が2回できる」なんて考えているのは・・・・・。)

�A不参加になって以降はどうなった?
 
明治30年7月15日
 
同七時祭典執行、同七時三十分浜御出発、此際鶴嶺神社神輿始メ外六社浜祭場位置東側接近へ進入リタル際、
突当ラントセシモ幸ヒニ故障ナク通過セリ(神輿を突き当てようとしています。かなりきわどい物騒な様子ですね!)
 明治44年7月15日
 式場東方遙ニ鶴峯八幡宮外一輿着座セルヲ見タリ

 以上の二つの記事から鶴嶺八幡宮がその後も同日・同時刻頃に南湖の浜で浜降祭を執行していたものと思われる。

�B浜之郷社不意ニ社頭迄随行也(明治19年)
 明治21年に12条にわたって様々な取り決め(別項で記載)をしているが、この当時はまだ徹底を欠いていたのか?「寺尾社無届ケニ而、御浜江出輿ニ而、社当(頭)迄供奉相成候」のような記事もある。
 これまで寒川神社の神輿を迎えにもこなければ、還幸時の行列にも加わっていなかった浜之郷が、後にも先にもこの年だけ寒川神社まで供奉して来て還幸祭に参加している。冒頭に書いた「日記」の”不意に”がそのときの様子を(いかにも予想外の様な?)表現していて興味深いものがある。
 浜降祭以前の日の「日記」には「御浜神輿列」と
「着御神輿列」と二種類の席順(南湖浜と還幸祭時)が記載されているが、「着御神輿列」に浜之郷は記載されていないので、本当に予定外であったのであろう。当日の「日記」には(前後は略す)「午前10時10分 還輿引次テ芹沢村々社初各社供奉、着輿、外浜ノ郷村々社神輿、臨時随着 隋来社数八社」と記されている。更に「仮殿前之祭場図ノ如シ」として下図のような配席図が記載されており、「特別所」として寒川神社の正面の位置に特別に浜之郷の席を設けている。


�Cその他の記事は「浜降祭日記より」を参照。 

 (注;日記では図の文字は縦書きです)
仮殿

本社

岡田 芹沢
柳島 円蔵
中島 宮原
下寺
(下寺尾)

所 別 特
浜郷
(浜之郷)


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