北条五代シンポジウム
〜北条氏百年の足跡〜
2011/9/23


小田原北条氏悲願の大河ドラマ化へ向けて

北条早雲というと戦国の梟勇、騙まし討ちなどのダーティーなイメージや、
同じ戦国武将でも信長、秀吉、家康などの天下人、
信玄、謙信などの名将と比べるとやや地味と言うか、
大河ドラマ化へNHKにアプローチしても何度も断られて続けてきました。


早雲だけでなく北条五代として拡大!再挑戦です!!

大河ドラマ「天地人」の原作者、火坂雅志さんが現在、小説トリッパーにて「北条五代」を連載中です。
5市1町で進められてきた大河ドラマ化構想も支城のある八王子市や寄居町などを含めて8市2町に拡大、
北条五代観光推進協議会として一気に盛り上がりを見せたい所です。


今回開催された北条五代シンポジウムではコーディネータに元NHKアナウンサーの松平定知さん、
パネリストに大河ドラマの時代考証を何作も手がけた静岡大学名誉教授の小和田哲夫さん、
天地人の原作者であり北条五代をを連載中の歴史小説家の火坂雅志さんの2人を向かえました。

人気番組「その時歴史が動いた」の収録かと思える豪華メンバーが揃ったということもあり、
定員1000人に対して応募者殺到につき抽選になりました。
私は運良く当選したので参加できましたが、
バスツアーを組んだ市と町もあり、各市町での競争率はかなり高かったようです。


当日のプログラムは以下の通りです。

オープニング

小田原北條太鼓演奏
各首長の紹介、小田原市長の挨拶

第1部 基調演説「北条氏5代100年の繁栄」

講師 小和田哲男氏(静岡大学名誉教授 小田原ふるさと大使)


第2部 パネルディスカッション「北条氏の目指した理想国家について」

コーディネータ:松平定知氏(元NHKキャスター)
パネリスト:小和田哲男氏(静岡大学名誉教授)
火坂雅志氏(歴史小説作家)


北条五代シンポジウム
では当日の模様を紹介します。

会場の小田原市民センター入り口では北条手作り甲冑隊のお出迎えで、
定員を超えたこともありロビーは賑やかでした。
各市町の観光案内のパンフレットや出演者の著書などが売られており、
始まる前から盛り上がりを見せていました。


〜オープニング〜


まずは小田原北条太鼓の迫力のある演奏から、
縁日で聞くような単調なものではなく、様々なリズムを刻んでなかなかユニークで面白かったです。

小田原北条太鼓の演奏が終わると北条五代観光推進協議会の8市2町各首長が登場です。


岡山県井原市
備中伊勢氏として初代早雲が産まれた地です。
早雲が青年期を過ごした高越城では毎年4月に井原市早雲まつりが開催されます。


静岡県沼津市
早雲が旗揚げをした居城興国寺城をはじめ、
北条水軍の長浜城もあり、この地は今川、武田と領有権を争った激戦区です。


静岡県三島市
秀吉来攻により落ちた山中城の障子堀は見事!!
5月に行われる三島山中城祭りもお忘れなく。


静岡県伊豆市
早雲の伊豆進出の足がかりとなった丸山城や、
湯治のふりをして情報を集めた修善寺温泉が魅力です。


静岡県伊豆の国市
早雲が足利茶々丸を討った堀越御所の跡があります。
又、晩年の早雲は韮山城を居城としこの地で亡くなりました。


神奈川県鎌倉市
三浦氏と扇谷上杉氏の攻撃を防ぐ為に築かれた名城玉縄城があり、
鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を戦国時代に修繕したのはなんと2代目氏綱です。l


神奈川県小田原市
北条氏の本城小田原城、秀吉の石垣山一夜城などは歴史の教科書にも載るようなお城です。
毎年5月3日に行われる北条五代祭りも凄いですよ!!

