明治から昭和にかけての浜降祭   2003.12.28

 寒川神社日記に複数の御輿が記載された最初のものは、明治6年7月11日で次のような記事がみえる。日記ということを考えると、その日の出来事の記録であろうし、この時期は浜降祭の開催月日が定まっていなかったので浜降祭とも思える。しかし寒川町史では取り上げていない。△△の意味が不明だが、この年9月に高座郡の村々を寒川神社の神輿が渡御(5泊6日の浜降祭参照)するときの供奉神輿とも考えられるが、2ヶ月も前の7月の日記に記録するのは早すぎる感じがする。
   △△神輿赤羽根、一之宮、岡田、大曲、獺郷、出輿相成候
   奉幣藤沢、茅(ヶ)崎、遠藤、行谷、芹沢等之小区一般
 
 はっきり浜降祭と判る記録は明治7年の日記で、 6月30日 晴天 以下、午前3時からの神事、門沢橋・獺郷の神輿の寒川神社への到着、行列の様子、一之宮より八幡神社、浜之郷から摂社八幡神社がそれぞれ行列に加わり南湖浦へ着輿、式の様子、還幸渡御の様子、還幸祭の神輿着座位置、等が順を追って簡潔に記録されている。これは寒川神社以外で浜降祭に参加して南湖浜に着輿した神社名が記録された最初の資料である。
 
 明治期の浜降祭に関する史料は、明治13年以降44年にいたるまで「浜降祭書留・浜降祭綴(浜降祭日記)」として一括され寒川神社に保存されている。大正元年から昭和24年までは「浜降祭書類」、「浜降祭書綴」等々、表題は異なるがこれらの内容はほぼ同じで毎年の浜降祭に関する書類の綴りであり、これらは神官の手によって記されている。・・・・・明治7年〜14年は「社務日誌(寒川神社日記)」を参考にした。
 内容は役所や警察への届出、各神社からの参加願いや浜降祭の諸準備、当日の渡御・祭礼の様子や式次第、南湖浜までの神輿行列の順番、南湖浜での列席の順番、寒川神社へ帰社後の席順、参加の村々への連絡と問い合わせ、経費の収支決算書など、多岐にわたるものである。
 一般的にいえば単なる「日記」ではなく、「御用留」「公用日記」的な性格をもっていることがわかる。以上のことからこの「日記」の重要性を考えれば、寒川神社においては、最も大切な祭りの一つが浜降祭であったことがわかる。ちなみに国府祭は、明治6年4月に神輿渡幸廃止を教部省に届出て認可され、六所神社他関係者の再三の呼びかけにもかかわらず、大正13年に復興するまで長い間中断している。


参加した神輿
明治時代
 表1は明治期の浜降祭に参加した村々の南湖浜での神輿の席順を示したものであるが、席順がはっきりわかるのは明治13年からである。その後ほぼその席順を踏襲している。参加神社の数は、明治7年には5社であったが、明治14年には10社に増加している。それ以降、明治26年まで一、二の例外はあるが、毎年10〜12社程度の神輿が参加している様子がわかる。
 しかし明治27年以降は2〜3社程度の参加しかみられず、5社をこえる年は5ヵ年にすぎない。日清・日露の両戦役、凶作、水害、流行病等がその大きな理由と思われるが、もう一つは浜之郷村が江戸時代以来寒川神社と同様の浜降祭を行っていたことを主張し、寒川神社の傘下から離れ独自に挙行しはじめたことにもよる。この間の事情は別項「鶴嶺八幡社の浜降祭」@鶴峯(嶺)ノ神輿ハ後レテ来リを参照・・・このことが明治27年以降、浜之郷及びその傘下の地区の神輿が不参加であることの理由とも思われる。ただ、戦争や不景気の関係もあり、鶴嶺八幡社がどの程度の規模で独自に執行していたか、また継続していたのか、その辺の詳しい史料は見当たらない。
 
  浜降祭祭場での席順の第1位は寒川神社が全期間つとめている。明治26年まででみてみると、この段階まではほぼ席順が決まっていたようである。第2位は浜之郷で、第3位は芹沢である。第4位は岡田と大曲が隔年で出輿している。第5位は円蔵と遠藤が多い。第6位は宮原と柳島が多い。第7位以下はかなり入れ代わりが激しいが、前年不参加だった村が次の年には後へさがったりしている様子がわかる。そして浜降祭の神輿が10社以上になった年は明治14〜17年、20〜23年、25〜26年の時期であったことがわかる。明治27年からは前述のように激減する。それゆえ席順も参加の希望を伝えた順になっている。
  
