小田原城天守
おだわらじょうてんしゅ


小田原城天守
一般に多くの方々のお城のイメージはこの建物、天守ではないかと思います。
天守閣とも言われますが正式には天守が正しいです。
ですのでこの建物ことを単純にお城と呼んではいけません。
小田原城天守と呼びましょう。

3部構成の天守です
※マウスカーソルを画像に当ててみてください。
小田原城天守は1階建の小天守、続櫓、3重4階の大天守の3部構成からなります。
大天守は見た目3重ですが、1重目は2階に別れており、4階建の天守となります。
これは大きな天守を嫌がる幕府に対する配慮です。
このように他のお城でも天守を小さく見せる工夫が施されている例が見られます。

小田原城天守は5重天守並みの規模の天守です
天守のみの高さは27.2m天守台石垣高さは11.5m、総高38.7m、
本丸広場の海抜は29.7m、合わせて海抜約70mです。
ちなみに5重天守の設計図と雛形の模型もありました。
これは江戸時代の震災後の修復の為に書かれたものらしいですが、
幕府への配慮からか結局5重天守は小田原城に造られることはありませんでした。

天守の意匠です
※マウスカーソルを画像に当ててみてください。
天守の意匠には宮大工の寺社建築の技術が取り入れられていると言われます。
1重の屋根には出窓の上に切妻破風と千鳥破風が施されています。
出窓は3箇所に施されていますが、石落しはいずれも再現されていません。
2重目の屋根には比翼千鳥破風と軒唐破風が、
入母屋造の屋根には入母屋破風と軒唐破風、鯱が施されています。

天守台石垣です
こちらは天守台北側の崩れた石垣です。
天守台石垣からは基礎工事の際に古い時代の石垣が出土し、
この石垣の埋蔵保存の為の工事変更などから工期が2ヶ月以上も遅れました。
北條の天守台発見と騒がれましたが、江戸時代初期のものと推測されています。

天守説明板
画像は小田原城天守の説明板です。
小田原城天守は60〜70年周期で訪れる震災の度、再建、修復を繰り返してきました。
北條の時代、天正9(1581)年から天守が存在したという説もありますが、
寛永10(1633)年の震災まで存在した初代、
寛永10年より再建された2代目、明治3(1870)年に取り壊された3代目と、
3代に渡って存在したのではないかと言われます。

徳川将軍家の紋章、葵の御紋です
画像は天守の軒丸瓦です。
徳川将軍家の紋章、葵の御紋ですね。
寛永11(1634)年三代将軍徳川家光が天守からの眺めを楽しんだとの記録があるように、
江戸時代の小田原城は徳川将軍家の上洛の際の宿所、御成城であり、
天守も含めて本丸は藩主ではなく将軍家の敷地として使われました。

現在の小田原城天守は復興天守です。
現在の小田原城天守は昭和35(1960)年に市制20周年の記念事業として造られました。
宝永3(1706)年に造られた天守をモデルに東京工業大学藤岡道夫工学博士が設計、
本来無かった高覧付廻縁が追加された為復興天守と呼ばれます。

天守展望台から石垣山一夜城を望む
天守は資料館になっており最上階は売店と展望台になります。
最上階の展望台は足を止めて眺めを楽しまれる方も多く人気があります。
では、展望台からの眺めを楽しみながら、天守の起源や種類、目的などを説明します。
まずは石垣山一夜城を望みます。

真鶴・伊豆半島
真鶴・伊豆半島です。

天守は織田信長が建てた天主が起源という説が有力と言われています。
天守でなく天主と書くのは織田信長が築城した安土城と岐阜城を他のお城と区別する為です。
天守は元々大型の櫓に高級建築の書院造を応用したもので、
大型の入母屋造りに望楼を載せた天守を望楼型天守と呼びます。
織田信長や豊臣秀吉が天下を手中に収めた安土桃山時代のお城に多く造られました。

伊豆大島
伊豆大島方面です。

関ヶ原の合戦後、江戸幕府が誕生すると、
旧勢力の豊臣家に対抗する為に全国規模で築城が盛んになります。
この時代に築城技術が急速に進み入母屋造りを持たない層塔型天守が登場します。
建築工事の容易さや防御性の高さから全国のお城に広まりました。

三浦半島
三浦半島です。

一般に黒い下見板張をもつ熊本城や松本城などを黒いお城、
白漆喰の塗籠を持つ姫路城や会津若松城を白いお城などと言われますが、
現在の小田原城天守はこの層塔型天守の白いお城の部類に入りますね。

丹沢
丹沢方面です。

消失せずに当時の姿のままで現存する天守を現存天守
史実に基づいて本来の工法で再現した天守を復元天守
工法は無視して外観のみ復元した天守を外観復元天守
天守の規模や建っている位置などが史実通りでも外観の違う天守を復興天守
全く史実を無視した形で造られた天守を模擬天守
以上のように天守は工法、史実に基づくものであるかでないかなどによっても分類されます。
又、実際にお城が無かったのにお城を名乗る天守のような建物は天守風建物と呼ばれます。

小田原城八幡山古郭
画像は小田原城八幡山古郭、戦国時代の詰めの城です。
手前は八幡山東曲輪史跡公園になります。

天守を上げる(建てるという意味)目的は領主の権威を見せつけることと、
物見櫓の発展系としての軍事的要素があると言われます。
江戸時代、天下泰平の世になるとその目的も薄れ、
最終的な防御施設としての倉庫の色合いが濃く、落雷により焼失する天守もありました。
平和な時代では『尾張名古屋は城でもつ』この言葉が生まれた名古屋城のように、
領主の権威だけでなく、領民の誇りとして親しまれた建物になりました。

耐震改修工事を検討しています
現在小田原城天守は築50年を超え建物そのものの老朽化が進んでいます。
鉄筋コンクリート製の建造物の耐用年数は50〜60年と言われています。
平成元(1989)年に行われた耐震診断の結果では補強が必要と出ています。
以上の事から平成27年度を目標として耐震改修工事を検討しています。
又、展示品のリニューアル及び空調整備、バリアフリー化も検討しています。

工期も費用もかかります
既に耐震改修工事を済ませている大阪城は70億円、富山城では10億円、
工事も含めて閉鎖期間に2〜3年もかかっています。
又、将来の木造での復元天守の可能性も検討しています。
木造再建には古写真などの資料不足や資金、消防法の絡み等から厳しい状況です。

小田原城天守は愛着の持てる天守です
小田原城天守は小田原の街の象徴、ランドマークタワーです。
歴史と文化を誇る街小田原の象徴として相応しいのは木造天守ではないでしょうか。
木造天守再建に向けて市民にも動きが見られます。

夢の木造天守再建へ!!
夢の木造天守再建に向けて応援しましょう!!


アクセス:小田原駅より徒歩10分。
※近隣に有料の駐車場もありますが公共交通機関のご利用をお勧めします。

入場料:大人500円、小中学生200円
団体は30名以上で2割引の大人400円、小中学生160円

開館時間:9:00〜17:00 (入場は16:30まで)
※6月〜8月の土日祝日のみ9:00〜18:00 (入場は17:30まで)

休館日:12月第2水曜日、12月31日〜1月1日

お問合せ:城址公園まで 0465-23-1373



引用・参考文献

小笠原清ほか小田原市編さん委員会 1995 小田原市史 別編 城郭 小田原市
小笠原清ほか 1995 歴史群像名城シリーズ8 小田原城 学習研究社
小田原城天守閣 2000 特別展 復興 小田原城天守閣 図録
三浦正幸 2005 城のつくり方図典 小学館
小田原城天守説明板


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