神奈川県箱根町
早雲の菩提寺早雲寺で北条五代のお墓を参りをした後は箱根の温泉でも。
又、この地は北条氏の支城が非常に多い場所でもあります。


東京都八王子市
滝山城と八王子城の北条氏照が手がけた2つの城があり、
天正18年悲劇の落城をした八王子城は戦国山城の最終形態と言われる名城です。


埼玉県寄居町
北条氏が上杉、武田と激戦を繰り広げた鉢形城では、
毎年4月第2日曜日に寄居北条祭りが開催されます。


以上、北条五代観光推進協議会8市2町でした。
当日は代表して小田原市長からの挨拶がありました。
各市町、これを機会に北条氏の足跡を追って尋ねてみては如何でしょうか。



いよいよ本番、まずは小和田先生の講演からです。

〜第1部 基調演説「北条氏5代100年の繁栄」〜
講師 小和田哲男氏(静岡大学名誉教授 小田原ふるさと大使)


静岡大学名誉教授の小和田先生は大河ドラマの時代考証や小田原ふるさと大使としてもご活躍です。
ここからは講演の内容をできるだけ本人の発言に近い内容、表現にて紹介させていただきます。


1.戦国大名の攻防

戦国大名北条氏は鎌倉時代の執権北条氏と区別する為に後北条氏とも呼ばれています。
戦国大名とは室町時代の守護(今で言う都道府県ごとの首長のような武士団の制度)が、
自分の国をある程度支配下に置くことによって守護大名と呼ばれるような権力者になり、
さらに力をつけていって他の国を支配下に置く戦国大名に発展するケースが各地で多くあります。
その代表例が甲斐(山梨県)の武田氏、駿河(静岡県)の今川氏、薩摩(鹿児島県)の島津氏などです。

北条氏の場合はこのケースではなく、俗に言う下克上で成り上がって戦国大名になったケースになります。
初代早雲が現在の静岡県伊豆の国市の堀越公方、足利茶々丸を討って伊豆一国を支配しました。


戦国時代に五代100年続いた家は稀

戦国時代は約100年続いたのですが、
戦国の始めから終わりまで家を何代も渡って継いだのは非常に珍しい。
たいていは2代3代、今年のNHKの大河ドラマでは浅井家は3代で滅んでいます。
私に言わせれば戦国時代で五代100年も続く例は非常に稀な存在だと思います。

皆様がお手持ちのパンフレットには北条早雲は伊勢新九郎盛時、
または早雲庵宗瑞と名乗っていたと書かれていますが、
実は不思議に思うかもしれませんが自ら一度も北条早雲とは名乗っていないのです。
ですから、もしNHKの大河ドラマになったら伊勢新九郎盛時と言っても皆さん解らないでしょうし、
北条早雲と言ったら嘘になりますから、
時代考証を頼まれたらどうするかなと今から心配しているんです。


戦国大名第一号は北条早雲

それはさておきまして、
北条早雲が足利茶々丸を討ちますがこの年が明応2(1493)年なのです。
この明応2(1493)年がある意味戦国時代の幕開けと言って良いのではないか。
丁度この時期、近江(滋賀県)の尼子経久が、
守護の京極政経を倒して守護大名に下克上して戦国大名になりました。
西は尼子経久、東は北条早雲、戦国大名の第1号、
戦国時代の幕開けを告げる人物と言って良いのではないかと思うんですね。


早雲の出自をめぐって 備中伊勢氏

その早雲の出自に関しては今から30年前、40年前の通説では、
どこの馬の骨かわからないという前ふりがついた、
伊勢の素浪人が駿河の今川家に来て伊豆一国を狙ったというものでした。

それ以外でも京都の伊勢氏、これは室町時代の名門です。
政所執事と言って今で言うと財務大臣と日銀総裁を兼ねている地位にいた家が本家で、
その分家の備中伊勢氏、その分家から京都の本家に養子として入って、
足利義視の近士として仕え、駿河の今川義忠が戦死し、
未亡人となった妹の北川殿を助ける為に下向したとされますが、
その北川殿がお姉さんなのか妹なのかが問題です。

早雲の産まれた年はこれまでの通説の永享4(1432)年と
最近の若い研究者の研究で有力視されるのは康正2(1456)年の2説あり、
亡くなった年は永正16(1519)年ですので享年も88年と64年となり、
後者であれば北川殿は姉にあたることになります。

早雲は一時期応仁元年(1467)年に始まる応仁の乱に巻き込まれています。
もし産まれた年が康正2(1456)年になると応仁の乱に巻き込まれた時の年齢が12、13歳となるので、
私は永享4(1432)年説を前提で全体をお話しますけど、
今後の研究次第では康正2(1456)年が通説になる事をはじめにお断りしたいと思います。



