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                    土屋の里めぐり
                   里山を訪ねる

                                訪ねる前に「土屋の地名」を知ろう・・・・・・・


土屋地区は平塚市で唯一の丘陵地で、関東ローム層からなる丘陵は多くの谷戸(やと)を作っています。谷戸から生まれた自然や人々の生活、そして数々の遺産(神社・寺院・道祖神・遺跡等)が点在しており、それらが豊かな里山を形成しています。
ここでは、土屋の里山らしさが出ている史跡や名所等をご紹介します。

[上惣領地区]
尼ケ滝(幅30cmで流れ落ちる滝は二段になっていて、上段は2m,下段hが6mで落差が8mある。上段の滝壷は近寄れず計測できないが、下段の滝壷は縦横直径8×6m、深さ2.8mある。(2001.7.1現在)。この滝は侵食によって移動し、その様相が刻々変化しており、非常に危険な場所なので案内人を必要とする。)
七国峠(土地の人は、ここを「高見台(たかんど)」と呼んでいる。「七国」の名称は、ここは非常に見晴らしのよい場所で甲斐・駿河・伊豆・相模・安房・上総・武蔵の七カ国が遠謀できたところからといわれている。)
七国峠の供養松(昔、土屋三郎宗遠はここに物見を置いて領内の守りにあたり、異変があるときには「のろし」を焚いて、一族(中村氏・真田氏・岡崎氏・二宮氏)に連絡したという。また、宗遠は石橋山の合戦や和田の乱で亡くなった息子達の供養にと伊豆や鎌倉が見えるここ七国峠に「供養の松」を植えました。現在は、枯死して現存しない。)
長兵衛茶屋(標高180mに位置する七国峠は、土屋で一番高いところにある。古来から丘陵地の尾根伝いに大磯・二宮方面に通ずる旧道(大磯街道別名塩汲街道)が走っており、交通の要衝でもあった。昔は、ここに長兵衛茶屋があって、大磯の国府祭(こうのまち)や吾妻神社、川匂神社の祭礼の時は,たいへん賑わったといわれている。茶屋付近には、大きな2本の松があったが枯れてしまい現存しない。平塚富士見CCのクラブハウス付近がその場所といわれている。)
富士塚(上惣領(矢沢)の富士講で、年1回浅間神社の石祠(富士塚)に参拝した。富士山を背に東向きに祀られ、霊峰富士を仰ぎながら参拝できる。この石祠は風格のある祠で、手の凝った屋根の正面には「東」という文字が刻まれている。)
愛宕山自然公園(平塚市の指定公園で、湘南の奥座敷に相応しい緑豊かな雑木林や谷戸が広がっている。春の桜の時期には、メジロ・シジュウカラ・ヒヨドリ等の野鳥や昆虫が待ちわびた春を花見のお客達と共に楽しんでいる。公園内には、愛宕神社もあり、春祭りの時期と合わせて、一層桜の花が輝かしい。)

[惣領地区]
駒ケ滝(標高80mの谷戸奥にある。通称「お滝さん」といわれ、以前は熊野神社の祭典に、神馬を清め流鏑馬を執り行ったことからその名がつけられたという。滝の中腹には「竜の石像」「清龍観世音」が祀られている。幅30cm,落差9m。)
ほたるの里(変化に富んだ谷戸が数多くあり、清水が湧き出る周りにはホタルの繁殖場所が広がり、幻想的な光を放ちながら飛ぶ姿が見られる。25年頃までは、住宅地近くの田んぼや小川でも見られたが、最近は全くその姿はない。自然が次第に失われていくことがはっきり分かる。大事にしたい。)
谷戸田の耕作(土屋は谷戸が多く、田んぼもその地形を利用したものが目立つ。谷戸の田んぼは、生態系に大きく貢献しており大切にしたい。最近は、農業後継者が減少し、なおかつ減反ということで田んぼも荒廃してきた。これからの問題として考えていかなければならない。)
大庭景親臣下供養碑(鎌倉時代の平家方の武将大庭景親が、頼朝の旗揚げ時にこの土屋を通過する際、戦いに遭い家臣が命を落としたのではないかといわれている。その供養にと地元の人が立てたもの。)
杜鵑山(とけんやま)の寶篋印塔(琵琶の集落から大磯町黒岩へ通ずる山道に杜鵑山がある。この道は「かまくらみち」ともいい、数多くの伝説がある。なかでも鎌倉時代、和田義盛が乱を起こした建暦3年(1213)の「和田の乱」に、土屋次郎義清は義のために和田軍に投ずべきか否か思い悩んだが、ついに敢然として鎌倉に赴き、北条の軍に痛撃を加え戦ったが、武運つたなく「流れ矢」に当って戦死した。この鎌倉援護の時、杜鵑山に出て磯伝いに鎌倉へと馳せ参じた。このときの様子を詠んだ「行こか鎌倉 戻ろか土屋 思いみだるる杜鵑山 いまも血に鳴くほととぎす」という古謡が伝えられている。一説によると、ここは土屋三郎宗遠の「よろい塚」ともいう。市内でも屈指のこの寶篋印塔は、高さ3.5m。他に2基の供養塔がある。寶篋印塔の左側面には「寒梅や 春待つわれは しおれゆく」正重84才 とある。)

