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        ・「寺分の献穀田(けんこくだ)」のおはなしへ
        ・「暴れ金目川の決壊と耕地田」の記録へ
・「七国峠の供養松」のおはなし (今泉義廣氏作 「むかしばなし 続平塚ものがたり」より)
  むかしむかし、土屋と吉沢そして生沢の土地を治めていた土屋三郎宗遠という武士がいました。
 宗遠には子どもがなかったので、姉さんの桂がお嫁にいっている、となりの岡崎に住む、岡崎四郎義実にたのんで、
 義実の二番目の子どもの次郎義清をもらい、あとつぎにしました。
  ところが、義清がもらわれて来てから、弥次郎忠光と三郎宗光が生まれました。
  とりわけ、義清と忠光はとても仲が良く、ほんとうの兄弟みたいでした。
  「弥次郎、今日は天気が良いから、いつもの峠へ行こう」
 義清は、ひまをみつけると弟の忠光をさそっては、土屋にある 「七国峠」 という、峠から見わたすと七つの国が見えると
 いうところへ行きました。
  二人はこの峠にすわって、まわりの景色をながめながら、仲良く話すことを楽しみにしていました。
  「次郎兄さん、ここから見える南の伊豆の国には、平家との戦いに敗れた源義朝様の子どもの頼朝様が住んでいる
  とか・・・・・」     「そうだよ。平家の武士たちにかこまれて、ずいぶん苦しいお暮らしのようだ・・・・・・」
  「それはかわいそうなことですね。わたしたちが、今に大きくなったら、頼朝様をお助けしようではありませんか」
 義清は学問が良くでき、忠光は力が強く、そして心がやさしかったので、家来たちは兄弟が成人するのを楽しみにして
 いました。
 兄弟がりっぱな若者になったころ、 伊豆の国で源頼朝が、平家をたおそうと、近くに住んでいる武士たちを集めました。
 土屋宗遠も頼朝に味方することになったので、兄弟は喜び、父親といっしょに行くことになりました。
  頼朝にしたがって、石橋山というところで平家の武士たちと戦いましたが、 なにしろ敵は多く、たちまち負けてしまい
 ました。
  忠光は父と兄を助けようと、大声で言いました。
  「早く逃げてください。わたしがあとに残り、追ってくる敵をふせぎますから・・・・・。早く、早く・・・・・・」
 忠光は残り少ない家来を集めて、むらがる敵の中にむかって行きました。
  「弥次郎、戻ってこい。死んではいけない・・・・・・・・・」
  しかし、義清の声がとどかぬうち、忠光は矢にあたって死んでしまいました。
    (注:治承4年(1180)8月23日の「石橋山合戦」(頼朝の旗揚げ)で、忠光と義清の実兄真田与一義忠が戦死)
  それから、 石橋山で敗れた頼朝は、また味方の武士たちを集めて、なんどかの戦いののち、 とうとう平家をほろぼして
 鎌倉に幕府をひらき、世の中を平和にしました。
 土屋にかえった義清は、自分たちを助けてくれた弟のことを思いだすと、胸がはりさけるように悲しくてなりませんでした。
  そして、ひまさえあると、 忠光と楽しく語り合った七国峠へ来ては、はるか南西の方にある石橋山のあたりを眺めては、
 涙をながすのでした。
  父の宗遠は、義清の悲しそうな姿を見て、 いっそのこと土屋をはなれたらと思い、義清をつれて鎌倉に住むことにし
 ました。
  それからまた 何年かたって、義清は大学助(だいがくのすけ) という役人に出世しましたが、鎌倉の武士たちの争いに
 まきこまれて、死んでしまいました。
                 (注:建暦3年(1213)5月2・3日の「和田の乱」に参戦し、流れ矢にあたり戦死)
  あとに残された宗遠は、かわいがっていた我が子や家来たちが、戦いなどの争いにまきこまれ、死んだり傷ついたりする
 世の中がつくづくいやになり、領地の土屋にかえり、静かにくらすことにしました。しかし、七国峠を見るにつけ、兄弟の
 ことが思いだされてなりません。
  そして、供養のために、峠に松の木を植えて、死んだ兄弟や家来たちをねんごろにとむらうとともに、のちの人びとが、
 こんなつらい思いをせぬようにと祈りました。