2.二代氏綱の再評価


2代目は損な役回り

どこの大名家でも初代と2代目は一緒に戦に出てしまいます。
年表にするとお父さんの功績として初代の名前で書かれてしまうのでどうしても2代目が目立たない。
ですが、氏綱の場合、本拠地を韮山から小田原に移しています。
他の大名が本拠地を一度決めてしまうとなかなか移動したがらないのですが、
氏綱の場合は戦国時代の早い時期に城を移している。
これは注目するべき点と言って良いのではないかと思います。


「北条氏綱遺言状」の意味すもの

氏綱は「北条氏綱遺言状」を残しています。これは三代氏康に与えた遺言状ですが、
天文10(1521)年5月21日の日付で書いてあり、そのわずか2ヵ月後に氏綱は亡くなります。

その遺言状で私が一番気に入っているフレーズが、
『その者の役立処を召遣、役ニたゝさる処を不遣候而、何れをも用に立つ候を、能大将と申なり』
部下の能力を見極めるかが上に立つ者の務め、平たく言うなれば適材適所の人事配置、
帝王学の親から子への伝授と言っていい内容だと思います。

『一万時倹約を守るべし、華麗を好む時ハ、下民を食らされハ、出る所なし、
倹約を守る時ハ、下民を痛めす、侍中より地下人百姓迄も富貴也、』
一般庶民までもが豊かな生活を送れるようにしなければならない、
その為には領主はあまり贅沢をしてはいけないという意味になりますが、
早雲、氏綱が培ってきた領国経営のノウハウを三代目に見事にバトンタッチした例とみております。

氏綱が亡くなる直前の話なのですが鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を修造をしているんですね。
当時の武士たちは神の力を借りて領国経営に乗り出すのが多いのです。
初代の早雲が有名な早雲寺殿廿一箇条の中で第一条で『可信佛神事』と出ています。
五条目のところに、拝事とありますけど、その言葉の中に『神明の加護』、
つまり自分たちは神仏によって守られている。
あるいは戦いの時に神の加護をもらって戦いに出て行くんだという発想で、
相模の国の戦神の八幡社を修造する事により、
北条領国の安穏を願うという意味で氏綱はきっちとやられている点で注目している所です。


伊勢氏から北条氏への改姓

2代目氏綱の時に相模から武蔵へ進出していく時に伊勢を辞めて北条と改姓している。
何故か、どうやら西国で知られている伊勢という苗字では関東武士には馴染みが無くついてこない、
鎌倉北条氏が相模と武蔵の守だった事からこの2国の領国経営に乗り出すのに丁度良い、
という意味で東国では馴染みの深い北条氏を名乗ったと思うんですね。

異説によれば伊豆韮山に住んでいた鎌倉北条氏の子孫の計らいで、
未亡人となった人の入り婿で伊勢新九郎が入ったという説があるのですが、私はどうも信用できない。
やはり2代目氏綱の時に武蔵の守を名乗っていた北条氏に変えたのだと解釈しています。



3.三代氏康とその子どもたち


三代目でお爺さんお父さんがせっかく作った身上を潰してしまうとか言われますけど、
北条氏の場合は氏康がきちっと三代目として、
領国経営に取り組んだので4代5代とつながり大きく力をつけていったと考えています。
その大きな例が有名な河越夜戦です。

関東戦国志の分水嶺 河越夜戦

天文15(1546)年河越城の争奪戦があったのですが、
総勢8万の山内上杉、扇谷上杉、古河公方連合軍をわずか8千で破ったと言われる河越夜戦ですが、
氏康軍が8千というのは大体当たっています。
というのはこの少し後の永禄2(1559)年に北条氏康は自分の領国の所領役帳というものを作成しています。
この北条氏所領役帳に小田原衆8千と書かれているので間違いないですが、
連合軍の場合、毛利元就が最大4万、織田信長で最大6万という規模の動員数を考えますと、
8万といわれる連合軍は1/3程度の動員数ではないかと考えています。
この河越夜戦で旧勢力を駆逐したことにより氏康の時代北条氏はさらに勢力が延びて行きます。


氏康の先進的施策

氏康は先進的施策で急成長を遂げます。
先ほど北条氏所領役帳を作成したと言いましたが、これは各家臣団の所領役、
当時北条氏は貫高制ですが、例えば400貫文とか書かれている。
その400貫文の年貢が上がってくる分をあなたは支配して良いですよ、
その代りに所領に役、仕事を分担させますよとか計算が出来る。
これは他の大名もやられてない凄いシステムだと思います。

