( 標高 : 714m )   地図はこちら⇒
         


1 所 在 地 : 青森県東津軽郡三厩村


2 山名の由来 : ?

3 雪   形 : 黒い駒の雪形が出る
           地元では”ガラ”と呼ぶ

4 出現場所 : 増川岳北尾根の陵線直下

5 出現時期 : 3月下旬〜4月上旬

6 望見地域 : 今別町大川平周辺

7 農 事 暦 : 昔は、田仕事を始める目安にし
          ていた














  大川平から「増川岳」を望む(2002・3・31)
    写真 : 室谷 洋司 氏












 増川岳の駒の雪形(ガラ)  2002・3・31
     写真 : 室谷 洋司 氏

        

  駒の雪形(ガラ) 
  スケッチ : 室谷 洋司 氏 





       「増川岳」雪形ドキュメンタリー

      





            文・写真  室谷洋司



 今から20年前の昭和56(1981)年、「津軽雪形行脚」という拙文を田淵行男氏の大著「山の紋章 雪形」に寄稿した。内容は、およそ200年前の寛政・文化年代に、三河の人で紀行家として著名な菅江真澄が書き残した日記をもとに、八甲田山と岩木山の雪形を検証し津軽各地の古老を訪ね歩いたものである。

 岩木山は単独峰として日本一の雪形が棲む山。八甲田山は、津軽からも南部からもよく望めることからその土地土地の人たちの愛着がひとしおで、調べても調べても新知見がでてくる。季節は年に一度しか巡ってこない。春から初夏にかけてアッという間に通り過ぎてゆく雪形の季節。それなりの覚悟をしてかからないと大した成果が望めず、翌年に持ち越されてしまう。いわば遙か雲間にすばしこい生き物を探す思い、あるいは全山の残雪からひとつの答えを求めてパズルを解くようなものである。

 その後も毎年、気がかりになっていることは、青森県にも東北各地にもまだまだ実物の紹介されていない雪形がたくさん残されているのではないかということ。
 しかし考えてみると、その確認には相当年を要すると思われる。そろそろ意を決してかからなければ時間がない。
 「みちのく雪形行脚」を始めようという動機はここにある。引き続きお世話をいただくことになる棟方氏のご尽力も心を奮い立たせてくれる。


□ 内田邦彦氏の聞き取りに増川岳の「馬」

 
昭和4(1928)年に内田邦彦氏は「津軽口碑集」という今日の民俗研究に欠かせない文献を遺している。同氏は医師で津軽で医療に従事しながら患者や土地のひとたちから様々なことがらを聞き取った。これには青森の童話、伝説、俚諺などがびっしり詰め込まれ、雪形伝承の情報も盛り込まれている。

 増川岳については、「残雪の形によりて耕耘の期を定むる事は津輕にも亦有り。・・・・津輕平野の北方に増川岳有り。北麓には馬の田かき時となれば、残雪が又田かく馬の様に見ゆ。(大川平の人)」の記述がある。

 今年2002年はことのほか雪消えが早い。内田氏が今別町大川平の人から教わった「馬」の確認は急がなければならない。棟方氏に大川平から増川岳の全貌が見えるポイントをシュミレーションしてもらった。冒頭の画がそれである。筆者は自家用車をあやつる術をもたない。JR、バス、タクシーでまどろみながら移動し、あとは健脚に頼るのみの行脚である。
 この場合、お目当ての山について最良の眺望点を把握しておくことはきわめて重要なことである。



□ 東津軽郡今別町大川平を歩く

 
3月31日、青森発7時半、函館行きの「はつかり」に乗る。ここ数日、不順な日が続いていたが今日後半から晴れ間という予報である。
 
 蟹田で下車、タクシーに乗り継ぐ。フロントガラスにときどき水滴がつき、空模様は今ひとつさえない。今別との境は急坂がつづき海抜175mの小国峠を越える。積雪と凍結を防ぐため地下水を利用した消雪パイプが埋め込まれている。もはや道路の雪は消えてしまったというのに水は出しっぱなしで、車は水しぶきを上げて走る。

