明治時代の新聞記事 2004.01.28

 
  いずれも「横浜貿易新報」の記事を浜降祭日記に引用して掲載している。当時の浜降祭の様子が分り興味深いものがある。特に明治41年は新聞記者が寒川神社へ取材し詳細にわたって長文の記事を書いている。
 明治41年7月14日の浜降祭日記に「午後十一時、横浜貿易新報社記者飯嶋千代太出頭、浜降祭ノ件ニ付種々尋問ス」・・・・・とみえている。

 明治41年7月16日
 南湖の浜 浜降祭の賑ひ

 暁風襟ニ滴り、銀波汀渚に砕くるこゝ湘南茅ヶ崎海岸南湖の浜ニて、15日午前、日の出と共に有名なる高座郡寒川村国幣中社寒川神社の浜降祭行はる、例ニ依りて沿道の各神輿之に随ふもの七社(8社?)、遠近の群衆は海浜一帯を填めて頗る賑ひたり、左にその盛況を記す

△浜降祭の由来
 別に記録史蹟に徴すべきものなきも、初め祭神は相模川沿岸、当時の河口たりし南湖の浜ニ降り給へる時、土民に漁りの法、又は農耕の術を授け給へるのみならず、常ニ土民を愛撫し給ひけるより、祭神の没後、其の報恩ニ報い、且は神夢によりて、漁猟を祝福せんとしたる古代の遺風に濫觴すと云ふ、一説にハ往古相模川洪水のため、氾濫せし際、神輿も此厄ニ罹りて流れ下りたるを、南湖の漁民が拾い上げたるに始まると云へど、附会の説にして信じずべからず、猶此浜降祭の外、五穀豊穣を祈念する田打舞なる式典あり、例年1月5日ニ行はれ神顔に似通う面を作りて、田打より取入れに至るまでの舞楽をなせる由なるは、今ハ祭典なしと

▽三里四方の大祭
 此浜降祭は14・15の両日、茅ヶ崎・松林・鶴ヶ峯・寒川等四ヵ村数十大字一帯の祭典として、其の区域実に
三里四方にも及び、南湖の浜より寒川神社までの約二里、浜降祭の為寒川神社の神輿神殿を発する也、前記数十部落に鎮座する各神輿是れに従ひ、海岸へ練りものにて是が準備、其の他の為前夜の如きは殆ど徹夜に騒ぎ廻り、老若男女一睡もなさず、沿道二里間ハ至る処提灯の光囃しの声絶えず頗る賑かなリ、是等沿道の神輿は何れも寒川神社の境内まで神輿を送迎したるものなりしが、今より十余年前、或る事情により、各郷社ハ鶴ヵ峯村字浜の郷なる鶴峯八幡宮の下に、殆ど同日同時なるも寒川と分離して浜降祭を行ふに至りしと云ふ

▽神輿出御
 15日午前一時、太鼓を合図に輿丁、その他の司役、神前に集合し、同二時の太鼓にて神官準備を終わり、三時の太鼓を合図に勇ましく神殿を発す、最先きには(行列の説明・中略)其の次は菊花の紋所の下に国幣中社寒川神社と紫地に白く染抜きたる錦旗を添えたる神輿なり、此前後に騎馬巡査二名・宮司・主典・禰宜等、衣冠束帯して馬上なり

△沿道の壮観
 明け易き夏の夜に、空は薄墨を刷きたらんが如く、月の光をつつみて、物象朧ろなる森の下、田の中、さてハ、長程幾曲折行列ハ次第ニ乱れて
ヤッショ ヤッショの輿担ぐ声勇ましく、道々の家々ニてハ何れも出でゝ拝し、若者などハ己れ輿担きに加はらんとて馳せ加はるゝもの多く、遠くより望めば連綿として白き行列をなす

▽神輿ニ火を投ず
 寒川神社より約半里にて一ノ宮村あり、村の端れに梶原屋敷(源太景季)と云ふがあり、盛んに麦藁を焚きゐて、神輿其の前を通りぬけんとする也、突然燃え上がりつゝある件の麦藁を取りて、神輿目がけて投げ付け、火の粉闇に散りて一団となりて駈行く、輿担の上に散りかかる此投火は、当時市内(横浜)西戸部ニ住居ゐる川崎貞なる家ニて、祖先来行ひ来りたるものにて、何の故なるかを知らざるも、川崎氏は是が為め、毎歳西戸部より一ノ宮の旧家へ帰り投火をなすと云ふ