それから初代早雲の代で既に検地を行っており、
検地というと秀吉の太閤検地ですがこの魁を初代の早雲の時に北条氏はやっており、
領内の所領を掌握するという意味では画期的な事業ということになります。

飢饉の時は徳政令を出して領民たちの生活を優先する政策を取る。
これは初代の早雲が堀越御所攻めをやった直後、
伊豆に病気が流行っていたのを見て領民に薬を飲ませてまず病気を治す。
そして税金を5公5民から4公6民にして領民の心をつかんだ。
いわゆる庶民を優先した施策を氏康もやっています。
その中でも有名なのは目安箱なんてのもそうですね。
庶民から集った意見から不正を行った代官を更迭したという事例も結構あります。



氏康と弟たちの支城ネットワーク

氏康は子供たちを有効に支城に配置した。
これも戦国大名が力を大きくしていく上では有効な手段です。
氏照を滝山城、氏邦を鉢形城、氏規を韮山城に配置し支城領を確立し、
その全体のトップに氏政を置きいわゆるピラミッド型の支配体系を確立した。
これにより関八州の支配を確実にして、その石高は最大250万石にも登ります。
計算してみると武田、上杉、今川でも100万石大名なんですね、これを北条が凌駕した。
これは兄弟の結束が一番で凄い事だし、氏康が自分の子供たちを上手く配置し、
他の戦国大名では考えられない規模になっていました。



4.豊臣秀吉の小田原攻めと氏政・氏直


「関八州国家」のプライド

北条氏が関八州に勢力を延ばしていた頃、豊臣秀吉が織田信長の後を次いで台頭してきます。
北条氏は徳川、北条、伊達の三国同盟で秀吉に対抗できると考えていましたが、
家康が秀吉の妹旭姫を嫁に迎えるなどして秀吉の軍門に下った為この三国同盟は崩れてしまいます。

丁度この時に秀吉が攻めてくる、具体的には天正18年の小田原攻め、
北条氏は秀吉に対抗する為に西の防塁腺として韮山城や山中城、足柄城などを強化します。
本城の小田原城には総延長9kmにも及ぶ総構を構築し秀吉軍に対抗します。
秀吉軍は総勢22万という大軍で攻めてきますが圧倒的な戦力差で北条氏は敗れてしまいます。

北条氏が秀吉に屈服しなかった理由は、
上杉謙信や武田信玄の来攻を相次いで防いだ小田原城を過信したことと、
関八州国家のプライド、何も日本全国を一人で国を治めなくてもいい、
この時北条氏は国家という言葉を使っていますが群雄割拠でも良い、
今で言う地方分権の魁の考えを持っていたのではないかと考えています。
しかも、家康に対しては自分の妹を嫁がせてきたのにも関わらず、
北条家に対してはこのような工作は無い、
氏政としてはカチンときたのではないかと思います。


小田原城総構をまねた秀吉

北条氏は総構で約100日篭城戦を戦い抜くのですが、
総構を攻めあぐねた秀吉は自らの城にも総構を築き、
この後の豊臣大名が自分の城に総構を築くきっかけをつくる。
これは小田原が発信源になったのではないかと思います。



おわりに

100年間自分の国をきっちと支配した、
例えば伝馬制度のような新しい形でいろいろな事を北条家はやっている。
先進的な領国経営を後に関東に入る家康が全て受け継ぎます。
滅びたと言えその後の時代を変えた北条氏の五代百年の歴史は、
次の時代を創る大名家だったのではないかと思います。


以上、50分間の講演でした。
この短い時間で北条五代100年の歴史を一般の私たちに、
解り易く説明してくださった小和田先生はさすがです。
講演終了と共に会場からは割れるばかりの拍手が鳴り響きました。




〜第2部 パネルディスカッション「北条氏の目指した理想国家について」〜


先ほど講演を終えた小和田先生、火坂先生、元NHKのアナウンサー松平さんの順で登場しますが、
火坂雅志さんの登場の時の拍手が一際大きく感じました。
現在小説トリッパーにて北条五代を出筆されているだけに期待度が高いように見受けられました。


シンポジウムは松平さんの司会進行で進められますが、
これより青文字にて松平さんの発言を記載させていただきます。
松平さんは『その時歴史が動いた』の司会を長年務められたこともありいろいろとお詳しいと感じました。
実はコーディネータではなくパネリストで参加したかったのかなぁとも思えるぐらい良く語られました。


早雲の年齢説については

火坂:小和田さんは88歳説を先ほど言われましたが、
まずは伊豆に乗り込んできたんですがその歳が60歳ぐらいだったことになります。
最近の若い研究家の研究ではもっと若いのではないかと言われていますが、
若い説を取ると伊豆の国取りは38歳となり、
男盛りの壮年の男の方が小説家的には若いパワーを感じるので、
小和田先生にはすみませんが若い学者さんの説をとらせていただきたいです。


早雲は妹の北川殿を助ける為に駿河に下向したで良いか?

