明治時代初めの浜降祭   2003.12.24

 明治5年までの旧暦の時代に行われていた浜降祭がどれほどの規模であったかを知る手がかりになる史料として、明治4年から7年までの4年間の寒川神社の経費を書き上げた「辛未、壬申、酉、甲戌、寒川神社経費」が寒川神社に現存している。これは浜降祭という語句の初出史料で明治初年の浜降祭の神輿渡幸の規模が知られる。

 明治4年6月15日の浜降祭の神輿渡幸に伴う人員は国府祭のごとしとあるところから、神主一人にその乗馬一匹、そして馬の口取りである口付一人をふくむ従者六人がともなう。これに神官数名と荷持一名が加わり10名程度の構成であったと思われる。
 経費は御供米一斗の代金 四十五銭四厘五毛、神酒代金 二十二銭七厘二毛、荷持一人の代金 二十五銭で以上の総経費は三円三十銭六厘七毛である。この経費を浜降祭と同様に神輿が渡幸する国府祭のそれと比較してみると、神輿渡幸に伴う人員は同じであるにもかかわらず、国府祭の総経費は八円三十九銭七厘九毛で、浜降祭は国府祭の半分以下の経費である。
 国府祭の行宮造営料50銭を除いてもまだ半分以下である。浜降祭は国府祭に比較して御供米で四分の一、神酒代でその半分、飲食及び蝋燭その他雑費でその半分である。旧暦時代の浜降祭は、神輿渡幸に伴う人員では国府祭と同様の規模を有し、その経費では神輿渡御の距離が短いこともあり半分の支出であったことがわかる。
  
 旧暦から新暦に移ったのは明治6年のことである。旧暦(陰暦)明治5年12月3日を新暦(陽暦)明治6年1月1日と改めた。これにともなって浜降祭も旧暦の6月15日から新暦の6月30日へと移り、大祓の神事と同じ日になったのである。この後、農繁期等を勘案して、祭日は明治9年(1876)以降7月15日となり、平成8年(1996)まで延々と続いてきた。そして平成9年に海の日に変更となり現在に至っている。
 
 浜降祭が儀式も含めて、はっきりした規則が決められて運営されるようになったのは、儀式は明治13年、規則は明治21年頃からのことと思われる。それでは儀式の進行の様子を明治13年の「寒川神社日記」でみてみよう。この年の日記からは浜降祭についてかなり詳細に記載されている。参加神社の氏子総代が打ち合わせに来たり、郡役所への届け出、各村々戸長への連絡等、準備の様子から浜降祭次第、浜での神輿席順と祭典配置図、祭典次第、還幸時の様子、還幸祭の配置図と式典次第まで詳細に記録されていて興味深い。
 
 明治13年7月12日に、寒川神社は高座郡長稲垣道生と藤沢警察署国分分署に対して次のような届けを出している。・・・「本月15日、例年之通り当社浜降祭執行候条、この段お届けに及び候なり」・・・とある。
 7月14日には、浜降祭前祭を午後6時から執行している。参加した神官は宮司京極高富をはじめ伊集院直・平尾政寛・相沢忠得・金子清房の5名。ほかに雇井出文治・楽人須藤直吉・金子伝右衛門であった。なお神前への供え物である神饌は、和稲・神酒・海魚二尾・海藻二品・野薬二品・塩水等であった。

 7月15日は天候は曇りで、午前3時50分に寒川神社から御輿が出発した。行列は次のようなものであった。
・・・国旗  御旗(寒川神社の旗) 主典 金子清房  御榊  主典 平尾政寛  御辛櫃  御神馬  御鉾  禰宜 伊集院直  伶人(楽人)  御翳(きぬがさおおい) 
御輿  宮司 京極高富  常雇 井出文治・・・・・。
 神官は4名、常雇は1名であるが、このほかそれぞれの荷物を運ぶ人数が少なく見積もっても14、5名は必要であり、この他にも神官が乗る馬の口取が4名加わり、合計20名前後であったと思われる。明治4年に比べると約2倍の人数である。午前5時過ぎには南湖の浜へ到着している。
 
 この年の浜降祭に参加したのは、寒川神社をはじめとして、浜之郷鶴嶺八幡神社・芹沢腰掛神社・岡田日枝神社・遠藤御嶽神社・下寺尾八坂神社の6社の神輿であった。神事が行われたあと、下記のような次第で寒川神社へ還幸している。午後1時15分から着行祭典を行っているが、この時寒川神社まで供奉した神輿は芹沢・岡田・遠藤・下寺尾の4社であった。午後2時に祭典は全て終了している。
    午前第七時三十分南湖鳥居戸ニテ例年の通り御休輿
      浜之郷神社は従是本社へ (鶴嶺八幡神社は寒川神社までの供奉はしない・・・)
      帰輿当社迄供奉無之
    神官一同南湖松屋清右衛門方ニテ休息(茶屋町の御旅所、現在は茶屋町郵便局となっている)
    午前第八時四十分一ノ宮にて例年の通り御休輿
    神官一同一ノ宮村四郎兵衛方ニテ休息
    午前第十時本社へ還幸
    午後一時十五分着行祭典敷殿左ノ通り (着行祭典の式場レイアウト図)

 以上のように浜降祭はまず6月14日に浜降祭前祭を寒川神社で行い、6月15日早朝御輿に随行して神官達をはじめ20名程が行列を組み、南湖の浜の祭場で浜降祭を行い、帰途二回休憩しながら、寒川神社の御輿に近村(注)の御輿が随行し、帰社の後、寒川神社で神事を行い、その後解散するというのが、この祭りの形式であったことがわかる。このような方式はその後も続けられている。
 (注)この年以降、年によって違いはあるが、岡田、芹沢、等の近村神社はもちろん、円蔵、柳島、中島、菱沼などが寒川神社まで随行してきている。解散した後、担いでそれぞれの神社に還幸したのであろうか?そうだとしたら、すごい肩をしていたんだなあ昔の人たちは・・・・・。
 
(疑問)
 明治13年の出輿時刻が疑問である。浜降祭日記には次ぎのようになっているが、1時間10分では走り通しても到着は無理のような気がする。      午前第三時五十分出輿  午前第五時過南湖浜着
 この頃の他の年の浜降祭の進行を整理すると下表のようになり、これらと比較しても出発時刻は誤記ではないかと思われる。また、この年7月10日の日記に「回達」として次のように記されていることから、出輿時刻は午前2時20分が正しいのではないかと思われる。
  回達
  来ル十五日寒川神社例年之通浜降祭執行候条ニ付、本年之
  儀ハ御発輿時間ヲ早メ当朝午前第二時揃、 同第二時二拾分
  宮立相定候条、例ノ通諸端宜御担当御依頼及候也
                  宮山村 戸長 皆川三郎右衛門印

  
浜降祭進行表
明治7年(1874) 明治9年(1876) 明治10年(1877) 明治11年(1878) 明治13年(1880)
寒川神社宮出
南湖浜到着
寒川神社宮入
午前  5:00
午前  10:00
午後  1:00
午前  3:00
午前  6:00
午後  1:00
午前  2:00
午前  7:00
午後  1:00
不 記
午前  4:00
正 午
午前  3:50
午前  5:00
午後  1:15
この頃は出発時間や浜への到着時刻が年によってまちまちでハッキリとは決まっていない。
寒川神社への還幸時刻はほぼ一定で正午から1時である。

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