< 相模川の渡し場跡 >

2002/4

 


           昭和礼文社刊 迅速図「下糟谷村」部分

 

 

 明治15年測量による迅速図の相模川には数多くの渡し場が見られる。渡し場は近隣の村々が舟を持って管理し、明治の末頃までは残っていた。 渡船場は馬入の渡しのように公儀役として馬入村の川名主、年寄が毎日詰め常時16人の船頭がいたものから、田村の渡しのように渡船場株の所有者が経営するもの、四ノ宮の渡しのように農業用のものまで規模、形態もさまざまであった。 氾濫によって川の流れが変わるたびに渡し場の位置も変わり、現在、渡し場跡の施設は残っていない。しかし堤に立って川の流れを見ていると当時の渡し場と街道のようすが想像される。

 


 

< 田村の渡し >

 


昭和礼文社刊 迅速図「平塚」部分

 

< 大山道・田村通り >

 


神川橋より田村の渡し跡のあたり

 大山道・田村通りは大山参詣道のひとつ。東海道四ツ谷付近から分かれ、一宮を経て、田村の渡しから大山に至る、江の島方面からの道。

 

  


 


            一之宮不動堂前

 神川橋の堤防脇に一之宮不動堂があり、道標に右大山道、左江戸道と書かれている。 

           


 

< 戸田の渡し >

 


戸田の渡し場跡付近  

 

 

 相模風土記稿に源頼朝の妻政子が大山の不動尊や日向薬師に安産の祈願をしたという記述があることから、この戸田の渡しは鎌倉時代にはすでに武家の大山詣りや米の運び道として利用されていたと推測される。
 この渡しは用田、長後方面から下津古久、落合を通り大山へ通ずる大山参詣柏尾道の要衝であり、戸田村と門沢橋村の両村が船二艘で経営した。渡し場は川の氾濫の度に位置が変わったが、明治の末まで盛んに利用された。(平塚市案内板による)

 

 


 



        戸田交差点西の道しるべ

< 柏尾通り大山道  >

 柏尾通り大山道は現在の戸塚、下柏尾で東海道から分かれ、長後、用田を経て戸沢橋付近で戸田の渡しを渡る。


 

< 馬入の渡し >

 


昭和礼文社刊 迅速図「平塚」部分

 明治15年測図の迅速図、相模川河口域の風景。河川の改修前の様子がよく分かる。川筋が入り組んで柳島、中島など島のようになっている。

 

< 馬入の渡し跡 >

 

 


 東海道馬入橋の北に「馬入の渡し跡」の碑が建つ。広重の浮世絵は木の下で休む旅人や荷物を積んだ馬などを描いて、当時の街道や渡し場の様子を表している。

 

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