   明治42年7月15日の浜降祭日記に
   午後四時、一ノ宮旧家
(神輿渡御途中麦藁ヲ燃キテ投ズルの家法アリ)川崎貞氏、古例ニヨリ出所、社務所
   ニ出頭セリ、依テ同人ニ大箱札ニ神饌ヲ添ヘテ授与セリ・・・・・とみえている。
(現在でも川崎家かどうかは知らないが、一之宮で麦藁を燃やして送ってくれる。昭和8年建立された梶原屋敷跡地近くの「浜降祭の碑」には還幸時に投げかけたと書いてある。日東タイヤの辺りに11軒の農家が二畝わりの畑をそれぞれもっており、その畑で麦藁を作る習わしになていた。その清浄な地で栽培された汚れのない麦からに火をつけて神輿に投げかけたという)

▽南湖の浜
 砂丘起伏して走り、銀砂汀に添いて広き場所あり、茅ヶ崎停車場より約三十丁許り汀には、南湖の漁舟七、八十艘、御霊を仰がんとてか残らず引上げられ列を正して並ぶ、其の中程に枝葉をつけたる竹にて鳥居を設けあり、神輿ハ始め船と汀との間を進み、件の鳥居をくゞりて祭場ニつく、祭場ハ丘の真下なり、唯幔幕を一寸めぐらしたるのみ、祭場の少し上より左へ飴菓子・アイスクリームなど商ふもの櫛比す、かくて朝五時頃神輿浜ニ着すれバ、○○たる神楽と共に○田宮司祈りをなし、約三十分にて終り、神輿是にて還る

▽南湖の賑ひと各神輿
  漁業と尤(最)も関係深き南湖ハ、戸数八百余ありて、尤も殷賑を極め、同村の俗ニ茶屋町と称する通りなどハ、
終夜尚往来の出来ざる程に、村の鎮守八坂神社の神輿尤も賑へるのみならず、少年連が二組まで国旗などを押立て、空輿を担ぎまはりゐたるは雄々しかりき、此他当日神輿を出せるハ寒川神社の外、南湖の八坂神社・鶴ヶ峯村八幡神社・同村柳島八幡・同中島日枝神社・同円蔵大神宮・茅ヶ崎村八王子神社・同厳島神社・同十間坂十六天神社の八社にて、昨年ハ十三社(注)を数えたりと(注;浜降祭日記では40年は寒川・岡田・下寺尾の3社となっている?)

▽後祭りの壮観
 寒川神社の神輿還れバ、此後に浜降祭の後祭りとも云ふべし、前記の八社ハ入りかはりて、陸続として浜原に入り来る、
一神輿三十人より六、七十人の若者是を担ぎ、各社思ひ思ひの揃にて、白の襦袢ニ赤き鉢巻き藍ニ白黄など交り交りに扮装ち懸声勇ましく、卍巴と入乱れ行違ひて駈廻る様、壮観得も云はれず、此有様を見んとて集まれる人々が丘の上御輿の側ニ群集し、黒白紅紫目も文に打雑りたるなど○も芥子(ケシ)畑を見るが如し

▽細雨至る
 晴れやらぬ雲低く垂れて、水との差別霧に朧ろとなる也、細雨面を打つて至る、サア雨だと帰途に就きしもの多し、されど雨は僅かにして○れ、午前九時頃目出度く浜降祭を終れり、聞くところニよれバ、此祭典にハ
毎年雨降るを例とす

▽神輿隠れ砂飛ぶ
 前記の如く勇しく駈け廻れる中端なく
神輿と神輿の衝突ハ起れり、エーヤーの声にて一歩も退かじと轅と轅を搦み込むで押合ふ、神輿何れも傾きかかる、此時バラバラと砂を飛ばすものあり、さてハさてハ投げかはす砂礫にて目口を開くべからず、○て神輿全く形を没する○と見る間ニ、警戒の巡査、群衆を押分けて中央に突立ちあがり、両手を振って是を制す、神輿又事なく別れて、幸に怪我人もなかりしといふ


 明治42年7月12日
 寒川神社の浜降祭
 県下高座郡寒川村同社にては例に依り来る十五日午前三時茅ヶ崎町南湖海岸に神輿渡御、同所に於て古式浜降祭を執行する由、同祭は地方に珍しき盛大なる祭礼にして、当日神輿の供奉者は前れも
白丁を着せる数百の若者と丸一の紋付を着せる大行事、神事掛と衣冠正しき騎馬の神職等なりと (丸一の紋付は今も同じ)


  大正生まれの今年90歳になる父に浜降祭について色々と聞いているが、
  浜降祭日記等の記事と合致する。
  Q:昔の衣装はどんなものを着ていたの
  A:寒川神社を担ぐ者は白丁が支給された。
    下はふんどし(締込み)だった。→父の子供の頃
  Q:ほかの神社は
  A:晒しの襦袢に下は金隠し(半股引)。
    でもほとんどの者はサルマタ(パンツ)だった。
  Q:かなり喧嘩なんかもあったみたいだね!
  A:(父の生まれた)南湖の住吉神社は出場停止をくったことがあった。
  Q:よその神輿を担いだりすることは?
  A:大事にしている神輿だから、よそもん(者)には担がせなかったと思う。
NEXT