写真�A 左が浜名岳(603m)、その右側に増川岳の稜線とわかる山が上半分を隠して現れた。
   (2002年3月31日朝、今別町大川平)


 8時半、大川平の本通りとバイパスの分岐点で下車。シュミレートした撮影ポイントはまだ3キロほど先であるが、お目当ての増川岳がどのあたりから姿を現すのか確かめようと歩き始める。やがて晴れてくるのではないかいう期待もある。今別川に沿って帯状に田圃が続く。雪消え間もない風情で寒々としている。
 
 集落を過ぎていよいよ海が近づいてきたのか前方が開けてきた。左手西方に浜名岳(603m)が見え、その右側に明らかに増川岳とわかる山影が雲で上半分を隠して見えた。やっぱり駄目かと、時間稼ぎにほどよい前景が備わった撮影地点を探すことにした。
 沿線の田圃には土砂や砕石が山盛りになったり、土木工事用の重機の置き場になったりで、雪形とは一緒に撮りたくない人工物があまりにも多い。









写真�B あたりの田圃を見渡すとひっそりとしていて、ただ一人草刈りをする人が。
  (大川平)



 いくらか広々とした田圃を見つける。人影は草刈機であぜ道の枯草を刈る人ひとり。コンクリートで舗装した車道を歩んでも仕方がない。田圃に入って春のきざしを探すことにする。


写真�C 大川平の西方には尖岳などの峰々。高低差の大きい田圃の畦にフキノトウが満開。なかに交じってミズバショウ      が咲く。 (2002年3月31日、大川平)


 心なしか明るくなってきたようだ。
 増川岳と反対方向、平舘寄りの山々が見渡せた。田圃は今別川の河口近くの扇状地に造られたため、高いところと低いところとの間に土肩が築かれ、その斜面にびっしりとフキノトウが満開だ。
 近くには何とミズバショウが点々と咲いている。フキノトウとはなかなかお目にかかれない組み合わせだ。

写真�D ミズバショウ

写真�E フキノトウ


 10時。増川岳はなかなか姿を見せてくれない。海抜714mで手前の浜名岳とは100m少し高いだけだが、この山は当地方ではもっとも貫禄のあるシンボルなのだろう。超然として雲の中だ。今別川の土手をたどりながら河口に向けて歩く。
 雪解け水を集めた流れは堂々として勢いがある。川岸にはヤナギの仲間が多いのが普通だが、ここではニワトコが目立って多い。若葉の開くのが待ちきれないように紫色の蕾がふくらんでいる。近ごろ縄文びとはニワトコの果実で造った酒を好んで飲んだらしいという学説が多いが、ここ今別に住んでいた、はるか昔の祖先たちも、山の幸、川の幸、そして海の味覚を肴にしてニワトコ酒を飲み交わしていたのだろうか。
 河口が近づくにつれて海鳥が多くなってきた。それらの群れから離れて1羽のオオハクチョウがゆっくりと泳いでいた。土地の人の話では、この冬は15羽ほどやってきたという。1羽だけはぐれて取り残されたのだろうか。


写真�F 今別川は山々からの雪解け水を集め、堂々と流れる。土手にはニワトコが目立って多い。
      (2002年3月31日、大川平)



写真�G ニワトコの若葉と蕾。

写真�H 取り残された?オオハクチョウ


□ ついに増川岳!! 地元では「ガラ」と呼び、田仕事の目安

 岸壁で海鳥や鉛色の津軽海峡を見たり、乗車券も売ってくれない留守番一人だけの今別駅で休憩したりで天候の回復を待つ。お昼ころになって西方が大分明るくなった。


写真�I 昼前になって増川岳(714m)が全容を現す。北側の右3分の1の稜線近くに黒い「馬」が出現。
      (2002年3月31日、大川平)