[庶子分地区]
土屋の館跡(鎌倉時代、源頼朝の御家人として活躍した土屋三郎宗遠一族の館跡といわれている。館は起伏に富んだ丘陵をうまく利用して、北側は小高い丘を背負い、南側はなだらかな斜面が広がり、その先に座禅川が流れる。また、中村氏(土屋氏の実家)を中心とする一族が、一直線に配置される中間地点でもあり、有事の際は狼煙により一族相呼応する重要拠点でもあった。この付近には、当時の遺構が多数存在する。)
土屋氏一族の墓(館跡の西側の斜面中腹に、多数の五輪塔が立っている。毎年5月8日には、宗遠公の墓前において、念仏講により墓前祭が行なわれる。)
子育て地蔵(門前地蔵)(宗憲寺跡の一角に三体の地蔵様が安置されている。門前地蔵ともいう。門前とは、宗憲寺の門か又は近くの字大庭にあった館の門か、いずれかの門の前に安置されていたので、そのようにいわれたと思われる。)
袖切り坂(正福寺跡の近くにある。小石が多く、つまずいたり転んだりしやすく「転んだ時は、そこに袖をひとつ切って置いてくる」と言い伝えがあり,十分注意するようにという意味で、「用心坂」ともいう。坂を登りきった台地は、その昔流鏑馬をしたところで、矢が飛んでくるので、用心するようにという意味もある。また、この坂を登り詰めた左手に、字ヨウジがあり、ヨウジ坂ともいう。)
鉄砲馬場跡(熊野神社の東350mの台地に熊野神社祭礼の時に流鏑馬神事や競馬が行なわれた馬場があった。「鉄砲馬場」とも呼ばれる約300mの直線馬場で、馬場の東方から発し、途中の松の木にある的を射ながら西へと走り抜けた。当時はたいへん賑わったが、今ではその面影はない。)
牢屋敷跡と処刑場(館跡の裏山にあったという。水呑地蔵に隣接する形であったが、今ではその面影はない。)
源水横穴古墳群

[小熊地区]
水呑地蔵(みずのみじぞう)(館跡の西方約400mのところにある。中世の頃罪人の処刑執行直前に、末期の水を呑ませたといわれ、その供養として地蔵尊を祀ったという。この付近は、開発される前は、小高い山々に囲まれ鬼芝が生えていて、そこで念仏講の皆さんがご馳走を持ち寄り、子ども達を交えて念仏供養をして一日を楽しんだ。心にしみる念仏供養の鉦の音が聞こえた。春秋2回行なわれた。近くには、牢坂(ろうざか・別名堂坂)があり、その周辺には牢屋跡・処刑場跡・さらし首場跡等がある。)
さらし首場跡(小熊から三之塚を経て遠藤原へ抜ける途中の坂道に大きな杉の木があり、その辺りをいう。今でもここを通るたびに背筋がゾクッとして、小走りで通り抜けたくなる。)
腰郭(熊野神社・大乗院等の中世から栄えた一角を取り囲むように、その北側の竹林に土塁・郭等の要塞としての形体が確認できる。小熊集落の北側には、熊野神社を囲むように「蓑島氏」だけの屋敷や土地が存在するのも興味深い。
古井戸(腰郭の根元に沸き出でる清水がある。弁天さまとして、小さな祠が祀られている。干ばつの時には、ここで「雨乞い」をしたという。
物見の松跡(土屋の館跡北方の丘(大乗院東)に大きな松の木あったが、枯れてしまい今はない。別名「旗立ての松」ともいわれ、見晴台の役目をし、異変が起きるとこの見張りから館に通報したという。)

