御台場
おだいば



御台場
御台場というと思い浮かぶのは東京臨海副都心の御台場ですが、
これは幕末の異国船来航に対する海防における砲台を指します。
小田原の海岸には江戸・東京よりも早く嘉永5(1849)年 に3基の御台場が築かれました。

江川邸正門(伊豆の国市)
江川邸正門(伊豆の国市)
御台場築造の中心人物は韮山代官江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)です。
江川家は戦国時代より北条氏に仕え当主は代々太郎左衛門を名乗りました。
自らを胆庵(たんあん)と号した英龍は西洋事情や高島流砲術を学び西洋砲術塾『韮山塾』を開始、
海軍の創設や反射炉の建設、農兵の必要性など海防論を説きました。

韮山反射炉(伊豆の国市)
韮山反射炉(伊豆の国市)
※江川英龍は完成を見ずして安政2(1855)年に死去

弘化元(1844)年、幕府より相模伊豆の2カ国の海防の命を受けた、
小田原藩主大久保忠愨(ただなお)は韮山代官江川英龍へ台場の築造を依頼、
小田原藩から松国弥八郎、別府信次郎、深水程右衛門の3名の藩士が英龍の『韮山塾』に入門します。

24ポンドカノン砲(復元)
24ポンドカノン砲(復元)
嘉永2(1849)年3月に免許皆伝を受けた3人の小田原藩士は小田原藩の海防に尽力し、
翌年嘉永3(1850)年には海上より荒久、代官町、万町の3箇所を選定後、台場の築造を開始、
並行して同年には多数の大砲が造られ全32門のうち28門が藩鋳造、残り4門を江川家に発注、
嘉永5(1852)年11月には3基の小田原台場が竣工しました。

翌嘉永6(1853)年、江川英龍は老中阿部正弘の命を受け品川台場の着工に取り掛かります。
おそらく小田原台場の築造が難しい砂地の台場築造の成功例として評価されたのでしょう。

小田原藩は領内の警備地域、浦固(うらがため)として
代官町台場を軸とした三台場詰、小田原浦固、真鶴岬固急手、大磯照ヶ崎固急手、
土肥筋・東筋浦固、根府川関所固の計8箇所を選定しました。

文九図から御台場
1995 小田原市史 別編 城郭より加筆、着色

画像は江戸時代の絵図面、文久図(小田原城天守閣蔵)を元に作成した御台場です。
文久図には縦40間・横60間と書かれており、規模は約72x108mにも及びます。

安政6(1859)年と推定される砲台寸法書下書(小田原有信会文庫 小田原市立図書館蔵)には、
大塁の長さ66間余り(約119m)、堀の長さ79間(142m)、堡障堤の長さ127間(228m)、
堡障堤の内側に三角形の陵堡を大13、小12の計25を交互に配置したと書かれています。

当浦御台場并浜畑町間見取絵図(小田原市立図書館蔵)という、
安政6(1859)年4月26日に行なわれた小田原海岸での高島砲術の調練の模様を描いた絵図面では、
荒久台場と万町台場が7門、代官町台場が8門の備砲を備えていた様子が描かれています。
又、小田原の海岸には北条氏の築いた土と石による版築土塁が張り巡らされていました。

海岸の小田原城遺構
小田原市教育委員会 歩く・見るおだわらの城下町・宿場町 小田原市 一部加筆
(参考 山口貢 小田原市教育委員会 1982 現在図に複合された小田原城郭図 小田原市)


早川河口より西から荒久台場、代官町台場、万町台場と呼びます。
ここから先は現在の御台場と海岸に残る小田原城総構の土塁の痕跡を尋ねてみたいと思います。
早川河口付近から荒久台場、代官町台場、万町台場へと足を進めます。

荒久台場の付近
@ 荒久台場
画像は荒久台場の付近です。
はっきりしたことは言えませんが、海岸に向けて土地が高くなっています。

和多利稲荷社
画像は和多利稲荷という稲荷社近辺の風景です。
稲荷社の脇の巨松が古い時代から稲荷社の土台があったことを示します。
土塁の痕跡ではないかと推測します。

僅かに残る土塁跡
A 大蓮寺付近
大蓮寺というお寺さんの近くで見られる煉瓦積塀ですが、
土塁が屋敷内に埋没したのではないかと推測します。
このお屋敷は当初建築家横河民輔の別荘として構えられ、
自らが手がけた三越本店と同じ煉瓦が使われています。
手前の水路は小田原用水の分水です。

かつてこの近くの新川河口には港がありました。
又、天正12年と記された伝肇寺の古文書によると、
この近くにあった伝肇寺を北条4代氏政の弟、氏照の屋敷を、
要害のうちに取り込むために現在の地へ移したと書かれています。