 表2は村ごと神社ごとの出輿回数を表示したものである。不思議に感じられるのは、鈴木孫七の地元南湖地区の神輿が出輿していないことである。明治10年に南湖浦、八坂神社がみえるが、それ以降は明治44年に南湖上町の参加が初であり、いわゆる上町、中町、下町がそろて参加するのは大正4年からである。
明治期は神輿がなかったのかな?。  
表1 浜降祭神輿 浜での村別列席順
青文字の神社を除き寒川神社まで供奉して来て、還幸祭の後に各神社へ帰社している。(明治10年は不明)
施行年 第1位 第2位 第3位 第4位 第5位 第6位 第7位 第8位 第9位 第10位 第11位 第12位 神輿数 摘 要
明治7

10
11
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
宮山


































浜之郷



浜之郷





浜之郷




芹沢
浜之郷

岡田
大曲
岡田
大曲
遠藤


中止
供奉無
下寺尾
渡御は
供奉無

岡田
南湖
社数?
岡田
門沢橋
芹沢


芹沢










大曲
芹沢


遠藤


甘沼
大曲
下寺尾



一之宮


下寺尾
浜之郷

浜之郷
茅ヶ崎
獺 郷
宮原
茅ヶ崎

岡田
大曲
岡田
大曲
岡田
大曲
岡田
大曲
岡田
大曲
岡田
円蔵
岡田
下大曲

甘沼


一之宮



下寺尾

まで、



柳島

円蔵
十間坂
一之宮

南湖浦

遠藤




円蔵





宮原
円蔵



一之宮

下寺尾
一之宮


岡田が
岡田が
水害の
岡田が


中島

柳島
南湖上




下寺尾

宮原


柳島


宮原


柳島
宮原




下寺尾

が出迎


一之宮
同上
ために
一之宮


円蔵

中島





円蔵




宮原

柳島


遠藤
柳島









へ迎え

中止
へ迎え


茅ヶ崎

茅ヶ崎





柳島
用田

下寺尾

中島
下寺尾


遠藤
門沢橋
遠藤















茅ヶ崎

十間坂





中島
柳島
下寺尾
中島

下寺尾
遠藤


中島
茅ヶ崎
門沢橋















茅ヶ崎

下寺尾





(中島)
中島
柳島



中島


門沢橋

茅ヶ崎

























中島
菱沼



門沢橋

茅ヶ崎

中島































茅ヶ崎


甘沼























10
10
11
11


10
11
12
11

12
11

















席順不明
席順不明
席順不明
社名不記

( 中島)は
同村末社










席順不明






席順不明
渡幸中止
供奉なし

大玉串
供奉なし
社数不記

席順不明
社数不記
席順不明
 明治43年と44年の岡田(菅谷神社)及び明治36年と43年の下寺尾は参考資料に記載はないが、浜降祭日記につぎのような記事があり、出輿していたと判断し追記した。
 明治36年7月15日
 一 午前一時一鼓、同ニ時二鼓、同三時三鼓ニテ、御輩出御、途中一之宮ニ於テ
下寺尾八坂社神輿出御、
   浜祭場へ供奉ヲナシ、午前五時ニ十分ニ浜祭場へ御着輿、
 明治43年7月15日
 一 
菅谷神社神輿ハ一之宮ニ奉迎ノ上、供奉シ下寺尾八阪神社神輿ハ五時半頃、海岸式場ニ着セリ、因テ
   末席ニ着座ス
 一 八時十分御発輿、停車場大踏切ヲ経テ鳥居戸橋ニ御駐輿(二十分間)、茅ヶ崎八阪神社、十間坂八阪
   神社神輿奉送リ、更ニ
菅谷神社・下寺尾八坂神社ヲ従ヘ還幸、九時半一之宮へ着、
 一  午後三時還幸祭執行ノ上、両神輿帰社セリ
 明治44年7月15日
 一 午前0時第一鼓、一時半第二鼓、三時第三鼓以テ御出御・・・省略・・・四時半鶴峯八幡宮前ニ着ス、供奉
   神輿茅ヶ崎八阪神社・十間坂八阪神社・南湖上町八雲神社ノ三社、列座奉迎セリ、暫時御着座小憩ノ上
   出発、海岸式場ニ向フ(是より先
菅谷神社神輿ハ一之宮小学校前ニ出迎アリ)
 一 八時三十分、御発輿鳥井戸橋ニ御駐輿(二十分間)、此処迄両八阪神社及八雲神社ノ三神輿奉送、是ヨリ
   
菅谷神社神輿ヲ従ヘ還幸、
 明治41年7月15日
 参考資料には七社参加(計8社)とのみ記入され、神社名が記載されていないが、新聞記事からひろって記入した。
 茅ヶ崎が3社参加しているが、八王子神社・厳島神社・十間坂十六天神社である。

