江戸時代の浜降祭  2003.12.21

 浜降祭のことが書かれた江戸時代の資料ととしては、安永9年(1780)のもので、旧暦6月15日に寒川神社の社人が浜にお供えをするとある。おそらく浜降祭はこの神事を元に後に発展していったものと思われるが、6月15日という祭礼日は江戸時代を通じて変わることはなかったようだ。この史料は「当社年中祭附神領石高帳」(寒川神社所蔵)で寒川神社の祭礼日とその担当者が記されている。
 ここでは浜降祭とは明記されていないが、後年(明治4年)の史料では6月15日が浜降祭の祭日であるので、浜降祭と考えていいと思う。
それによると、6月14日は弥三郎、作右衛門が浜降祭の担当者であったため、神前に御神酒を供え、同15日には浜での祭場に弥三郎が、お供え物と御神酒を出している様子が記されている。ところで江戸時代寒川神社には多くの社人がおり、社領100石のうちからそれぞれ若干の石高の配分にあずかり、年間数多く行われる祭礼を分担して奉仕していたもので、原弥三郎も金子作右衛門もその一人である。
 
 この年に浜でどのような儀式が行われていたのか、寒川神社の神輿が浜まで出掛けていたのか、また近隣の村から神輿が出されていたのか、いずれもわからない。しかし、禊場への神幸には輿が不可欠であること、菅谷神社に現存する寒川神社から譲渡された天保神輿は江戸中期の作と伝わっているし、国府祭に神輿が出御していた事実等を考え合わせると、浜降祭へも当然、神輿を出していたものと思われる。明治期になって初めて神輿が渡御するようになったとは考えにくいし、江戸時代から続いていたものと考えるのが自然であろう。又、明治初期に参加している神社から推定すれば、近郷の一之宮、岡田、門沢橋、獺郷、宮原、等、寒川神社と関係の深い神社は供奉していた可能性もあるのではなかろうか。
 浜降祭がどのような目的で行われていたのか、江戸時代の史料では知ることができないが、後年の史料、たとえば、赤痢流行のため浜降祭中止を要求した神奈川県庁に対する反論として、明治32年(1899)7月8日、寒川神社宮司丹羽与三郎が神奈川県内務部長李家隆介に提出した「具申書」によると・・・「ことに一名「禊の神事」と称し、悪病流行の祭はことさら盛典を行ひ、旧拾四か村氏子共神輿に供奉し、浜辺において、よろずの災おうを解除する古例にこれあり」・・・と、昔から寒川神社の神輿を浜に出し、浜で「みそぎ」の神事を行ってと、除病がその目的でもあることを強調している。しかし、浜降祭の目的が除病のみであったのかといえば、たとえば「浜降祭祝詞」には、漁民の航海安全と豊漁を祈願している文面も含まれていることから、目的そのものも時代の要請によって変わっていったとも思われる。
 もう一つ江戸時代の浜降祭に関連する史料として天保11年(1840)4月に南湖の鈴木孫七が京都の白川家に提出した「寒川神社浜降祭御旅所願い書」がある。
 ・・・「相模国高座郡茅ヶ崎村小名南湖浜字石尊山にこれある当国一之宮寒川神社浜下り御旅所進退まかりあり候に付、神拝浄目式御伝達下し置かれ有り難き仕合せに存じ候、しかる上は子孫永久繋目仕り神勤相続仕るべく候」・・・とあり、寒川神社の「浜下り」の神事がこの頃も続けられていたことがわかる。
この後も浜降祭の世話役となる鈴木孫七が、この時に寒川神社御旅所の神主になっていることもわかる。そして彼は同年11月に白川家に入門している。その折り差し出した文書に次ぎのごとき文言がある。
 ・・・「一之宮寒川神社御旅所神主家年来衰廃にて繋目仕らずまかり過ごし候所、右村初五郎義由緒これあり候に付、右神主家相続仕り候、これにより今般御殿御官門に召し加えられ」・・・とあり、この頃には御旅所の神主家が廃絶してしていたものを初五郎(鈴木孫七)が神主になり復興しようとしている様子がうかがえる。この史料によって江戸時代に浜降祭が行われていたこと、御旅所が南湖の浜にあったことがあきらかである。
NEXT