道祖神
道路脇で見かけた道祖神です。
土塁想定ラインに沿う海岸の道は地元の方に訊ねると旧東海道であるという回答が多いです。
稲葉氏の入府後御成道の成立とともに東海道は現在の国道一号線の位置に移動しますが、
それより前の時代の東海道がどこであったかは不明です。

滄浪閣土塁
B 滄浪閣土塁
画像は伊藤博文の別邸滄浪閣の跡地です。
小田原城の土塁を屋敷の塀に利用したものと推測します。
伊藤博文はこの場所で民法を起草しました。

滄浪閣土塁断面
特別に地主さんから許可を頂き土塁の断面を測量させて頂きました。
海岸に向かって大きく崩れているように見受けられます。
もしかしたら小田原大海嘯の影響を受けているのかもしれません。

代官町台場の現在
C 代官町台場
こちらは中央に位置する台場、代官町台場の現在の風景です。
荒久台場と同じく海岸に向けて土地が高くなっています。

代官町台場
開発されてしまってますが地形的には雰囲気を残しています。

代官町台場
改変著しいためかつての姿を留めていませんが、
比高からかつての面影を感じられます。

無量寺土塁
D 無量寺土塁
無量寺というお寺さんの塀ですが、これも土塁の痕跡です。
ここから先しばらくは土塁の痕跡らしきものが見られません。

江戸時代に代官町から古新宿にかけての土塁を崩して、
人が住んだ地を雁木(がんぎ又はがんげ)といいます。
古い時代から土塁が消失してしまった地域のようです。

僅かに残る土塁
E 蹴上坂
画像は蹴上坂と呼ばれる坂道の脇に残る土塁です。
ほんの僅かですが、高さは2mほどあります。
蹴上坂は現在削平されましたが、かつては荷車を大人一人で登る事ができない急な坂道だったそうで、
丁度この坂を避けるように小田原城の総構はクランク状に折れ曲がる横矢折れを見せています。

万町台場の付近
F 万町台場
蹴上坂から海岸に向かうと見える万町台場の付近です。
海岸に向けて土地が高くなっています。

僅かに残る土塁
G 古新宿界隈
万町台場を越えて北条氏の時代の東の出入り口の山王口に向かいます。
この画像の民家の壁が石垣とコンクリートに別れています。
石垣側は土塁の痕跡のようで、1m程の微高地になります。
古新宿界隈ではこの画像のような土塁の痕跡が数箇所見られます。


H 八代龍神
画像は万町の龍宮様、八代龍神です。
この神社も土塁を利用して造られています。

この神社にある説明板によると、
天正18(1590)年の小田原合戦において加藤清正の家臣の船が大破し、
この地に船のご神体が引き上げられ神社の御神体としたようです。
後にその乗組員たちは原住の漁民と共に集落を造り現在に至るとあります。

山王口
I 山王口
画像は北条氏の時代の東海道東の出入り口、山王口です。
北条稲荷という北条氏ゆかりの稲荷社と、
蛙に良く似た形の石、蛙石があります。
現在は万年公園として地元住民から親しまれています。


J 袖ヶ浦地蔵尊
画像は袖ヶ浦地蔵尊です。この地蔵尊も小田原城の土塁を利用しており、
深い藪にあったことからヤンバラ地蔵と呼ばれました。
土塁の位置は、山王口から直角に海岸に向かう土塁で、
まさに山王口の先端部、虎口です。


紹介できなかったものも含めて海岸に残る遺構は以上となります。
開発の進んだ低地部においてもわずかな地形の変化や、
道路や水路などへの再利用が見られるなどその片鱗を窺うことができます。

蒲鉾通り
蒲鉾やかつお節、干物店など、
小田原の海岸には豊かな相模湾の恩恵を受けた生業(なりわい)が現在も営まれています。
名産品を求めながら海岸の遺構を訪ねてみましょう。


引用・参考文献

小笠原清、田代道彌ほか小田原市史編さん委員会 1995 小田原市史 別編 城郭 小田原市
小田原市教育委員会 歩く・見るおだわらの城下町・宿場町 小田原市
山口貢 小田原市教育委員会 1982 現在図に複合された小田原城郭図 小田原市
田代道彌 2010 西さがみの地名 小田原ライブラリー
品川歴史館 品川御台場-幕末期江戸湾防備の拠点- 2011 品川歴史館
品川区 品川歴史館
伊豆の国市 韮山町郷土史料館-江川邸
伊豆の国市 韮山反射炉
平井太郎 2011 小田原まちあるき指南帖4庭園めぐりの巻 小田原まちづくり応援団


総構へ戻る