 明治43年の参加神輿
 
浜之郷、円蔵、柳島、中島が参加したかどうか?はなはだ微妙である。別項「鶴嶺八幡社の浜降祭」@鶴峯(嶺)ノ神輿ハ後レテ来リを参照・・・鶴嶺八幡社の前での奉迎式典には着輿しているが・・・その後の行動が微妙である。浜降祭日記(上記の明治43年参照)でみると、茅ヶ崎及び十間坂の両八坂神社神輿は鳥井戸橋に駐輿するまで「奉送り」しているが、前述の3社は来ていないようだ。

(注)八阪(坂)神社等の誤字が散見されるが、そのままにした。


表2 浜降祭神輿 神社別出輿回数
(明治7年〜44年) 
27〜28年;日清戦争 37〜38年;日露戦争 34・35年;不景気のため中止35年は急遽実施
村 名 現市町名 神 社 名 7 9 10 11 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 22 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 合計
宮 山
遠 藤
芹 沢
円 蔵
柳 島
中 島
中 島
浜之郷
下寺尾
宮 原
岡 田


大 曲
門沢橋
甘 沼
一之宮
茅ヶ崎
用 田
菱 沼
獺 郷
菱 沼
茅ヶ崎
南湖浦
十間坂
南湖上
寒 川 町
藤 沢 市
茅ヶ崎市






藤 沢 市
寒 川 町



海老名市
茅ヶ崎市
寒 川 町
茅ヶ崎市
藤 沢 市
茅ヶ崎市
藤 沢 市
茅ヶ崎市



寒川神社
御岳神社
腰掛神社
大 神 宮
八幡神社
日枝神社
八坂神社
八幡神社
八坂神社
寒川神社
日枝神社
八坂神社
菅谷神社
十二神社
渋谷神社
八幡大神
之宮神社
八坂神社
寒川神社
王子神社
聖 大 神
王子神社
厳島神社
八坂神社
八坂神社
八雲神社












































−−−−−
















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































30
18
16
14
14
12

17
14
11
5
6
2
10
6
5
7
7
2
1
1
1
1
2
3
1
出  輿  数
5 4 5 6 10 10 11 11 6 9 10 11 12 11 9 12 11 2 4 5 6 6 4 3
1 2
1 ? 3 9 ? 9 5
表2,3とも社名は初めて出輿した時の記録によった。したがって通称と合致しない場合もある。
寒川町の岡田村と大曲村は明治13年以降隔年で出輿している。
凡 例
迎;一之宮まで出迎え寒川神社まで供奉(浜降祭は出輿せず)

大正から昭和時代
 大正期以降に関してはすべての年で参加した神社、神輿の様子がわかるわけではない。連続してわかる数年間をとりあげて表示したものが表3である。なお、大正二・三年の両年は明治天皇が亡くなったことによる諒闇中ため神輿渡幸は中止になっている。
 出輿数をみてみると、大正期は10〜13、昭和戦前期は14〜15、昭和戦争期は19〜20と一定していて、浜降祭に参加する神社の数が確実に増加していることである。明治27年以降不参加であった寒川以外の村々であったNO,4・5・6の神社が大正・昭和を通じて戦後まで参加している。NO,15の神明社とNO,18以降の神社が大正期以降昭和20年までに新たに浜降祭に参加した神社で、その数は13社におよんでいる。昭和16年に初参加の宇都母知神社をのぞいて、その他の12社はすべて茅ヶ崎市内からの参加で、大正期以降は茅ヶ崎市内からの参加が著しいことがわかる。
  大正期以降、特別扱いされている神社が2社ある。寒川町(岡田)の菅谷神社と茅ヶ崎市(浜之郷)の鶴嶺八幡社である。菅谷神社は明治42年に日枝神社他4社が合祀されてできた神社で、明治43年以来(岡田としては明治10年代から)毎年浜降祭に参加している。この菅谷神社の神輿は天保年間に相模川に流出した寒川神社のもので、天保15年に岡田に譲られた由緒をもつ神輿である。昭和53年に神輿を新調したので輿庫に眠っていたが、平成10年に見事に修復され、現在でも浜降祭に出御している貴重な歴史をもつ神輿である。
  このような事情から浜降祭では特別な地位を与えられ、大正元年には南湖浜への神輿渡幸の順次も、浜での席順でも寒川神社に次いで第二位の座を確保しており、これ以降の年も常に寒川神社に次いで東隣の席次に位置している。 南湖浜での席順は抽籤によって決定されるのであるが、寒川神社はもちろんのこと、大正8年の記録では菅谷神社も抽籤外と記されている。鶴嶺八幡社もまた浜降祭で特別な地位を与えられた神社である。(別項「鶴嶺八幡社の浜降祭」浜降祭でのあつかい参照)
 明治期と大正期以降では浜降祭に参加した神社の地域が異なっている。明治期では藤沢市の御岳神社(遠藤)、寒川神社(宮原)、海老名市の渋谷神社(門沢橋)、後に茅ヶ崎市となるが芹沢の腰掛神社、下寺尾の八坂神社などの寒川神社に近い(神縁が深い)神社が参加していたのに対して、大正期以降になると茅ヶ崎市内からの神社の参加が増加している
。昭和19年には参加全20社のうち17社が茅ヶ崎市内からの参加であった。その後も茅ヶ崎の発展と共に参加神輿の数も増加し、現在の浜降祭は湘南地方に本格的な夏の訪れをつげる祭典として、南湖の浜は毎年十数万人の人々でうめつくされ、熱気に包まれて現在に至っている。
表4に大正〜昭和の浜降祭参加神社数を記載した。) 