  この松の木は、のちに大きな木になりましたが、今はありません。 あったころは、「七国の供養松」といって、村
 人たちや通行する人びとに親しまれ、峠を越える人は、かならずここで休んだそうです。
・「寺分の献穀田(けんこくだ)」のおはなし (杉山憲三様と関野積夫様の会話より)
  昭和15年は日本でいう紀元2600年で、百年一区切りということで、記念す べき年でした。(「日本でいう紀元2600
 年」は、西暦1940年です。 日本では明治5年(1872)に、神武天皇が即位された年を西暦紀元前660年と定め、こ
 れを皇紀元年または紀元元年と呼んだ。今では用いていない。)
関野積夫様は、小学校6年生で、この年に「献穀田」を見学しました。
この「献穀田 (土屋字根下1443番地付近) 」は、故安池肇様の所有地で、当時氏は土屋の農業会長で、五穀豊穣
米を作り、宮内庁へ献上しました。
昭和15年6月中頃、献上米を作るために、故安池肇様・杉山憲三様宅前の田 (前記土屋字根下1443番地付近、
今では道路の拡幅と埋立てにより畑となっている)、およそ3畝(297平方メートル)位の土地に、注連縄 (しめなわ)を
張り、神主がお清めをした後、烏帽子に白装束姿で膝の上までまくり上げて縛ったたすき姿の数人の男が、厳かに田
植える儀式を行ない、早苗を植えている情景を見学しました。
この儀式に参加した人は、不動の姿勢で私語は勿論禁止、近所を通る人もそのまま通り過ぎることも許されませんでし
た。
田植え後は、大切に育てられ収穫されました。
収穫された新米は、10月17日の神嘗祭(かんなめさい)におよそ5升(9リットル)位を故安池肇様夫妻が手にさげて
、宮内庁へ献上しました。
献上米は、大手門から入って行ったが、 ここでの皇居の護衛をしていた近衛師団 (このえしだん) に杉山憲三様が
入隊していました。近衛師団は、不審者、特にスパイの侵入を昼夜交代で見張っていました。
こうした「献穀田」は、全国を一年交代で回っていたそうです。
この寺分の「献穀田」は、昭和20年の敗戦と同時に廃止されました。
・「暴れ金目川の決壊と耕地田」の記録
平塚秦野線のバスで 「土屋橋」バス停で降り「土屋橋」を渡り終わると、目の前には西は小熊下から東は寺分下まで
耕地田が広がっています。ここは、秋ともなると見事に実った黄金の稲穂が波打ちます。昭和の中期までは“土屋唯一
の米どころ”でした。 ここの米どころは、金目川の南側に位置し、金目川の水を直接田に引き入れることによって田より
米を得て、一年の生計の糧としていました。相模川がこの地方の“母なる川”であるとするなら、金目川はこの地域の農
村の“生命線”であったといえましょう。したがって、比較的川底が高く荒れ川に属する金目川の流れは、この地域の農
民にとって、大変気になることでした。
大雨が降ると、すぐに堤防が欠けたり、切れたりしました。そのため村人たちは、洪水に悩まされせっかく丹精込めて
作った稲も、一夜のうちに流されてしまうことも度々でした。 その上、50余年に一度の割で大きな氾濫があり、大被害
に見舞われました。こうしたことから、村人たちは、いつとはなしに‘暴れ金目川’と呼ぶようになりました。
昭和13年(1938) 8月31日から9月1日にかけて襲来した台風は、八丈島付近を北上し、三浦半島を通り関東を縦
断して秋田にぬけました。この台風の雨量は、平野部で200〜400mm、西部の山間部では400〜800mmに達しま
した。 このため各河川は、警戒水位を突破して新記録をつくり、県内の堤防は、至る所で氾濫、決壊し冠水地域は30
kuを越えたといわれています。 (毎年、立春から210日目の9月1日頃を‘二百十日’、220日目の9月10日頃を‘二
百二十日’と云って、台風の来襲や自然災害の多い頃として誰もが恐れられる時期でした。)
相模湾に上陸したこの台風は、大山・丹沢山系に記録的な大雨を降らせました。葛葉沢に流れ出した雨水は葛葉川
を増水させ、蓑毛に流れ出し増水した金目川に合流し、さらに本谷沢に流れ出した雨水は水無川を増水させ、金目川
の本流へと流れ込みました。 夕方7〜8時頃どしゃ降りになり、一気に警戒水位 を上回りました。