小和田:応仁の乱の最中、駿河の守護は今川義忠だったのですが、
北川殿については古い小説などで義忠の側室と言われています。
ですが、名門伊勢氏から迎えられたので正室ではないかと考えています。
早雲88歳説を取れば妹、もっと若い説であれば姉になり、
その北川殿と義忠との間に竜王丸という男子が産まれていたが、
義忠が戦で討ち死にしてしまった為に路頭に迷ってしまう時に、
それを助けようとして今川家を盛り立てようとした。

これが早雲が駿河に入ってくる大きな理由になる訳で、
竜王丸が家督を継いで氏親を名乗りこの時に早雲は静岡県沼津市の興国寺城を与えられます。
この城の目の前には伊豆半島があり伊豆の情報が逐一入ってくる。
そこで伊豆の国で内紛があるぞと聞きつけて国を奪った。
今川家の職官が将軍足利家の出先機関を滅ぼした事になるので、
守護大名同士の争いとは異質の争い、戦国時代の幕開けと言って良いのではないかと思います。


早雲が伊豆の国を奪った後に東に進出した意志は?

火坂:かつて早雲は素浪人だったと言われましたが、
最近の研究では早雲は今で言うならば足利将軍家に仕える高級官僚だったことが解りました。
この頃足利将軍家は力を失いつつあり、つまり人材の流出と考えているんです。
やる気のある人間でも今の将軍家に仕えても未来は無い、
それなら自分の会社を興して大きな会社を作ろうと考えたのが早雲だったと考えています。

堀越御所急襲については陸伝いに韮山の御所を狙った説と海路を使って狙った説の2説あり、
私も悩みましたが陸路を使った方は陽動作戦として、
本隊は海路を使ったという描き方をして両2説を活かしました。


北条氏は奇襲のイメージがあるが情報収集に気を使ったことでしょうか?

小和田:北条五代記では早雲自らが伊豆の修善寺に、
湯治のふりをして伊豆の政情を自分の耳で確かめたとあり、
あるいは言わゆる忍者集団を使って情報収集したと思いますが、
早雲は京都の大徳寺で中国の兵法書孫子を勉強していて、
その知識を活かせるところはないかと思い駿河にやってきたと考えています。
小田原城を奪った時の奇襲作戦は相手を油断させておいて奇襲をかける、
まさに孫子の兵法に沿ったものだと考えています。


北条氏の忍者集団といえば風魔ですが?

火坂:風魔小太郎が有名ですが、出身は小田原市の風祭になります。
風祭には風間という方がたくさん住んでおり、
神出鬼没なところから風間の間が魔に変ったのではないか。
又、風祭には烏天狗を祭る神社があり、修験者の里だったのではないかと考えています。


早雲の領国経営についてお話ください

小和田:北条五代記では1ヶ月で伊豆を平定したと書かれていますが、
伊豆の狩野氏などは3、4年も抵抗した記録があるので、実際はそうではなさそうです。
ですが、その他においては減税政策と福祉政策で領民の心をつかんでおり、
スムーズに平定が進んだと考えています。

しかし、その反面、下田市の深根城では、
最後まで抵抗したので落城後1000人の首を切って城の周りに並べたという話もあり、
抵抗するとこうなるぞというアメとムチの政策をとったのではないかと考えています。


北条氏が徳川吉宗よりも早く目安箱を設けていた事については

火坂:目安箱に北条氏の領民に対する基本的な精神があると思います。
早雲は「上下万民に対し一言反するなく虚言を申すべからず」という遺言を残しているのですが、
自分の納めている領民に対しては絶対嘘をついてはならない、
言ったからには必ず実現しなければならない、それが政治をやる人間の務めなのだということです。

では早雲は嘘をつかなかったのか、嘘をついているのです。
相手が敵、武士同士の争いの場合は戦ですから、
孫子の兵法より「兵は軌道也」つまり、騙し討ちもあるということです。