 朝に決めておいた増川岳がよく見渡せる田圃に急ぐ。空はまだにごっていたが、とにかく山全体が見えてきた。
 増川岳は平たい台形をしていて、頂上部にはなだらかな五つの峰がある。左から数えて四つ目と五つ目の間、というよりも四つ目のすぐ右下に逆三角形の残雪部があり、その中にくっきりと左上を向いた「馬」が黒く見える。ネガ型の雪形である。
 内田氏が今から70年以上も前に大川平の人から教わった「馬」に間違いない。北麓に現れる形をなしたものはこれだけである。


写真�J 正面に逆三角形、あるいはワイングラス状の残雪が見える。黒く左上方を向いた「馬」が出現。
      (3月31日、大川平)


 あたりを見ると4、5人の農家のひとが田の畦をつくろっていた。お昼どきになって、食事で家に帰るのだろうか。農具を小屋にしまい、帰り支度をはじめた。このときとばかりに、「増川岳について教えてください」とやりとりが始まった。
 
 明田さん(53歳)というかたは、町の商工振興課に勤めながら祖先から受け継いだ1町4反分の田圃を作っている。町全体のことも、田仕事のことも詳しい。年寄りから聞いたこととして、あの残雪は「ガラ」と呼んでいて農業、漁業、釣り人、山菜採りなど、それぞれに仕事の段取りを教えてくれるという。
 昔は、田仕事の大事な目安になっていたが、今では山菜採りや川釣りにその時期を教えてくれるという。 「ガラ」は逆三角形をしていて、ワイングラスのようにも見える。ここは、けものさえも登れないくらい急峻な岩壁なのだという。春になるとへばりついていた残雪が上部から解けてきて徐々に黒い部分が広くなる。黒い部分がだんだん下がってくると、麓にはコブシが咲くのだという。田打ち桜とも呼ばれている。
 
 雪が完全になくなるのは5月中旬以降。解けた水は川をうるおし豊富な用水をもたらしてくれる。田起こし、田掻き、田植えと、「ガラ」の微妙な様子を見ながら田仕事に精を出すのである。
 ただ明田さんも、ほかの人も「馬」という呼び方は聞いたことはないという。馬といえば増川岳のなだらかな五つの峰のうち、左から一つ、二つ目を合わせて「馬の背」と呼ぶと教えてくれた。
 
 内田邦彦氏は「津軽口碑集」のなかで、雪形の見方について『(雪形は)されど人に教へられて始て、さう云へば然(さ)うも見ゆるといふ位に過ぎず。』 と書いている。
 昔、田仕事はすべて人手の重労働であった。やがて馬や牛の力を借りることになるが、この地方では馬が一般的であった。馬力がないとこの過酷な仕事は難しかった。

 「増川岳の馬」は、人々を助けてくれる愛馬への思いを込めて、この地方のシンボルとして呼ばれ、今では「ガラ」と呼び方を変えて季節の情報をもたらしている。



写真�K 今でも土地の人はこの白い部分を「ガラ」と呼ぶ。あまりにも急峻でケモノも上下できない。雪解けは上から始まり、徐々に下に向けて黒くなる。雪が消え失せると初夏だ。右は「馬」のイラスト



□ 幸先良いスタート

 わずか数十分間の「馬」の顔見世であった。増川岳はほどなくして隠れた。
 今別駅の1日4本のJRのうち、午後1時11分に乗る。蟹田駅で海峡線快速「どらえもん号」に乗り換える。窓外は寒々とした春雨に変わっていた。

 しかし2002年の雪形行脚は幸先よいスタートを切ることができた。増川岳には「ガラ」が今に伝えられ、「馬」はそのなかの一部に過ぎないことが分かった。この後の推移に興味が湧いてくる。さらに下北半島にも、白神山地にも古い言い伝えが残されていて、実際の写真映像がない未知の雪形ばかりである。ことしの雪形シーズンは、またまた楽しくなりそうだ。(文責・室谷 洋司)