家々では、家中で雨戸に添え木をしたり、風に飛ばされそうな物を縛り付けたり、片づけたりして台風に備えました。
勿論停電していましたので早めに夕食は済ませました。 ある家では、土間に積んであった米俵を、大黒柱にロープを
掛け、2俵梁に吊り下げ台風に備えました。
寺分集落の水防対策は、集落に一つしかない半鐘で知らされました(この半鐘は今の四つ角に火の見やぐらがあり、
それに吊るされていました)。 半鐘を鳴らすのは、消防役員の係りでした。 警戒や出動、その他の通報は、半鐘の鳴ら
し方で決められていました。‘言い継ぎ’という手段もありましたが、非常時の場合はこの半鐘で知らせていました。
当時、寺分集落では50戸位しかないので、半鐘が鳴るとどんな家でも一家一人以上の出動が義務づけられていまし
た。また、水防の時は、土嚢用の空き俵を持参するよう事前に‘おふれ’がありました。 集落の人たちは、それぞれ空き
俵を持って集会場所に出向き水防にあたりました。婦人会は炊き出しをしたり、おにぎりや漬物の用意をしたりして、腹
ごしらえの労にあたりました。
風は吹き続き、雨は降り続き、金目川の水かさは刻々と増えつづき警戒水位を上回っています。 消防団の人たちや
村人たちは、心配でカンテラを手がかりに、堤防の様子を見廻っています。 小熊下から寺分下滝沢付近まで隈なく見
廻り、決壊の危険箇所は早めに応急処置をしています。どしゃ降りの中、山から木を切り出しカワクラ(川倉)を組んだり、
ジャカゴ(蛇籠)やナガシ、土嚢を用意し危険箇所に放り込み、補修に懸命でした。
夜半になってやや小降りになりはじめました。「このぶんなら今夜は大丈夫そうだな (金目川の堤防の決壊は防げそう
だな)。」、そんな小声が出はじめると、みんなの疲れがドット出はじめました。あたりの様子を見ながら、一息つき休んで
いると、だれが云うともなく「今夜は大丈夫そうだな・・・」 「一旦引き上げて様子を見ることにしたら・・・」、こんな声も出は
じめました。 この場の総責任者であろうか、古老が「今夜のところは、このままいきそうだから、これで様子を見ることにし
よう。ひどくなったら、すぐに集まるように。」 という声がかかり、だれもが心配しながらも、疲れが半分、これ以上どうしよ
うもないという気持ちで、三三五五家路に急いでいました。
堤防の切れたのは真夜中らしいので、誰も確認できませんでした。
当時は、今のように気象情報などが普及していませんでしたので、ほとんど長年の経験からの判断です。大山に雲が
かかると雨・・・・、富士山に雲がかかると風が強くなる・・・・などと判断した程度でした。 この日は、前日までの雨が山間
部に降りつづき、平野部はそれほどひどくはなかったので半ば安心していましたが、山間部に降った雨が、一度に金目
川へ流れ出し増水したものと思われます。
朝の5〜6時頃に風雨は収まったが、 「ゴー・ゴー」 という水音で驚いて裏の生垣根から県道の方を見ると、目の前の
道路から土屋橋方面まで、一面の濁流でその巾およそ300m位、今までに見たことも、聞いたこともない大川が一晩に
して現われました。実に金目川が完全に土屋耕地水田の上を流れていました。
今の 「欠の上人道橋」の南側下流付近、およそ50〜60間 (約100m)にわたって決壊し、金目川の濁流が本流とな
って、ほとんどが字宮ケ崎に流れ込みました。 根岸、六反田、上川原、二桝免、中川原、根下、粟久保、五反田、石
浜、入宇田まで、いわゆる “土屋唯一の米どころ” 一帯が水浸しとなり、土屋の耕地田は一夜にして川原化となってし
まいました。
座禅川はもちろん氾濫してしまいました。宮ケ崎方面から流れてくる濁流と、金目川の滝沢付近の川底が高いためそ
の下流へ流れにくいので、座禅川の方へ逆流してくるのとが合流し、 耕地田一面が水浸しとなり湖水のような状態でし
た。四つ角付近の家はみな水浸しでした。
朝の7時頃、ここ四つ角の豆腐屋の屋根で二人の女性が助けを求めていました。 これに気づいた若者が体にロープ
を巻き付け、濁流の中へしぶきを上げながら駆け寄り県道沿いに助け出しました。その隣で飼っていた子牛が、紐でつ
ながれたまま水死していたり、生後1年位の子牛が流されて100m先で水死していたりしていました。
