< 能登 400km >

2007/8
1日目
 金沢から旧北陸道・倶利伽羅峠、富来 約100km
2日目
 富来から輪島、珠洲、禄剛崎、能登町 約160km
3日目
 能登町から穴水、能登島、氷見、高岡 約130km

 

去年の夏は近江八幡を起点に鯖街道を小浜、そして舞鶴、天橋立へ。翌日は丹後半島を一周した。
今年は能登。海の景色や出会った人たちの人情が心に残る3日間だった。

 


< 1日目 >

--- 金沢から旧北陸道・倶利伽羅峠、富来へ 約100km ---

 


                     

 金沢を起点に能登半島を一回りすると約360km。1日120kmで3日。しかし、金沢までの往復を計算に入れなくてはならない。帰省中の名古屋を朝発って、金沢着が12時半。日暮れまでに輪島へ着くには少し無理がある。金沢、門前なら約100km。距離的にはちょうど良いし、総持寺祖院の宿坊に泊まっての座禅体験にも興味がある。

 しかし、宿坊に電話を入れると「4時半までには入室してほしい。」とのこと。4時半までに着く自信はない。結局、初日の宿泊場所を富来のサイクリングターミナルに決める。金沢、富来間が約70km。時間的に余裕があるので、途中、旧北陸道の倶利伽羅峠に立ち寄ることにする。


 

 < サイクリングクラブ > 

 
 米原で輪行袋を抱えたランドナー乗りの方と一緒になる。「岐阜県から来ました。」「湖西線回りで大阪から来るグループと合流して、今日は一乗谷朝倉氏遺跡など走る予定です。」「こんな暑い時期は開田高原など標高のあるところがいいですね。」「グループで走ることが多いので、ついつい交通量の少ない道を選ぶことになりますね。」「大勢で国道などを走ると邪魔者扱いされることも多いですから。」

 近江塩津で輪行袋を手に手に10人程のグループが乗車してきた。彼らは今日の見学箇所のコピーを互いに配ったり、本を手にして事前調べの続きをしたり、実に楽しそうな様子。「これが我々のクラブの会報です。」わざわざ、私にも会報を見せてくれる。例会の走行記録や季節の記事など、よくまとめられている。編集好きな方がいるのが分かる。

 彼らは鯖江で下車する。ホームに目をやり、輪行袋を転がしたり、担いだり、実に楽しそうにしゃべりながら改札に向かっていくのを見送った。

 


 

< 金沢 >

 


                               石川門


           
尾山神社  


             浅野川に掛かる木造の橋  

 

 金沢には二三度来たことがあるので、今回はお城を回るだけに留めて、旧北国街道・倶利伽羅峠へ向かうことにする。

 


 

< 倶利伽羅峠 >

 

 倶利伽羅峠は加賀と越中をつなぐ古代からの山越えの道である。歴史街道に指定されている。木曽義仲、源平の合戦の地としても有名であり、また芭蕉も「奥の細道」でここを越えて加賀に入っている。芭蕉がここを通ったのは新暦の8月下旬。


                      不動寺付近で能登方面をのぞむ

  途中吟  あかあかと日はつれなくも秋の風   芭蕉

 

 お盆を過ぎて少しは涼しくなるかと期待したが、期待は裏切られた。倶利伽羅不動寺への上りは炎天下、遮るものもない。わずかな木陰を探して、休憩しながら上る。高低差は200m程だが、暑さの中での坂は結構手強かった。

 越中は大友家持が国守となって5年過ごした地である。峠に家持と大友池主の歌碑が建っていた。

 

< 砺波山手向の神の歌 >


 天平19年(749)大友家持が上京にあたっての感懐を歌に託して大友池主に贈った。池主はその別離に答えた。(万葉集 巻十七)

「多麻保許乃 美知能可未多知 麻比波勢牟 安賀於毛布伎美乎 奈都可之美勢余(玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ)」

「宇良故非之 和賀勢能伎美波 奈泥之故我 波奈尓毛我母奈 安佐奈佳奈見牟(うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む)」

 

 

 倶利伽羅峠には予想外に時間が掛かってしまった。富来に向かって急がないといけない。少し日が傾いてきて、暑さの盛りは過ぎたが熱気は残っている。千里浜の渚ハイウエイなど時間的な余裕がないので今回はパス。生憎の向かい風、姿勢を低くしてひたすら先を急ぐ。

 


 

< 志賀原発 >

 

 右側が森林地帯、左が崖になった海沿いの真直ぐな一本道。突然森がとぎれて大きな工場が姿を見せた。どこか現実離れしている。煙突からの煙もないし、物音もない。人がいる気配すらない。志賀原発だった。臨界事故の隠蔽が明らかになって以来、現在も休止しているようだ。

 写真を撮っていると、車が走って来て止まった。ガードマンが降りて来て、「何をしてますか。」と声を掛けられる。柏崎の事件もあってか、警備が厳重になっている。

 


                            志賀原発

 


 

< 気多大社 >

 

 気多大社の一の鳥居は海岸にあった。海から一直線に参道が続いている。突き当たりに気多大社の杜が見える。翌日の珠洲の須須神社も同じようなロケーションだった。黒潮は九州で南北に分かれ、北は丹後半島から能登へ。南は四国を経て、南紀から、伊豆、房総に至るといい、沿岸沿いの各地に海人族の文化が残るという。

 


                     海岸にある気多大社、一の鳥居

 

 

< 海の道 >

 


                   日本海の夕焼け

 宮本常一は「海人ものがたり」で、海人族の渡来について2つのルートをあげている。一つは揚子江の周辺にいた人々が中国の沿岸に沿って北上し、済州島や朝鮮半島の南部を経て九州方面へ至ったルート。竹などを組んだ筏型の船で沿岸に沿って移動し、漁労は勿論、稲作や鵜飼などをもたらした。もう一つはさらに南の太平洋の島々からのルート。アウトリガーをつけたような、くり舟による島伝いのルート。

 彼らは安曇系とか宗像系などと呼ばれ、北九州から日本海方面へ。あるいは瀬戸内。南紀、伊勢湾、伊豆、房総方面へ定住地を広げていったといわれている。厳島神社や熱田神宮、籠神社や気多大社などは海人系の神社とされ、いわゆる”海道”沿いにおかれている。

 また、古代の能登は造船技術にすぐれ、日本海交易の基地として、特に福浦は渤海使の港として栄えた。気多大社ではその航海の安全祈願を行ったという。

 

 金沢では軽い昼食をとったり、お城の周囲など回ったせいで、市内を出るのが2時になってしまった。また暑さのせいで、倶利伽羅峠では予想外に時間が掛かってしまった。おまけに生憎の向かい風である。明るい時間に富来に着きたかったが、能登金剛の辺りで日が落ちてしまった。

 

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