< おまけ >

2002/9
2020/12 部分修正

 以下は私の推理。根拠があるわけではない。

 

 決定的な遺跡や遺物が得られないうちは、推理に頼るほかない。かといって専門家は推測には慎重。大胆な仮説は素人の特権。

 

< 東海道は海の道  >

 

 東海道は「あづまへのうみつみち」。尾張国が東山道に属していた当時、伊勢から三河へは三河湾を御津への海路だった。それにならえば武蔵国が東山道に属していた時期、国府津から上総へ直接渡るのもあながち無理でもあるまい。

 

< 足柄国府説  >

 「千代廃寺・初期国分寺説に伴って初期足柄国府説がいわれた時期もあったが、近年では千代寺院跡も永塚・下曽我遺跡に推定される足下郡家に付帯する寺院だとされ、足柄国府説も支持されなくなっている。」というのが最近の見解だそうだ。

 しかし平塚・構之内で見つかった道路遺跡の道幅は約9m。道幅12m時代の初期相模国府が別の場所にあったと考えるのが妥当ではないか。国府が都に近い位置に置かれる傾向にある点を踏まえると、素人考えながら初期足柄国府説が捨てきれない。

 

< 国府津  >

地図
                     昭和礼文社刊迅速図「小田原」(部分)

 「地名の国府津はこの地に相模国府の港があったことに由来する。」とある。では港の場所はどこか。森戸川(現在は酒匂堰と呼ばれている)の下流域、東西にたわむ約1kmの範囲に港湾施設があったのではないか。迅速図には「運川」と書かれている。おそらくは「運河」のことであろう。「各地で道幅12mの大道が建設されている時代、足柄平野においては全長10kmに及ぶ運河の掘削が行われていた。

 それでは海路から見て国庁はどこか。国府津の港から運河を遡上して現在の萬石橋の北東、「大日本国誌」(明治10年)に「下堀城址」と書かれた下堀方形居館跡が国庁だったのではあるまいか。東西南北に方位を揃えた約100mの矩形はまさに各地の国庁の規模に合致する。

 


                         酒匂堰(森戸川)河口付近



< 古代駅路の直線性について = 車の使用? >

 

 中村太一氏は前期駅路の規模、直進性について「国家の威信宣伝」だと考える。

 しかし、私は車の使用による実用的な意味合いを指摘したい。前期駅路が軍事的性格をもって作られたとすれば、大量の武器や食料の輸送について「車」の使用が不可欠であろう。古代の車については「車道」などの地名などから、存在は指摘されているが、寡聞にしてか実際の車の規模や構造についての研究はあまり目にすることがない。


                     足柄上郡山北町岸にて

 

 当時の車が祭りの山車のような構造をしていたとすれば、機能上直線的にしか走れない。方向転換は梶棒で強引に前輪を横滑りさせるか、「割いた青竹」の上などで「梃子棒」を使うしかない。そのため、前方で車を引く大勢の人間の他、常に両側には方向転換用の梃子棒を持った人が付かなくてはならない。そして、なおかつ2台の車がすれ違う余裕を考えれば、直線で12mの幅員は必然ということにならないか。

 この考えはあながち見当外れとも思えない。それは古代の直線道路が好んで丘陵部を通っていることとの関連性である。山車のような車輪を備えた古代の車にとっては、”ぬかるみ”や”砂地”は極力避けたかったであろうから。

 

 

 大陸との緊張が消え、大量の食料や武器の輸送の必要性がなくなり、調物の輸送くらいに限られるようになれば、馬の背や車軸がひとつの荷車でも十分。幅は近世の街道程度、曲がっていることも差し障りにはならない。障害物を避け、起伏の少なく通りやすいルートに切り替わって行くのも自然の道理であろう。

< 相模国府について >

 

 相模国府については、幾つかの説がある。海老名の国分寺、尼寺の存在からの海老名国府説、あるいは秦野御門説。国府域を伊勢原、比々多神社一帯に想定し、箕輪駅を伊勢原市笠窪、三ノ輪付近とする伊勢原説などである。

 しかし平塚・四之宮、稲荷前A遺跡で国厨と書かれた土器が出土した。以来、大住国府を平塚・四之宮とする平塚説がいわれ、大住国府から大磯国府の2遷説、あるいは足柄、大住、大磯の3遷説が有力視されている。

秦野御門説 中村兵吉氏 和名類聚抄にある大住郡余戸郷をその地とする。
伊勢原比々多説 石野瑛氏他 延喜式にみる「相模国、箕輪驛」を伊勢原市笠窪、三ノ輪とする。
平塚市四之宮説   墨書土器「国厨」が見つかる。
足柄国府説 木下良氏 小田原市永塚国府説。千代廃寺を国分寺と考える。弘仁頃までの国府。その後平塚・四之宮、平安後期に大磯へ移転。


< 相模国府関連の記録 >


     7c末       千代廃寺創建・下曽我遺跡成立
     733年       宮久保木簡
     737年       封戸租公易帳
     741年       国分寺創立詔
     8c中〜      国分寺(海老名)建立
     771年       武蔵国東海道編入
     8c後半〜末    平塚「国厨」墨書土器
     9c末〜10c前半   この頃、国府は大住郡にある「和名類聚抄」
     819年       相模国分寺炎上「類聚国史」
     873年       漢河寺を国分尼寺とする(881年旧にもどす)
     878年       東国大地震、相模国府罹災 「日本三代実録」
     鎌倉初期      この頃、国府は余綾郡にあり「伊呂波字類抄」