だんだんと明るくなると、あちらこちらから村人が、まさかといった驚きの表情で大勢集まってきました。 消防団、女子
青年部、婦人部など、土屋はもちろん、吉沢まで、それこそ村中総動員で復旧作業にあたりました。
決壊箇所は宮ケ崎で、水害の広さは、宮ケ崎から入宇田まで約20町歩位 (約20ha) が冠水し、一部土屋橋際より
下流50〜70m位は残されました。
危険を承知で決壊場所に集まって来た人たちは、古老の指図で、カワクラ作りや土嚢作り、ナガシの準備等の作業に
分かれて、決壊箇所からの濁流止めの作業に取りかかりました。
ある人は山に行き、カワクラの丸太を切りナガシの木を切り、リヤカーで、またみんなで担いで運び出しました。 また、
ある人は、土屋橋は流されてしまっていたので、ロープを向こう岸に投げて縛り付け、 このロープを頼りに川を渡り南矢
名まで酒を買いに行きました(酒を飲んでいると、泥水を飲んでも吐き出してしまうから、病気にならないと云われていま
した)。
組み立てられたカワクラを濁流のど真ん中に立てる仕事が、それこそ死にものぐるいの作業です。 カワクラを組み、あ
たまを8番線2本で縛り、他方を川上の土手に打ち付けた杭にしっかり縛りつけます。 そのカワクラに5〜6人の越中褌
や股引姿の若者が乗り (カワクラが濁流の中に立ったとき、流されないための重しとバランスとりをするのです)、そのカ
ワクラを、カワクラに対して経験豊かな古老の指図に従って、大勢で押して濁流のど真ん中に立てて流れを弱めるので
す。この作業に失敗すれば、乗っていた若者は流されてしまうのです。文字どおり死にものぐるいです。 このままですと
人が降りると流されてしまいますので、その上にカマスや俵で作った土嚢を素早く載せて、カワクラが流されないようにし
ました。
カワクラを仕組み、ナガシをかけて流れを変え、決壊箇所の流れを弱めると、そこへ、待ち構えていた若い者が、担い
で来た土嚢を放り込むのです。 最初の土嚢はいくつか流されますが、何回か繰り返し放り込んでいるうちに、土嚢がだ
んだんと高くなり、ようやく大きな流れは止まったものの、小さい流れがありますのでまだ気は許せません。
ようやく決壊箇所の応急処置はできたものの、流れを変えた影響でほかの箇所が危険になり、 それらの処置もやらな
ければなりません。
ほとんど一日がかりで水止め作業をしましたが、金目川の滝沢付近の川底が高いため水がなかなか引きませんでした。
それでも、浅瀬の流木や木材、ごみなどを片づけはじめる人もいました。
一日たった次の日、ようやく水が引きはじめました。 宮ケ崎から上川原にかけて約3町歩位(約3ha)が、金目川から
流出した砂利や石で埋まりました。大玉石などで埋没し、深さ70〜80cm位のところもありました。 根こそぎ流されてき
た大小の木々や木材、石などがごろごろとしており、 ようやく穂を出しはじめた稲は、石や砂利、沼の下敷きになり、為
すすべもない状態でした。
村人たちは、昨日の水止め作業の元気はどこへやら、ただ茫然と立ち竦みあたりを見まわしているのみでした。そうし
た中でも、一人二人は沼の中から稲を立ち上がらせたり、大きな石を抱えて土手の方へ運び出したり、根のついた木を
引きずっていたりしている人がいました。耕作者であろう、手のひらに乗せた稲穂をながめ、ただ唖然と立ち竦んでいる
人もいました。米から得られる収入は、農家にとって一年間の生計を支える一番大事な収入源なのです。
‘一年間どうやって食いつなごうか・・・・・’という不安でいっぱいだったでしょう。 金目川周辺地域の農家は、度重なる
洪水のため村は疲弊し、この時代の「百姓」は120軒から58軒に減少したという記録も残されています。
そのうちに、あちらこちらで、石を取り除いたり、流れてきた雑木などを取り除く人たちがだんだん増えてきました。
村役場は、区画整理し天地返しの準備に入りました。 約3町歩位(約3ha)の埋没地は、均平に区画され杭が打たれ
ました。村人たちは、砂利鎌 (水で締まっている土砂を欠き崩す道具)や鋤簾 (土砂を掻き寄せる用具)を使って天地