表3 浜降祭神輿 神社別出輿回数
(大正元年〜昭和21年)
村 名 現市町名 神社名 大正 4 5 6 7 8 9 昭和4 5 6 7 8 15 16 17 18 19 20 21 イ  別 当 寺
1
2
3
4
5
6
-
7
8
9
10
-
-
11
12
13
14
15

16
17
18

19
20
21

22
23
24
25
26
27
宮  山
遠  藤
芹  沢
円  蔵
柳  島
中  島

浜 之 郷
下 寺 尾
宮  原
岡  田


大  曲
門 沢 橋
甘 沼
一 之 宮
十 間 坂

用  田
菱  沼
南湖上町

南湖中町
南湖下町
本  村

赤 羽 根
新  町

西 久 保
萩  園
打  戻
寒 川 町
藤 沢 市
茅ヶ崎市






藤 沢 市
寒 川 町



海老名市
茅ヶ崎市
寒 川 町
茅ヶ崎市

藤 沢 市
茅ヶ崎市
茅ヶ崎市










寒川神社
御岳神社
腰掛神社
大 神 宮
八幡神社
日枝神社
八坂神社
八幡神社
八坂神社
寒川神社
日枝神社
八坂神社
菅谷神社
十二神社
渋谷神社
八幡大神
之宮神社
八坂神社
神 明 社
寒川神社
王子神社
八雲大神
金比羅社
八雲大神
八雲大神
八 坂 社
八王子神社
神明大神
厳島神社
八坂神社
日吉神社
三島神社
母知神社




























































−−































































−−



































































−−



























































































−−


































































































































































































































































































寒川神社
御 岳 社
腰掛明神社
神 明 社

山 王 社

鶴嶺八幡社

寒 川 社
山 王 社


十二天社
稲 荷 社
八 幡 社
若宮八幡宮
第六天社

寒 川 社
八王子権現



住吉神社


神 明 宮



三島神社
母知神社
142
160
100
65
75
50

38
53
67
60


42
96
29
109
486

89
54






87

74
49
115
67
薬王寺
大験寺
宝沢寺
輪光寺

連光寺

常光院

観蔵寺
等覚寺


宝憧院
正覚寺
成就院
妙光寺
金剛院


長福寺






満蔵寺



満蔵寺
金剛院
古義真言宗
当山修験
当山修験
古義真言宗

古義真言宗

古義真言宗

古義真言宗
古義真言宗


古義真言宗
古義真言宗
古義真言宗
日蓮宗
古義真言宗


古義真言宗






古義真言宗



古義真言宗
当山修験





馬入村







岡田村
出  輿  数 10 12 12 12 12 12 13 14 14 15 15 15 19 20 20 20 20 1 19
凡 例
イ;新編相模国風土記稿にみえる神社名
ロ;新編相模国風土記稿にみえる戸数

表4 大正〜昭和の浜降祭参加神社数(市観光課調べ及び新聞記事等による)
年 度 大 正 昭 和
1 4 5 6 7 8 9 10 12 14 15 2 3 4 5 6 7 8 15 16 17 18 19 20
神社数 10 12 12 12 12 12 13 11 13 13 10 11 13 14 14 15 15 15 19 20 20 20 20 1
神社数=大人神輿   神輿数は子供神輿を含む
年 度 昭 和
21 23 28 31 32 34 35 36 37 39 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54
神社数 19 19 20 23 23 23 20 23 20 12 14 10 19 15 16 6 17 18 20 20 24 26 29 32
神輿数 30 25 19 22 23 27 32

年 度 昭 和 平 成
55 56 57 58 59 60 61 62 63 1 2 3 4 5 6 7 8 11 13 14 15 16 17 18
神社数 31 32 32 31 31 32 33 33 33 33 31 32 33 33 32 33 33 33 33 33
神輿数 38 36 40 36 38 41 38 37
昭和45年;交通事情等により神輿渡御禁止、西浜駐車場からの渡御となる。
昭和51年;寒川神社と菅谷神社が寒川からの長い道のりを担いで渡御することが復活。
昭和54年;各地で神輿を新調または修復し現在と同規模の参加神社を数え浜降祭が盛大になる
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