若狭 駒ヶ岳
 ( 標高 : 870 m )
    N  35°24′42″
    E 135°51′11″
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1 所  在  地 : 福井県遠敷郡上中町
               /滋賀県高島郡朽木村の境
             小浜線上中駅の南6km

2 山名の由来 : (1)伝承による
              でも この伝承では 説得力
              に欠けるようだが
          
            (2)一名「寺山」とも云ったようだ
              (山頂直下標高500m位のとこ
              ろに比叡山延暦寺派の寺が
              あったからか)

            (3)会友・田口計介氏の調査に
              よると、この山も高句麗(こま)
              の影響があったと考えられる
              そうだ
               (今後の調査に待ちたい)

3 雪    形 : 出ない
            (上中町住民センター産業課・
                           植野氏)



     山名の伝承
 
 古文書・伝説によると、安曇川(あどがわ)の合
戦で敗れた残党が、明神谷の奥に馬で逃れてき
てそこに住み着いた。馬を下りたところからその
地を「下馬谷」といった。現在でも、その地名は残
っているという。
 この明神谷にはいくつかの集落があって、農具・
鍬平や牛馬の鞍骨を作り、生計を立てていた。
 桓武天皇が京都に都を移した際(794年)に鍬
平や鞍骨を献上したため、その恩賞として村の
開発を許された。それ以後、朱印をもらって鞍骨
を作り、全国に売り歩いてきた。
 ”こうした鞍作りから「駒ヶ岳」とという名がつけら
れた”という話が、鞍作りの職人たちの間で言い
伝えられてきたという。
 後に明神谷の集落は、山が荒れて茅になり、雪
崩で家がつぶされて死人が出たため、現在の河
内川本谷に移住した『白神楽谷公事之覚』1713
年)と記されている。


 若狭駒ヶ岳遠望(中央最奥部の山頂の丸い山)
  写真:松岡喜一氏 リフレステ「やまびこ」
      裏庭から


 若狭駒ヶ岳
  河内谷からの展望
   カシミール3Dで作成






 会友・田口計介氏 ( 現・駒ヶ岳ファンクラブ会長 ) に「若狭駒ヶ岳」の山名由来についての調査を依頼しておいたところ、その調査結果が届いたので、ここに全文を載せさせていただきました。 (2004・04・14)

若狭駒ヶ岳の名称の推測

 

「若狭駒ヶ岳」は、福井県(若狭)と滋賀県(近江)の県境山地に位置し、駒ヶ岳としては最も西に在る。

 若狭駒ヶ岳の標高780,1mは、駒ヶ岳18座中、新潟県の「朝日駒ヶ岳(776,0m)」についで下から2番目に低い、いわゆる低山である。

 各地の駒ヶ岳の名称の由来は大まかには推測されているが、若狭駒ヶ岳の場合はどうも曖昧模糊としている。そこで若狭駒ヶ岳の名称の由来を推測する。

 

1 雪形の発現

   50cm以上の積雪があり、雪形発現の条件はあるが文献、伝承面からも発現の報告はない。

   また県境山地中の低山であるため、例え雪形を発現しても観測する位置を中々見出だせない。

2 武将条件

   幾つかの駒ヶ岳には坂上田村麻呂、源義家などの馬に係わる武将伝説が残されているが、この地にはない。

   この種の伝承として残っているのは、桓武天皇の京都遷都の際に上中町明神谷の馬具製作(鞍作り)集団が鞍(くら)橋(ぼね)を献上し、朱印状を貰った。朱印状により馬具を全国に売り歩いた集団に因んでの「鞍作り」が駒ヶ岳に転化したとされた。

3 農耕関連

   いわゆる牛馬を祀る駒形神社の類は、この地方にはない。小浜市周辺にある黒駒神社は農耕よりも漁業、製塩業、海運業など海関係の色彩が強い。

   馬頭観音も牛馬の息災と豊作を祈願する重要な対象である。普通馬頭観音像は石仏であるが、なぜか福井、滋賀、京都地方は木像である。耕作地の大小の違いであろうか若狭駒ヶ岳の周辺では馬頭観音像は寺院内に安置されている。

4 渡来関連

   古事記、日本書紀によると、朝鮮半島の王子が二人来日している。

   一人は新羅の王子で天日(あめのひ)槍(ぼこ)であり播磨(兵庫県)の宍粟邑(しそうむら)から近江の阿名邑(あなむら)を経て若狭、但馬(兵庫県)に移っている。

   もう一人の加羅の王子とは都怒我阿羅斯(つぬがのあらひ)等(と)であり、出雲を経て角(つぬ)鹿(が)(敦賀)に上陸した。

   この二人に関する記述は、朝鮮半島より鉄と馬、須恵器をもたらした技術者集団を象徴しているのである。若狭駒ヶ岳のある上中町の末野が、須恵器の大生産地であったのは良く知られている。

   そもそも小浜市周辺が最初の若狭(元若狭)であり、若狭の語源は朝鮮語のワカソ(往き来)との説もある。この狭義の若狭の国造は膳(かしわで)氏であり、最初に来日した高句麗の使者との交渉役や、高句麗に侵攻された新羅の救援に膳(かしわで)臣(おみ)斑鳩(いかるが)が出かけている。膳氏は朝鮮との交流のスペシャリストであった。

   その他の駒の関連では、壬申の乱の折大海人皇子軍の出雲狛(いずものこま)が、琵琶湖西岸の三尾(みを)城(き)で近江朝廷軍を破っている。三尾城の正確な場所は不明であるが、若狭駒ヶ岳に近い所ではある。

 

   以上の事柄から大胆な推定をすると、若狭駒ヶ岳の名称は箱根駒ヶ岳と同様に高句麗又は百済、新羅の一括表現の高麗が駒に転化したのであろう。

   若狭街道の熊川宿の熊は朝鮮語のコムでありカム(神)からコム、コマ(高麗、駒)へと転化したと思われる。

    小浜市には、神谷(コウダニ)なる地名も残っている。若狭駒ヶ岳の地は、朝鮮半島との極めて繋がりの深い土地である。

     



  山行記録