返し作業を始めました。 5畝 (約5a )割りの田を約10間 (約18m)巾で2尺5寸(約80cm)ずつ砂利、土砂をかき削り
盛り上げ、その上に下の元の土を載 せていきます。一日に3畝(みうね、ここでは約3m弱)位しか進まなかった。
子どもも年寄も、砂利鍬を担いで毎日田んぼに出てきました。 どこの家でも、元の田んぼに復元しようと一生懸命でし
た。ようやく田んぼらしきなるのに2ヶ月位かかりました。
尋常高等小学校高等科の生徒も動員され、大勢の手伝いの人が参加しました。 やっと持てるほどの石を抱えて、土
手の方へ運び出す小さな子どもたちもいました。
当時は、石や砂利、流木物を運び出す機械などは全くなく、すべて人の手であり、シャベルや鍬で掘り起こし、モッコ
やパイスケ、リヤカーで運ぶ程度でしたが、唯一能率的に運搬できるのがトロッコでした。 何日かすると、レールを敷いた
トロッコが設置されました。 大きい石、小さい石を載せて後押しをして運び出しました。 空のトロッコは子どもが押したり
もしました。
このような手段で流出物を運び出しながら、金目川の土手を築き、畦道 (あぜみち)らしきものを作り、一応田んぼらし
き姿を見せ出したのは、その年の暮れ頃でした。
堤防の構築工事は県の河川管理課が、水害から一週間位たった頃から杭打ちを始め、逐次土砂堤防改修を始めま
した。 勿論南側は土砂のままで、北側は竹ジャカゴが並べられ石詰めで仮堤防ができ、年内には出来上がったようで
した。
江戸時代から50〜60年に一度は決壊したと云われた金目川で、今回は50有余年の大きな災害のひとつであったよ
うです。
この耕地田での生産米を主食とする農家は、堤防が築かれ水が引くと埋まった稲は獲れないが、冠水した程度の土
地には稲の青実が目立ち、10月に入ると僅かながらの稲穂を刈り取りました。ある家では、2反7畝(約27a)全部が砂
利の下で一粒も獲れませんでしたが、主食は他の場所の収穫で一部不足しましたが、辛うじて確保はできたということ
です。
道路や橋を補修し、田んぼの水路を整え、翌14年6月ようやく改修した田んぼに水が引かれたが、一株一株手で押
さえて、田土を寄せ集めながら2反7畝(約27a)の水田を10日近くかかって田植えを済ませました。 秋には、反当り(
10a当り)3俵位 (約180kg)しか獲れなかったが (例年だと反当り7〜8俵(約420〜480kg) )、この時の米の味は、
何とも云えない‘生’への喜びを感じたそうです。
同年、金目川の護岸が水門改修と同時に、簡易コンクリート斜面打に改修され、その後、出水の度に小規模補修工
事が行なわれ、平成時代に入って現在の川巾に拡幅され、水門も移動され現在の位置になったのです。
昭和41年より、この地域を中心に水田の地下に砂利の層が相当深くあるというので、業者が採集を始めました。 約7
年がかりで採り終わり、コンクリートの近代的な水路に改修されました。今年度は最終年度で、寺分耕地約25町歩(約
25ha)の区画整理が完成されます。
明治の終わりから大正の初期にかけて、区画整理が実施されましたが、農村の疲弊で登記未了でした。昭和45年3
月に草山測量に登記を依頼し、現在登記署にある登録が実に60年ぶりに完成をみて、登記が完了して(市資産税課
平成13年9月)現在の‘公図’となったことを記しておきたい(安池元治様)。
尚、昭和41年以前の公図は、閉鎖の土地謄本として登記署にあるようです。
今では、その当時(今から63年ほど前)の水害の面影など全くありませんが、その時の状況は、それこそ筆舌に尽くし
難い被害でした。
今日の宮ケ崎から寺分下にかけての耕地田は、63年前の被害など想像もできないほど見事に整備されています。こ
れは、その当時の人たちが、二度とこのような被害を繰り返さないように行政等にはたらきかけながら、護岸の補強、水
路の整備、田んぼの区画など理想とする耕地田を描き、 黙々と努力をつづけてきた結晶であり、後世に残された宝物
であると確信します。
<資料提供者:安池元治様、杉山憲三様、安池治三郎様、そのほか多勢の方々(順序不同)>
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