< 相模の古東海道について考える >

 

2004/4

 

古東海道、従来説のひとつである。

 


 

 相模国府の所在については、従来から高座(海老名)、大住(平塚)、余綾(大磯)の3遷説があった。それに対して足柄下(小田原市永塚付近:府中、国府津の地名があり、千代廃寺を初期国分寺と考える)、大住、余綾の3遷説がいわれ、また大住、余綾の2遷説も近時強くなっている。

 初期の東海道は相模から上総へ東京湾を舟で渡り、後、陸路となったとされる。延喜式では坂本、小総、箕輪、浜田、町屋、小高、大井、豊嶋の各駅の名があげられている。

 

< 古東海道 >

 

 地図の上で従来説を眺めてみる。

 


     国土地理院200,000の1 地勢図「東京」「横須賀」

 

 海老名に国分寺跡があることから、国府もその付近にあったと想定する。矢倉沢往還に沿う。

 関本(坂本駅)と海老名市浜田(浜田駅)を結ぶ。関本を南西に延長する線上に矢倉沢峠がある。おそらく海老名から金時山を目標に道が作られたものと思われる。笠窪や秦野の地名、大道が線上にのる。

 


                        国土地理院200,000の1 地勢図「東京」「横須賀」

 

 一方、古い時代の東海道が東京湾を海路で結ぶことから導かれた説がこのラインである。

 伊勢原市笠窪(箕輪駅)と走水をつないだ地図がこちらである。初期高座郡衙(下寺尾西方A遺跡)と鎌倉郡衙(今小路西遺跡)がほぼ線上に重なる。走水からの目標は丹沢の塔ケ岳であろうか。初期高倉郡衙が機能するのは7c後半から8c前半の短い期間に限られ、おそらくこの頃に陸上ルートへの変更があり、高倉郡衙もそれに伴って移されたか(本郷遺跡?)。

 

< 中原街道 >

 

 「神奈川の古代道」では延喜式以前の道とされる。

 地図の上では、中原街道の直線部分を真直ぐに南西に伸ばすと大磯の余綾国府に至る。ルートは高麗山を目指して引かれたものと推測される。

 


国土地理院200,000の1 地勢図「東京」「横須賀」

 

 

 

 発掘された推定駅路について考えてみる。

 

< 発掘された推定駅路について >

 

 明治17年の迅速図に発掘された推定駅路を置いてみる。推定国府域の南と北とでは土地区画の基準線の様子が異なるが、推定駅路と道路区画の基準線は大きく矛盾しない。推定駅路の西方面への延長上には「北大縄村」や「寺田縄村」などの古代駅路、条里制をおもわせる地名が見える。

 推定国府域の南北での土地区画の様子の違いは地形によるものか、開発年代の違いによるものか。とりあえず参考までに地図上に国衙関連の遺跡を入れてみた(平塚博物館による)。

 


                            昭和礼文社刊 迅速図 「平塚驛」部分 明治17 年

 1.稲荷前A遺跡(国厨家=8c第2四半期。「大住厨」墨書土器出土) 2.天神前遺跡(国衙鍛冶遺跡=8c初頭のフイゴの羽口出土) 3.神明久保遺跡(国衙鍛冶遺跡) 4.山王A遺跡(佐波理匙出土) 5.厚木道遺跡(箕輪駅に関連?) 6.坪ノ内遺跡(国衙鍛冶遺跡) 7.構之内遺跡(古代道路跡など)  8.高林寺遺跡(古代瓦出土、国衙に関連?)

 

 構之内遺跡第1地点A地区の西側部分を東に延長すると推定国府域に至る。一方、東側部分は道路区画に見事に合致している。構之内遺跡について、地図上で発掘された細部を確認する。

 


                        第25回 神奈川県遺跡調査・研究発表より

 

 

 構之内遺跡第1地点A地区の西側部分を西に延長すると、東名高速道路を斜めに横切るかたちで、古代の道路跡が見つかっている。(下大槻峯遺跡)

 

< 下大槻峯遺跡 >

 

<規模>
 総延長160mで南にゆるく湾曲しながら東西方向に伸びている。検出された硬化面の最大幅は9mだが、単独で存在するのではなく少なくとも7回にわたって重複・シフトを繰り返している。各硬化面の幅は2〜3m程度である。舗装など普請や、波板状凹凸面は見られない。側溝は検出されない。道路跡を挟んで両側に竪穴住居や掘立柱建物からなる居住域が広がっている。

<年代>
  下大槻峯遺跡でヒトの活動痕跡は5世紀後半からであるが、その時期からこの道が存在していたかどうかは不明である。6世紀前半には前身的道路が存在していたと思われるが、確実な年代は7世紀後半から中、近世である。

<まとめ>
  報告書によれば、幅員は数mから12mを有し、若干湾曲するが直線基調で生活道路の範疇ではとらえられない規模である。しかし普請の跡や側溝を伴わない点からストレートに官道とは認められない。また駅路の可能性としては坂本駅に続く小総駅が相模湾沿いに想定されることから、駅路のルートから外れ、また足柄上郡衙と高倉郡衙を結ぶ伝路としても2km北方の善波峠のルートが有力である。(「下大槻峯遺跡III」かながわ考古学財団調査報告53)

 

 

 

 

< 推測 >

 

 平塚博物館の説明では「古東海道は浜田駅から相模川の左岸を南下し、相模国府を経て、豊田本郷の南をかすめ、広川付近で南下して大磯・国府本郷から国府津へ抜ける」とのことだが、あえて一度北上する理由が見つからない。それより走水と足柄峠をつなぐラインの方が私にとって自然である。金目川の縁に沿い、東海大学の丘陵を越えて、下大槻峯遺跡から、震生湖の北を通って栃窪、篠窪を経て足柄平野に下る道を想像する。駅路か伝路かはともかく、7世紀後半、激動の時代、東の兵士や大量の物資が都に運ばれる道があり、その道に沿って、国衙や郡衙が置かれたとは考えられないだろうか。                               


                         国土地理院200,000の1 地勢図「横須賀」 部分

 

 

 

< 延喜式、更級日記のルート >

 

 延喜式の頃の推定駅路、また更級日記のルートを加えてみる。

 黄色の線が延喜式(10c初頭)の推定駅路。坂本、小総、箕輪、浜田の各駅間はだいたい16kmの間隔になっている。

 緑色が更級日記(11c初頭)のルートでほぼ近世の東海道のルートに重なる。渡河に容易な内陸部から、起伏の少ない海岸線へ時代を経るに従って変わっていったと思われる。

 更級日記が書かれた頃になると駅路の性格も変わって、国司の帰任の旅なのに食料や宿舎の手配を受けているような記述は見当たらない。一方、足柄の宿には遊女がいて、旅が特殊なものではなくなってきていることが伺える。

 

 

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