[遠藤原地区]
遠藤原(えんどうっぱら)(平塚市八景のひとつに指定されている。土屋一番の畑作耕作地で良質の土質で栽培された野菜(長ねぎ・人参・落花生・大根・白菜・キャベツ等)は評判がよい。以前は麦の栽培が盛んで、春から夏にかけて麦畑を住みかにした「ひばり」の囀りが大空を賑わせていたが、近年はすっかりその数が減ってしまった。)
大山灯篭(7月28日から8月15日まで、集落の人が当番で毎晩灯りを燈す。)
地蔵座像(享保年間(1716〜1735)に天災が続発し、農村恐慌に陥ったときで、村民の地蔵に対する願いがこのような形で祀られている。現在も、毎日お線香があげられている。)
三之塚(字長坂に三つの塚があるところからいわれる。現在は二つだけが確認されるが、そのひとつは直径10mの塚ではっきりした形をしているが、もうひとつはかなり崩れている。)
比丘尼(ビクニ)塚(その昔、この地を旅した比丘(仏門に帰依し、世俗をはなれ出家して修行する者)が行き倒れとなり、村民たちに葬られたといわれている。供養の碑が立っている。)
五十,六十塚(中世から戦国時代にかけて、この遠藤原一帯が戦場となり、多数のつわものが戦死してここに葬られたという。農地の開拓が進み、現在ではその形をほとんど見ることができない。)

[寺分地区]
寺分耕地田(谷戸の多い土屋で唯一金目川の恵みを受ける耕地田が、小熊下から寺分一帯に広がっています。度重なった豪雨による堤防の決壊によって、幾度となく砂利土に埋まった田んぼを掘り起こし掘り起こしして、今日の立派な耕地田にした、農家の人の並々ならぬご努力に頭の下がる思いです。秋の黄金色に輝いた田んぼは何とも言えず、平和で幸せを感じさせてくれます。)
土屋窪地下式坑(字土屋窪の雑木林の中に複雑な構造のめずらしい古墳がある。この付近は、「岩屋」から転じた「土屋窪」と呼ばれており、土屋の地名の起源ともいわれる。)
寺分の観音さん(正藏院の観音堂に如意輪観世音が安置され、延亨2年(1745)に観音参りが始まり、今では「寺分の観音さん」「安産の観音さま」として近隣の人々に信仰されている。)

[人増(ヒトフエ)地区]
忠魂碑(西南戦争以後太平洋戦争に至る間の戦争で、わが身をかえりみず国のために殉じられた当地区の「英霊のお名前」が石碑に刻まれ、誉れ高く祀られている。)
人増の館跡(水島氏宅一帯は、戦国時代に造られた武家屋敷の遺構が今も残っている。屋敷の周辺には、要害を施した「壕(ほり)」がめぐらされており、市内でも貴重な遺構となっている。現在でも屋敷の周りには、大きな木が立っている。早田の妙圓寺の開基月盛妙圓尼は、ここ水島氏の先祖である。)

[早田(ソウダ)地区]
土屋の弁天さん(相模の三代弁天のひとつともいわれている。妙圓寺の境内西側の一角に、第4世広然法印が開基の「弁才天 岩屋霊穴」があり、霊穴内には「和光山一隅の灯」として、「不滅の法燈」がともしび続けている。また、霊穴には、宇賀神を中心に金剛界・胎蔵界の両部の大日如来等多くの石仏が安置され、密教道場として威儀をただしている。千古の霊水をたたえた堀井が二ヶ所あり、これを「銭洗い池」「弁天池」と呼び、洗心の銘池となっている。この霊穴の山上には、弁天堂「寶珠殿」が建立されている。正月元旦には護摩が焚かれ、初巳には、初弁天がある。)


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・写真でご紹介

上惣領(矢沢)の
七国峠
惣領分の谷戸田
ホタルの里
庶子分の雑木林と畑    遠藤原の十三塚
小熊の古井戸 寺分の耕地田 座禅川下流と耕地        金目川


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