早雲寺殿廿一箇条については

小和田:例えば「朝起きて身の回りを見回われよ」とか
「出仕した時には物の本を懐に入れて出て行きなさいよ」とか
「少しの暇があれば文字を読んでいなさいよ」とか、
日常茶飯事というか普段の生活の注意事項なども書かれているし、
恐らく早雲という人は名前からして出家した人の名前ですし、
根底にあるのは仏教者としての精神があったと思います。

火坂:私は読んだ時にハっと思った言葉があるのですが、
「仁義をもっぱらし」と書いてあるのです。
義と言えば私にとっては天地人の上杉謙信の義です。
私利私欲の為に政をやってはいけない、
今で言うなら国家国民の為にやらなければならないということで、
義の精神を受け継いだ直江兼続は仁という言葉を付け加え、
弱い人をかばって政をやらなければならないと考えました。

私は早雲の「仁義」という言葉を見て感動しましたし、
一方で仁義という思想を持っていた人である、
早雲というと戦国の梟勇という一方的な見方をされてきたのかなと思いました。


これまでのお話では早雲は梟勇という言葉を満たしていないのでは?

小和田:まさにその通りで、身分が卑しいと言われてきましたが、
名門伊勢氏の出自は明らかですし、戦国の三梟勇と呼ばれるくくりは明らかに間違っていると思います。


これはNHKのドラマになる要素が一つ揃ったと思いますが

火坂:四公六民という税制を打ち出したという話を小和田さんの講演からありましたが、
当時は五公五民が通常で戦や城をつくるなどした場合六公四民に上がる事もありましたし、
群馬県の高崎藩で八公二民という高い税金がかけられたこともありました。
それをどう補ったか、安い税金の代わりに商業を発達させそこから税金を取った。
商業を盛んにする政治が小田原にあったということです。


商業を盛んにすると言えば明(中国)との貿易もあると思いますが

火坂:北条氏には中国系資本の影があると思います。
小田原にはういろうさんがありますが、
元々は明朝に追われた外交官で室町幕府の庇護を受けていましたが早雲が小田原に招きます。
そういう中国系資本が北条家のバックにあったのではないかと思います。
町全体を土塁と空堀で囲む総構の中国の都城的な発想は、
中国人によってもたらされたのではないかと思います。


総構について補足してください

小和田:まさに中国の都城を移したものでいろんな資料にも出ていますが、
秀吉が攻めてきた時でも、総構の中でいろいろな事ができるようになっており、
1年でも2年でも周りが封鎖されてもやっていけるような、
独立した空間が出来ていたのは総構のおかげなんですね。

もう一つ、明との貿易の関係で鉄砲伝来について最近異論が出ていて、
どうしても1543年の種子島に伝来したと言われましたが、
どうも記録を見ると小田原にはそれ以前に鉄砲があったようです。
これは小田原の唐人町と合わせて研究していかないといけないかなと思いますし、
小田原には狩野派の有名な絵の集団がいたり、小田原鉢つまり兜、
いろんな職業が育っていて小田原は先進的な地域だったと見ていいですね。


最後に大河ドラマになるにはどうしたらいいですか

火坂:大河ドラマになるには3つの条件があります。
一つは一番重要な地元の盛り上がりです。
天地人の場合新潟県と福島県、山形県と連携して10年間やりました。

二つは戦国時代をテーマにするとなりやすい。
三つ目は作家で1回なった人の場合はなりやすい。


小和田:原作がまず大事です。
もう一つはNHKのドラマ部の方と雑談した事ですが、
北条早雲には女気が無いとダメだねということです。
ヒロインがいないと女性視聴者がついてこないということですが、
架空の人物でも良いけど女性がいないとね。(館内大爆笑)

火坂:それについてはおまかせください。(館内大爆笑)


松平:ありがとうございました。
ヒロインについては北川殿とか武田に嫁いだ桂林院もいますし、
火坂さんお得意の架空の人物もいますし、(館内大爆笑)
たった一時間でしたが密度の濃い内容でした。
何よりもご参加いただいた皆さんありがとうございました。



以上で終了です。
北条五代大河ドラマ化実現へ我々一般市民ができる事は地元の盛り上がりです。
現在8市2町の北条五代観光推進協議会ですが、
関東に覇を唱えた北条氏です、市町村単位ではなく都道府県単位、
いや、関東全域ではないかと思います。

北条氏の優れた領国経営が今の日本に求められる。
その日が来るのもそう遠くない予感が私には感じられました。


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